古田由緒(フルタ ユイ)の場合②

でも違った。


彼と付き合い始めてから八年が経ち、私も二十八歳、彼は三十六歳になろうとしていた。


その春に私たちは突然別れた。


喧嘩をしたわけではない。

お互いが嫌になったわけでもない。

また、世間でよく言われるような

「長すぎた春」

という感じでもなかった。


強いて言うなら

「お互いの環境が変わった」

ことが、要因だったかもしれない。


彼と別れる2カ月前、父が死んだ。


私は妹と母と父の4人家族だったから、彼と付き合うまでは唯一の身近にいた男性が父だった。


父は、粗暴な人だった。手こそ挙げなかったが、私や妹は何かと父から罵声を浴びせられ、理不尽なことも言われた。


特に思春期になって私たちが反抗的になってからは、よりその言動がひどくなり、妹と二人で一度だけだが「父を殺そうか」という話をするほど、父との関係は壊れていた。


ただ、そうしなかったのはやはり、母にはそんな父でも、大事なパートナーだったから、父のことを大事に考えていた。


また、父も母にだけはそういう罵詈雑言ばりぞうごんをいうことはなかった。


このような父以外に、他に男性を知らなかったから、父=男として思っていたので、その影響もあって男性に興味が起きなかった、いや、男が嫌いだったのかもしれない。


そんな父が彼と別れる一年前に「がん」であることが、わかった。


突然血を吐いて倒れ、病院に運び込まれ、検査をしたところ末期の胃がんだった。


父には「胃潰瘍」と伝え、最後までがんとは言わなかった。


父は、気が強いことをいうが、その内面は小心者だった。


がんと分かれば生きる気力を失って、余計に死期を早めるだろうと思い、あえて言わなかった。


それからちょうど一年、父は(おそらく)最後までがんとは知らずに亡くなった。


父の葬儀も終わり、四十九日も済んだ時、夜、独り部屋で父のことを思い出し、葬式でも流さなかった涙を初めて流した。


父への郷愁というより、人の命のはかなさに、お腹のあたりにポッカリと大きな穴が空いたような感覚に襲われ、その空間から空気が押し出されるように込み上げてきて、涙が止まらなくなり、声を上げて泣いた。


そして、急に独りでいることが怖くなり、翌日彼にあった時、自分から「結婚」の話をした。


すると彼は、迷うことなく


「まだ、したくない」


と一言でその話を終わらせた。


私もそのまま言葉が続かなかった。


そして、この一言で、


「この人とはもうやっていけない」


という、気持ちが本能的に湧き出てきた。


一週間後、私から別れを切り出して、そのまま連絡を取らなくなった。


彼からは何度も電話やメール、家電にまで、連絡がきたが、一切返しもせず、話すことはなかった。


この話を同僚にした時


「八年も付き合ったのに、それはひどい、電話くらい出てあげなよ」


と私の行動を否定された。


その時、


『この気持ちはおそらく(誰にも)理解されないのだろう』


と思った。


私からすれば、八年も付き合ったのにひどい仕打ちをしたのは彼の方だと思っている。


私があの時どんな気持ちで結婚のことを切り出したか、もし、彼が理解してくれていたなら、ああいう返事にはならなかったはずだ。


あの時、彼から「結婚しよう」という言葉を期待していたんじゃない。


一言でもいいから慰めて欲しかった。


黙っててもいいから私を抱きしめて欲しかった。


ただ、それだけだった。


八年も付き合ったのに

『その気持ち』

がわかってもらえなかったことに私はショックを受け、絶対的な彼への信頼が、ボロボロと音を立てて崩れていった。


だから、ただのケンカのように、謝ってくれば許すというものではなかった。


父を亡くしたことから、感じた虚無感、彼を失ったことの喪失感(自ら下した決断とはいえ、やはりショックは大きかった)そして、私をもっとも苦しめたのは、父を失ったことでの母へのケアだった。

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