原初の記憶
はじまりの記憶は、すでになかった。
「なんの始まりだ?」
「俺と、おまえ。」
「忘れたのか?」
おまえは、少し憤慨したように語気を強めた。
「中二の夏。引っ越してきただろう? クラスが一緒になって、席が俺の後ろで」
「ああ」
「ああって。覚えていないのか?」
おまえは、探るような目で俺を見た。
ああ、その目だ。俺を見透かしてくれ。肌を透し骨や肉、脳や臓物の中まで、どうか見透かしてくれ。
どうか、俺を憶えていてくれ。
「おまえが覚えているのはいつからなんだ?」
俺は曖昧に微笑した。
揶揄われたと思ったのか、おまえは不機嫌な横顔を見せたまま、皿に盛られた三角形の小さなチョコレートを掴み取った。
銀とブルーの包装を、指先で丁寧に剥き始める。小さなテープの端を引っ張ると二つに裂け、三角形のチョコレートは鈍い焦色の粒となって、おまえの掌へ落ちた。口へ運ばれて、消える。溶けて、落ちていく。胃の中で溶け、おまえの一部となる。
「急にどうしたんだ」
「何がだ?」
「そんなことを言い出すのは、おまえらしくない。まさか」
「まさか?」
もう一つ、チョコレートを摘んだ。甘党は変わらない、と憶えている。日本茶にチョコレート。コーヒーにチョコレート。ブランデーにチョコレート。バーボンでもチョコレート。
銀と青に包まれた、三角形の小さなチョコレートを、おまえの長い指はいつも弄んでいた。
いつも剥いた包装紙が溜まる。重ねて山にしていくうちに酒に酔い、一枚一枚を広げ、均し、整え、そうしてまた積み上げる。風に崩れると、また飽きもせずに積み上げ、指は愛おしげにその束を撫でるのだ。
「妙な癖だな」
「癖は妙なものだ」
理屈にもならない道理を言って、おまえは笑った。
忘れたくない、その声を。
はじまりの記憶は既にない。
「まさか、燿子さんとうまくいっていないのか?」
長年連れ添ってきた妻は戦友だ。俺の端々までよく知っている。
そうだ。知り尽くされている。だから、俺は考えなくてもいい。憶えていなくても大丈夫だ。
「あいつは偉いよ」
妻を尊敬している。心から。
「どうしたんだ、おまえ」
四、五枚積んだ包装紙の山を崩して、俺のことを覗き込んだ。
変わらない、と気付くその手元。互いに歳を重ねた中で、おまえだけは変わらない、と思える根拠のない実感。これが記憶というものか。
しかし、すでにはじまりの記憶はない。おまえとの出会いは存在しない。存在しないのに、おまえを懐かしく、愛おしく思う。
初めておまえにあったその日、その瞬間はどんな情景だったのか。
その日から、おまえは常に俺の傍にいたはずなのに、俺は憶えていない。
いることがあたりまえ過ぎて、ふとした拍子にいなくなると、まるで裸で、ひとりで立ち尽くしているような心許なさを覚えるはずなのに、俺は憶えていない。
今の俺は、欠けていくピースを実感しながら、少しでも、一つでも繋ぎ止めたいと、そうおもうばかりだ。
俺は、おまえの姿を追ってしまう。
目が追う。
耳が追う。
鼻でおう。
全身の五感を総動員して、おまえという存在と、その一挙手一投足をどこまでも追いつづけたいと、いまなぜか心から思う。
はじまりの記憶はすでにないのだ。
終わりのきおくも、じきになくなるのだろう。
はじめもなく、おわりもないとしたら、それは、存在しないことと同じではないか。
おれは、いつまでおまえを憶えていられるのだろう。
おまえを忘れた時、忘れたことさえ気づかずとも、俺もおまえも昨日と変わらぬ日を過ごすのだろう。
それは僥倖かもしれない。
俺はもう、永遠に“失う”ことはないのだから。
せめて──。
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