恋のギアチェンジ

 黄金こがねの葉舞う師走の空風からかぜに刺され、禅を組むように眠る君の傍ら。私は胸を焦がしながら、君の醸す霞の如し気風に、自らの魂をも吸い込まれそうだ。


 ひ弱に見えてどんな嵐にも動じない君と、周囲にクールビューティーなどと気高い印象を与えておきながら、釘の外れた塗炭のように少しの風でバタバタと揺れ、仲間の恋を応援する名目で荷物番を買って出て彼らを追い出し、二人きりのひとときを捻出した私。


 そうでもしなければ、いまのところ私と君の接点は生まれない。


 この独占欲は憧憬しょうけいか、恋情か。


 伽藍堂の自分には、判然としない。


 けれど紗希が彼の指導に当たっているとき、胸や頭全体にもやがかかって、ときに苛立ちにさえ発展する。このテントを組み立てるとき、紗希が彼にハンマーの使用法を教えているときが正にそれだった。


 紗希は彼の指導係。短距離走者同士だから致し方ないこと。


 伽藍堂の私はどうしたって、人柄で紗希には敵わない。否、人並みの情があっても紗希には敵わない。


 夢のような女子、というには流石に大袈裟ではある。だけど自然に笑えて、怒れて、愛嬌があって、優しい。


 対して私。


 例えば誰かにジュースを奢ってもらった、プレゼントをもらった、告白された、そのどれもが有り難く、感謝すべきこととは理解している。


 でも紗希やその他いくらかの人間のように、自然に笑顔になれない。愛をよく知らないからこそ、その厚意や好意の有り難みは人一倍身に染みていると自負している。


 なのに、感情が沸き上がらない。


 私の『ありがとう』はいつもぎこちなくて、きっと無愛想。


 そんな私が恋情を抱いたとして、それはどのようなかたちとなるのか。


 胸が張り裂けそうとか、いまのところ汎用な感情は未知だ。


 ただ、四六時中、彼が心のどこかに在る。


 周囲には好きな人はいない、陸上が私の恋人と言ってはいるけれど。


 寒さで思考回路が凍結して、明確な答えを導き出せない。ただ一つ間違いないのは、私は彼に興味がある。この一点。


 そのとき少し強い風が吹き、彼がビクッと目を覚ました。


「おはよう。風、冷たいね」


「おはようございます。はい」


 暖房のない真冬のテントでただじっとしているのは間違いなく拷問の域だ。寝るな、寝たら死ぬぞ! の世界だ。そんな中で彼は眠り無事目覚め、涙を浮かべた目を擦っている。


 くそ、本当に寒い。カイロでも持ってくれば良かった。


「あの、これ、良かったら」


 彼が自らのバッグをまさぐり徐に取り出したのは、未開封の貼らないカイロ。


「いいの?」


 言いながら視線を合わせようとしたら、彼は首肯し、私の首の辺りにぼんやり目を遣った。彼は人とあまり目を合わせないタイプだ。


「ありがとう……」


 思わぬ優しさに、意表を突かれた。


 カイロを手渡されると同時に、手を伝って胸の内側がほんのり温かくなってきた。まるで暗闇の中で灯した蝋燭ろうそくのように、内部から熱が伝って蝋が溶けるように、私の表情もけて、呼吸が少しずつ速まってゆく。


 あぁ、いまので私、彼を本当に好きになっちゃった……かも。


「自由電子くんってさ、好きな人、いたことある?」


 何秒か、何分か、長く感じた沈黙。沸き上がる感情に小躍りしそうなくらいそわそわした私は、何か話題を振らずにはいられなかった。


 この場を凌げれば話題はなんでも良かったはずなのに、口を突いて出てきたのは、過去の恋愛について。


 好きな人はいるの? と、現在進行形の問いを投げそうになり、それを肯定されるのが怖くて喋っている途中、咄嗟に過去形へ言い換えた。


「いえ、いまのところは」


「そっか……」


 好きな人、いないんだ。良かった。


 私のことを好きでいてほしかったなんて、おこがましいことは思わない。


 これから好きになってもらうように自分を磨く。磨くと同時に、これまであまり接点のなかった彼を知り、彼には私を新たに知ってもらうように事を運ぶ。


 私も恋愛経験はないから明確なことはわからない。しかし恋愛を抜きとして『人に好かれたい』と思ったら、何かしらの行動はすべきだ。


 自分を磨く、相手に寄り添う、励ます、方法は色々。だけど、どんな行動を取るにも共通するのは、自分にも、相手にも、真摯しんしでありたい。


 恋愛に端を発して、人生の土壌が豊かになってゆく。それは間違いない。


「でも、恋愛をしてみたいとは思うんです」


 ピクッ。私は反射的に彼の目を見た。


「どうして?」


 我ながら愚問だと思った。恋愛をしたいなんて、全員ではないにしろ多くの人類に芽生えるごく自然な感情。


 最近では実在の異性に興味はなく、アニメなどのキャラクターを愛する人もよくいるけど、それもまた恋愛感情に変わりない、もしくは限りなく近い気持ちだろう。


「なんとなく、苦痛が減って、気が楽になって、人生が楽しくなると思うんです」


「どういうこと?」


「この世界は正よりも負の力が大きくて、良いことよりは不愉快になる要素のほうが大きい。僕はそう捉えています」


「うん、戦争とか政治的なことから、犯罪とかマナーなんかの身近なところまで、負の要素はたくさんあるよね」


「はい。そういう‘自分だけの利益や幸福を求めて他者を不愉快にさせるやり方’が横行している、そんな世界が僕は嫌いです」


「戦争は他国を侵略して自国の利益を得る。例えば詐欺さぎなら誰かを騙して憎しみや悲しみを生んだ上での金儲け、マナーっていうと、ゲームや株取引なんかをするために歩きスマホをして他の人に避けてもらったりぶつかったり、見ているだけでも不快な気分にさせたり、なんてことかな」


 私は歩きスマホが正面から来たとき、避けないでぶつかると相手に突っかかったりたりするけど、沙希が一緒のときにやると怒られる。「相手によっては大事おおごとになって、下手したら殺されちゃうよ」って。


 私からすれば、なんで自己中を体現してるヤツなんかのために避けてやんなきゃいけないんだって話。沙希はそういう点では常識人だけど、対して私と同意見の人も少なからずいると思う。実際、沙希と川崎かわさきへショッピングに出かけたとき、歩きスマホにぶつかられた人が相手と揉み合いになるところを目撃した。


 胸倉やこめかみを掴まれスマホともども地に叩きつけられ、スマホは破損、人間は頭部から出血。ほどなく警備員3名がやってきて、後から警察官も到着した。


「はい。そういう自己中心的な人が得をする世の中が僕は嫌いで、内心では、はらわたが煮えくり返っています。でも部長みたいに声を上げる勇気もない。僕と仲良くしてくれている人の中にも、自己中心的で不愉快な行動を取る人が少なからずいて、指摘したら、イジメられたり嫌われるのではという不安があります」


「あぁ、なるほど。ま、注意したくらいで嫌われるようなら、そいつらは付き合うべき人ではないけどね」


「そうですね、その通りです。話が逸れました。僕が言いたいのは、そんな不愉快なことが多い世界でも、好きな人のことを想えば、あまり腹立たなくなるのかもしれないって、そういうことです」


「お、おおお、そうなのかな」


 正直、自由電子くんの言うことがイマイチ腑に落ちなかった。というか、未知の領域で理解できなかった。


 好きな人のことを想えば、あまり腹立たなくなるかも、か。


 彼ともう少し心の距離を縮められれば、または徳を積めば、そういう気持ちを理解できるようになるのかな。


「わかりにくかったですね。どうも僕は多感なようで、こういうことはよくあるんです」


 ふわり、どこかあどけない彼は、理解者を得られる期待を裏切られたと、沈む表情が語っていた。


「ごめん」


「いえ」


 気まずい沈黙が訪れた。好きな人の心に寄り添えない。それはすごく悔しいことだし、なにより自由電子くんに申し訳ない。


 沙希と武道を追い出してまで二人きりの時間をつくったのに、いまは早く他の部員に戻ってきてほしい。


 こういう話、沙希だったら「わかるわかる! なんかこう、イラつくことはあるけど、好きな人がいるともうその人のことが四六時中頭から離れなくて、どうでも良くなっちゃうよね!」とか言うんだろうな。



 あ、そうか。



「あ、あのさ」


「はい」


 ぽかんと、普段通りの心此処ここに在らずな表情で、自由電子くんは力なく返事した。


「も、もしかして、自由電子くんが言いたいことって、好きな人のことを四六時中考えてれば、他のことはどうでも良くなるってこと?」


 難しい問題も複雑に考えるより、答えは案外シンプル。自由電子くんの思考もそれに漏れないだろうか。


「あぁ、きっと好きな人がいてもどうでも良くはなりませんが……」


 あれ、違った!? なかなかしっくり来た答えなのに、そうじゃなかったの?


「ご、ごめん、私、バカなのかも……」


「いえ、正直、僕にもわからないんです。恋なんて、まだ想像の域に過ぎませんから。でも、ありがとうございます」


 言い終えた自由電子くんは私と視線を合わせてほっこりと微笑んだ。


「いっ、いやいや、結局わかってあげられなかったし」


「それでも、突っぱねないで真正面から向き合ってくれました。それが嬉しかったです」


「そうか、そうなんだ……」


 ふふ、そうなんだ、そうなんだっ。


「あ、あのさ、そしたら、さ、また、こういう話、しない? わ、私もその、気になるし、恋の話」


「はい、ぜひ」


 そう言って彼はまた、微笑んだ。


 あぁ、きょう私が彼の笑顔を見たのは、何度目だろう。でもその笑顔はまだゴールには辿り着いていなくて、それでも、私という存在に、彼がゴールへの道筋を、自分の居場所を見出そうとしてくれているのは伝わった。


 うれしい。うれしいな。なんだろう、ほんとにもう。


 これが恋、なのかな。まだわからない。だってこんな感情、本当に初めてだから。


 それからしばらく無言の時間が続き、葉の掠れる音を聞いていた。そのうち他の部員たちが順次戻り、また競技へ出て行った。私も女子3千メートルに出場した。


 あぁ、ヘマしたな。


 心が浮いて、思わず序盤で飛ばしたら、体力が持たず終盤で失速。


 でも、まぁいいか。

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