岡村塔子(オカムラ トウコ)の場合③

そして冒頭の場面になるのだが、付き合い始めて二年、流石さすがに最近は弘樹もただ嵐が過ぎるのを待つだけでなく、理不尽と感じたことには、反論をするようにはなっていた。


「だいたいどうして、トイレに手拭きタオルを置かないのよ」

「だから、トイレの中では手を洗わないで洗面所で洗うからだよ」


「だからそれが汚いって言ってんの!」


要はこうだ。


私はトイレで用を済ますと水洗トイレの蛇口から出る水で手を洗うため、そこに手拭きが必要でタオルを置きたい。


私はトイレの内と外では空気そのものが違っていて、トイレの中は“不浄”として、そこでの汚れはそこで落とし、外の世界には持ち出さないことを原則としている。


一方弘樹は、トイレの水洗では石鹸を使えない(使うとタンクに貯まった水が濁りタンクにも悪影響が出る、と信じて疑わない)から水だけで洗うのは不潔だからちゃんと洗面所で石鹸で手を洗う。

そのためトイレの中にはタオルは必要ない、と言う。


端から見たら本当に“どっちでもいい”ことだが、当人たちは至って真面目に議論していた。


でも、こんなことでしょっちゅうケンカをしている、いや、ほとんど9割は私がいちゃもんをつけて、ふっかけているのにどうして弘樹は私と別れたい、と言わないのだろうか。


「弘樹」

「ん?」


「あのさ…」

「うん」


「どうして弘樹は私と別れないの?」

「え?え?塔子は俺と別れたいの?」


「あ、いや、そうじゃなくて。

ほら、私たちって会うとケンカばかりで、ここ半年くらいはケンカしていない日のほうが少ないくらいだと思うの」

「……」


「いい加減、嫌にならない?」

「塔子は嫌になってる?」


「え?私は……嫌になる権利がないっていうか、ほとんどは私がケンカを始めてるから、言えた義理じゃないし」

「その自覚はあるんだ」


弘樹はにっこりと笑い、嫌味なくそう言った。


「そりゃ、私だってバカじゃないんだから、それくらいの自覚はあるわよ」

「……」


「だから、なおさら弘樹は嫌にならないのか、世の中にはもっと素直でかわいい女の子が山ほどいるのに、そっちに目移りしないのかって思ってる」

「充分……」


「え?なに?」

「充分、素直だよ」


「え?……」

「素直っていうのは、自分の心に正直だということだよね。

つまり、自分の気持ちを包み隠さず表現するってことでしょ」


「……」

「そうとらえるなら、塔子ほど素直な人はいないんじゃないかな」


「……」

「そして、俺はその世界で一番“素直”な塔子が好きなんだ」


「弘樹……」

「だから、俺から別れるなんてありえない。いや、塔子が別れたいって言っても別れない」


「それじゃストーカーだよ」


言いながら涙を流していた。


ウルウルの私を抱き寄せると優しく私の頭をポンポンとしてくれた。


こだわっていたのは自分、おそらく、仕事の場でも、弘樹以外の友達や知り合いと接している時でも“いい子”でいようと意識していた。


なるべく人には迎合して波風を立てず、無事にその時間が過ぎればいい、ずっとそう考えて生きてきた。


だから、その反動で心を許していた弘樹に甘えて、つっかかっていたのだと思う。


すべて弘樹には見抜かれていた。


こんなひねくれ者の私を何の条件もなく受け入れてくれている。


「結婚したい」


心からの素直な気持ちで言ってしまった。


「え?え?逆プロポーズ?」

「そう。ダメ?」


プロポーズは男の人がするものなんて、世間の勝手な思い込み。


本当にそう思ったから素直にこの言葉が出た。


弘樹はにっこりと笑って私の手を取ると


「よろしくお願いします」


と言って深々と頭を下げた。

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