名前のない歌

 夜明けになると、歌いだす男がいた。


 微睡みのなかで聞く旋律はどこかもの悲しく、懐かしい母のにおいを思い起こさせた。

「なんの歌だ?」

 かれは驚いたように顔を向けた。暁闇はいまだ明けず、天井の常夜灯にかれが口の端を上げたように見えた。

「知らん」

「知らない歌をうたうのか?」

「いけないか?」

 わたしは詰まった。かれの言うことはもっともであったし、同時にかれが知らぬ歌を歌うことが、ひどく奇異なことに思えたからだ。

故郷くにの歌か?」

「なぜそんなことを知りたがる」

 わたしは、再度言葉に詰まった。

 そうだ。何故だろう。何故、そんなことを知りたがるのだろう。

 かれとは知己でもないし、夕べ、町はずれの小汚いバーで知り合っただけだった。

 名前も知らない。

 まして、名も知らぬ男の歌う歌など、どうして知る必要があるだろうか。

 わたしは毛布を顎まで引き上げた。肘をつき、頬杖をついたかれの横顔を眺めた。

 二つの月が、カーテンの向こうで輝いていた。水のなかでにじむように、ゆらゆらと光を投げかけてくる。月光を浴びたかれの肩は青白く、どこか歪んで見えた。

 かれは歌う。歌を口ずさむ。

 その旋律は、わたしの頭のなかで幾度も回転し、すとんと落ちてはまた甦ってきた。


「子守唄だ」

 不意に、かれが言った。気の済むまで歌い終えたのだろうか、そのまま崩れるように枕へ顔を埋めると、くぐもった声でわたしに言った。

「子守唄なんだ」

「そうか」

 わたしは目だけをだしたまま、毛布の下で手をのばした。汗の消えたかれの腕に指を滑らせ、掌までたどると、指を絡ませた。

「子守唄か」

 わたしは、かれがその歌に抱く思いを知らない。

 知ろうとは思わないし、語ってくれとも言い難かった。

 それでも、わたしは無性にかれを慰めたかった。

 抱き締めればいいのだろうか。いま一度、快楽の波に誘えばいいのだろうか。

 払暁の風が、薄いカーテンを孕ませた。

 もつれあうような二つの月。鳥の音のない朝。なにかが溶けてかたちを失い、この手から、腕から、流れていってしまいそうだった。


 わたしは歌を探した。歌うべき歌を。歌わねばならぬ名もない歌を。

 かれの目がゆっくりと開いた。わたしの喉から流れていく旋律に、わずかに微笑んだ。

 目を閉じる。

 もう、かれの目は見えない。

 だが、その頬を流れるひとすじの涙を、わたしは見つめていた。







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