17,バレンタインデー

 来ちゃった、この日が来ちゃった……。


 バレンタインデー。これまでの私は本当に陸上競技が恋人で、チョコといえば沙希にコンビニで売ってる板チョコをあげるくらいだった。


 でも、今年は違う。私より恋と縁がなさそうな彼の気を、少しでも引き寄せたい。


 だから頑張って、手作りチョコをつくる自信はなかったから、近所のチョコレート専門店で千円する高級生チョコを買った。程よい香りと濃厚なのにさらっとした口溶けで本当に美味しい、大切な人に自信を持って贈れる逸品。


 それをカバンに忍ばせて登校したはいいけど、いざとなると渡せない。朝練では渡せなかった。


 1月22日の大雪が降った日にはまだ先のことだと思ってたのに、時の流れは刹那。


「はい、チョコ」


 昼休みの屋上、乾いた風が頬を撫でる澄んだ空の下。私は沙希に板チョコを渡した。高い柵の向こう、水平線をまなかいに沙希の髪はサラサラと靡いている。


 校庭と松林の向こうにきらめく海と烏帽子岩、伊豆大島いずおおしまも見える。


「ありがとう! 自由電子くんにもこうやって自然に渡せばいいんだよ。まだ告白はしないんでしょ?」


「そうだけどさ、でもチョコ渡したらもう、告白したも同然じゃん……」


「え、そうなの? 私もう何人かの男子にチョコあげたよ。朝練で自由電子くんにも」


「はっ、はぁ!? なんで!? 沙希は陸が好きなんでしょ!?」


「義理チョコはあげるよ。だからまどかちゃんも大丈夫。むしろあげないと嫌われてると思われちゃうかもよ」


「そ、それは、イヤ……」


「でしょ。だったら渡すしかない」


 そうは言われたけど、気持ちが踏み切れないまま部活の時間になった。


 ウォーミングアップと準備体操を終えて、部員は校庭の隅に集合。顧問のセンコーがきょうの練習メニューを告げる。


 けど私は、その内容が何か察しがついていた。


 隣に立つ沙希の魂が口から半分出て、腰が曲がり両手は垂れ下がっている。事前に聞いたな。


「きょうのメニューは江ノ島往復14キロ!」


 バタッ!


 沙希が乾いた赤土の地べたに倒れた。白目を剥いてよだれを垂らしている。いつものことだ。


「よっしゃ気合い入れてやっぞ!」


 翔馬の気合いに白けるマジョリティー。


 憮然と立つ武道と、悪口少女グループのリーダー格、本間アンナ。


 私も普段は憮然としているけれど、きょうはそわそわしている。


 他の人に気付かれてないかな。


 江ノ島から戻ったら、チョコ渡さなきゃ。


 他方、一部の部員は途中で脇道に逸れ、3キロ地点にある辻堂海浜公園で時間を潰す目論見だろう。


 そんな中、長距離走が大の苦手な沙希と自由電子くんは律義に江ノ島を往復する。二人のペースは正直なところかなり遅く、一部の部員に海浜公園で自由気ままに過ごす時間をたっぷり与える。


「だが城崎きのさきと自由電子は特別メニューだ」


「え?」


 私と自由電子くんだけ? どういうこと?


 少々睨みを利かせてセンコーを見ると、彼は顎で倒れている沙希を一瞥した。


 沙希は涎を垂らしながら、ニヤリと口角を釣り上げた。口裂け女かお前は。

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