北村 悦子(キタムラ エツコ)の場合⑤

「だだいま、帰りました。」

「お帰りなさいませ。」


婆やが出迎えてくれたが、言葉かけもせずにすぐに自室に駆け込んだ。


婆やは何事かと、私を目で追っていた。


自室に入ると、バッグを放り投げ、ベッドに飛び込む、しばらく顔をベッドに埋めたあと、仰向けになり、今日のデートを朝からなぞる。


夜景までたどり着くと、奪われた唇を指でなぞって、その感触を思い出した。


ゆっくり目を閉じて銀次さんのあらゆる表情を思い出す。


「大好き」


独り言をつぶやいてしまうほど、もう、心は彼に奪われていた。



三度目のデートは、冒頭で話した首都高をドライブしながら、本牧にある銀次さん馴染みのバーで米兵の友人たちに私を紹介する場面になる。


「俺の可愛いステディだ。」


何人かの米兵や一緒にいた日本人たちから指笛や歓声が上がり、それを受けて銀次さんが私の肩を抱いた。


ちょっと驚いたけど、ここでひるんではいけないと思い、逆に銀次さんの肩を抱き返して、頬にキスをした。


今度は銀次さんがびっくりした顔で私を見つめ、ニヤリと笑うと私をお姫様抱っこをして、その場で回り始めた。


勢いで振り落とされないように、銀次さんの身体にしがみついた。


銀次さんは回りながら私に微笑みかけ、


「やっぱり君は最高だよ!」


と言った。



「今日も最高に楽しかった!」


私は素直な気持ちを銀次さんに伝えた。


「今日も最高が更新できたかな?」

「of course!」


「ははは、本当に君は素晴らしい!」


銀次さんといると、普段の自分とは違う自分が身体を支配するような気がして、とても大胆になれる。


店の外はすっかり夜のとばりが下りて、埠頭には少しだけ霧がかかっていた。


いつものように彼のエスコートでオープンカーに乗り込む、私がドアが閉められるのを見越して前を向こうとした瞬間、彼はドアを閉めずに、グイッと持ち上げるように私の体を抱きしめた。


そして、間近で私の顔を見つめると、ゆっくりと私の唇に自らの唇を重ねてきた。


いつもは少し荒々しいくらいのキスをする銀次さんが、今日はとても優しく、ゆっくりと私を包み込むようにして長いキスをされた。


「悦子さん…」


唇は離れたが、ほんの数センチの距離で私の顔を見つめながら、私の名前を呼んだ。


私は長い甘いキスのせいですぐに反応できなかったため、黙って見つめ返すと


「結婚してくれませんか」

「え?」


「結婚…したい」


いきなりのプロポーズに言葉を失った。


「初めて君と出会った瞬間から、僕はこのセリフを君の前ですることを確信していたよ」

「……」


「もう一度言う、結婚…。」

「待って!」


「……。」

「待って…ください。」


「……。」

「私も、銀次さん…あなたに惹かれてます。」


「……。」

「あなたといるだけで、とても幸せで、夢の中にいるようで…。」


「じゃあ…。」

「でも!」


「……。」

「でも、まだ、わからないことも沢山あって…。」


「……。」

「少し…少し考えさせてください。」


銀次さんはその後も優しくエスコートしてくれて、きちんと私を家まで送り届けてくれた。



「何を迷うことがあるの…。」


ベッドにうつ伏せになり、顔を埋めて自分に言い聞かせるように独り言を放つ。


優しく素敵な彼。


たくましく、でも、スマートな彼。


仕事だってしっかりしてる。


風体ふうていはイマドキの若者だけど、根は真面目で真剣に私のことを考えてくれている。


何が不足?


ううん、何も不足なんかない。


ただ、何かわからない不安な気持ちが、私に迷いを起こさせている。



「え?プロポーズ⁈」

「…うん。」


「やったじゃない!」


喫茶店の客が一斉にこちらを見た。


「ちょっと、美智子さん。」

「あっ…コホン、失礼。」


客たちが一斉に向き直る。


「ちょっと悦子さん、いつのまにかそんな深い仲に?」

「そ、そんな深い仲というわけでは…。」


「深くない仲でプロポーズはないでしょう。」


美智子さんはぐっと顔を近づけてきて


「で、返事は?」

「…それが…」


私が迷ってることを話すと


「あり得ない、銀次さんはあなたにゾッコンで、プロポーズをしたのよね。」


私がうなずくと


「悦子さんも銀次さんのことは好きなのよね。」


さらに頷く。


「何の問題があるの?好きな者同士がお互いの気持ちも通じていて、プロポーズを迷う理由がどこにあるの?」


確かに美智子さんの言う通りだ。何も二人の間には問題はない。


でも、私には一つだけ大きな懸念がある。


「ひょっとして、お父様?」


黙って下を向いてしまう。


「ふぅ。」


察してくれた美智子さんが大きな溜め息をついた。


「確かに難関ですわね。悦子さんのお父様は税理士であり、今や東京税理士会の会長でもある名士ですものね。」


「父からはいつも『おまえの婿は私がしっかりした男を選ぶからな』と常々言われてるの。」


「そう言ってたわね。でも、もう戦後10年よ、戦前みたいに父親が決めた許嫁いいなずけなんていう時代じゃないわ。恋愛は自由よ!」


再び客たちが一斉にこちらを見た。



家に帰り、自室で再びよく考えた。


確かに父はずっと私を可愛がってくれたし、私も父を尊敬している。


でも、結婚は私自身の大切な人生。


決めるのは私。


そう、これからは女だって主張する時代よ!

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