短篇集 昊の滴
濱口 佳和
名前のない歌
言えないことば
例えば、その仕種。組んだ指。口唇に運ぶグラスの曇り。息を吐くようなくぐもった笑いに、知らず胸が熱くなる。
いや、胸ではないのかもしれない。心か。魂か。それともわたし達を取り巻く空気の温度か。
笑う前にふれあう一瞬の視線。
哀しくなるほど苦しい。
そんな恋をした。
「——恋だって!?」
かれはさも意外だという風に言った。
「俺が恋だなんて、おかしいか?」
「おかしいもおかしい、ぜんぜんおかしいぞ」
俺は、むっとするよりも笑い出してしまった。
こいつは、俺のことを何だと思っているのだろう。バカ真面目。恋愛嫌い。それとも——。
「で、その相手というのは、どこのだれなんだ?」
わたしは痛みをこらえるように眉根を寄せた。
真実、痛かったのだ。痛かったのだが、それよりも痛い顔をかれへ見せたかった。
「聞きたいのか?」
「ああ、聞きたいね。おまえの“恋”の相手がだれなんだか、是非とも教えてもらいたい」
わたしは、舌先で口唇を湿した。
「恋と愛の差は知っているか?」
かれは、文字通り爆笑した。
「女みたいなことを言うな。恋は無償。愛は有償か?」
わたしは困ったように首を振った。やれやれといった感じだ。
「恋は憑く」
「つく?」
「とり憑くんだ」
「幽霊じゃあるまいし」
「似たようなものさ。自分は死んでいるとは思わない。恋しているとは思わない。気がついた時にはもう手後れなんだ」
かれは真率そうな顔になった。一瞬。
「そりゃ……、恐いな」
「こわいさ。恋は盲目というだろう? 目が見えなければ行く先はわからない。わからない道を行けばどこへ着くか、それも自分ではわからない。だからこわいんだ」
「ほお」
かれは感心したような、少々小馬鹿にしたような、どちらともとれる微妙な顔付きになった。
「で、おまえは誰が好きなんだ」
わたしは微笑んだ。なにかを含むように。まるで女が男に気を持たせるように。はぐらかすように。真実を告げるように。
「——さあね」
ぞくぞくと身の裡に快感が走った。尖ったかれの目へ一瞥をくれて、わたしは手の中のグラスを口へ運んだ。
芳香。舌に絡むアルコール。内臓へ落ちていく液体。ひび割れる氷のかすかな音。
泥沼に指一本差し、わたしは引き返していく。
そんな恋をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます