夜明けの訶

「わたしは、犠牲シュロンなんだ」

 彼はいきなり言った。


 場末の酒場である。宙港から近い、中央都市部セントラルシティ・エリアへと続く殺風景な道路チューブ沿いだ。夜明けの砂嵐にも耐えるドーム型の住宅には、恐ろしいほど旧型のエアロックが付いていた。その分厚いドアを開け階段を降りると、地の底へたどり着いたと思うほど深い穴倉にその店はあった。

 においと気配。生臭い、水棲生物が地表に打ち上げられたような臭い。

 なにかが手に触れた。湿ったなにか。一瞬の厭わしさ。

 辛うじて悲鳴を上げるのをこらえ、導かれるまま奥へ行く。目が慣れてくると、〈冬〉の薄明ほどのなかに複数の陰が見えた。

 わたしは湿った(おそらく)手を振りほどき、奥の長いカウンターへ泳いでいった。

 隣の誰かが背中を向けている。銀と蒼に光る背鰭は呼吸に合わせて広がり、閉じられ、広がり、閉じて。

 わたしはカウンター越しにバーテンダーへ言った。

「おすすめ、なに?」

「ないよ」

「一番注文が多いやつ」

「はいよ」

 地元民との交雑種らしい小柄な彼の、寄越したグラスをつかむ指は岩のように節ばっていた。

──噂どおり。

 含むと舌先が痺れた。口のなかで弾かせてからふっと息を吐くと、火を吐くようにきれいな放物線を描いてカウンターに落ちた。

 その波紋が消えないうちに、ふいに指先を握られた。

「ひとり?」

 背鰭の彼はそう言った。笑顔。頬は削ったように落ち込み、空いた穴から羽虫がを出していた。

「そう。ひとり」

「どうやってここへ来たの」

「噂を聞いたから」

「噂?」

うたう男がいると」

「誰もが歌うだろう」

 わたしは莞爾と笑んだ。

「そうね」

 そうしてその夜、わたしはその男と寝床を共にした。

 

 とおくで声がする。

 わたしは裸の足指を伸ばして、大きく伸びをした。

 見たことがない寝床。生臭い。隣は誰もいない。濡れたようにまとわりついた。

「ああ」

 わたしは満ちていた。胎内から足の爪先まで満ちている。

 わたしは汚れたシーツを巻き付けて、部屋の隅にある階段を上った。

 薄明に風が流れる。清々しい大気に〈夜明け〉の気配を読む。

 エアロックは開いていた。静かだ。風が吹き下ろしてくる。

 無臭の風。

「ああ」

 わたしはシーツを落として、素裸のまま重い扉を押し開けた。

「〈夜明け〉がくる」

  瓦礫のような山だ。岩山の向こうには宙。藍と紺と茜と朱と。汚濁と真水さみずが入り乱れたような昊。極光が蠢く。

 そうして。

 彼はうたっていた。

 〈夜明け〉に向かって、彼は訶う。岩盤にひとり立ち両手を広げ仰いて、天が墜ちるのを支えるかのように祈り訶う。

 最後の一声。一瞬に放ついのちのほむら。

 わたしは涙した。砕けた船を思い、永遠に周り続ける友を思い、おのれを哀れみながらも二度と聞けない歌を懐かしみ、わたしはただ一筋の生臭いシュロンを流した。

 〈夜明け〉は三つ。ひとり残響に揺蕩い抱卵する。

 孵るはずもない無精卵だけれど諦めない。温め続け、待ち続ける。なにを?

「だって、あなたは擬声シュロンなのだから」

 つまり、それがすべて。

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