第3話 ヨハネ・ヴェアウルフ

 あれからどれくらいの時間が経過したのだろう。

 争いに疲れた僕がこの山に引きこもってから。


 元々僕はパンが作れればそれでよかった。

 恩師トスカー・ブルートの僕人として、彼の店で働くことだけが僕の幸せだった。

 だから僕は彼を護ろうとして戦場に志願した。お国のためにと食料補給部隊に参加した彼を放っておけなかったからだ。

 そんな僕を国が調べてみたところ僕には才能があったそうだ。護国のために作られた最新兵器のオペレーターとして僕は雇用された。

 僕は補給部隊、タムラ大隊ブルート小隊の防衛機ヴェアウルフを駆って、トスカーさんを護り続けた。その甲斐もあってか、僕もトスカーさんも、あの戦争を無事に生き延びることが出来た。

 パンを焼くための腕で船や飛行機を乗り手ごと破壊したことは心苦しかったが、それでもトスカーさんを護る為ならば僕はいくらでも汚れられた。

 だから僕はその後の紛争では隠れることしか出来なかった。僕を匿ってくれたトスカーさんが病に倒れ、そして僕を匿ったことが原因で迫害をうけた彼が息を引き取ったからだ。

 死に際でも彼は自分を蝕む病に恨み言を述べるだけで、僕を責めることはなかった。

 むしろ僕のせいで満足な治療も受けられないのではと案ずる僕を叱りつけて「お前は悪くない」と僕を励ましてくれた。

 最後まで僕のために無念を隠してくれたのか、それとも本心から自分の人生に悔いを残していなかったのかは僕にはわからない。

 どちらにせよトスカーさんがいない世界に未練が失くなった僕は、僕を追う敵も味方もすべてが僕に関わらないように逃げ続け、そしてこの山にたどり着いた。

 地理には暗い僕ではあるが、それでもこの山のことは知っている。この国で神のように崇められる霊峰。そのなかでも最も霊力に満ちていると言われるシホウである。

 思考の盲点と言うやつであろう。

 この山は貴重な隕石が存在することから戦時中には重要拠点とされていたのだが、戦後の紛争が続くうちにそれらがすべて回収されてしまったことで、この山に踏み込むものは少なかった。

 時折訪ねてくるのは山の恵みを求める地元住民か、一攫千金を求めて公には枯渇したと言われる隕石を探すトレジャーハンターくらいのもの。

 僕を殺そうとするアンタイ■■■■■■も、僕を仲間に引き入れようとする■■■■■■も、この山には入らなかった。


 引きこもり生活をするなかで暇をもて余した僕は、再び誰かのためにパンを焼くための準備を続けていた。トスカーさんを失った僕に残った最後の存在意義がそれしかないのだから、僕には他にやることがないのも当然だろう。

 だが山の中では肝心の小麦は育つはずもなく、どんぐりなどで代用したパンはどうも味気ない。それにそもそも僕が迫害された経緯を考えれば、僕の焼いたパンを食べてくれる人間などこの国にはいないのだからすべては徒労なのだろう。

 それでも僕は山奥でのパン作りをやめなかった。

 在りし日のトスカーさんに思いを馳せながら、在りし日の日常をトレースすることしか僕にはやることなどないのだから。


「この匂いは?」


 そんなある日、僕は懐かしい匂いを嗅ぎとった。

 小麦が焼ける香ばしい香り。

 真っ白に精製された上等小麦が焼けるこの匂いを嗅いだのは何年ぶりであろう。

 僕はこれまで山を訪れた人間には極力接近しないでいた。そもそも人間から逃げるためにここに来たのだからさもありなんだが、この匂いにだけは抗えない。

 見たところまだ大人の階段を昇る前の少女である。あのくらいの年齢ならば僕の正体さえ知られなければ、攻撃を受けることは無さそうだ。

 周囲を確認しても他には誰もいないので、どうやら彼女はひとりのようだ。

 久しぶりすぎて緊張する心を御しながら、僕は彼女に近づこうと歩み寄る。


「おっと。気をつけて」


 そんな彼女は焚き火の中に入れていたパン型らしきものを滑らせて落としかける。あの型の中に入ったパンが転がり出て灰まみれになったら台無しになってしまうと、僕はとっさに受け止めていた。


「こんにちはお嬢さん。こんな山奥でひとりソロキャンプとは珍しいね」


 これが僕と彼女───ミレッタ・アマネとの出会いだった。

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