8,疾走のドリーミングガール
9時になり、記録会が始まった。まずは男子100メートルから。逃げ足を試す目的で、自由電子くんがそれに出る。
「がんばってね」
私に続いて他の部員も「ファイトー!」と一声かける。これから競技へ出て行く部員へのお約束。
「はい、ありがとうございます」
スパイクを持ってテントを出る彼を見送る。
いつも滑らかな口調の自由電子くんの背は、少し強張っていた。緊張してるんだ。あまり感情を露わにしないタイプの彼だけど、振れ幅は大きいと私はみている。
記録会の目的は、一言で表すならば自分との闘い。
大会は予選や決勝があって、上位者が勝利する。記録が計測され、決勝進出する選手は予選各組上位2名もしくは3名。但し可能な限り3名とされている。100メートル走の場合、各組概ね4名から9名が走るが、4位以下の競技者は記録が計測されない。
対して記録会は競技者全員の記録を計測するために行われ、勝利も敗北ない。いっしょに走る選手に対し競争心が芽生えないわけではないけれど、競うより、可能な限り好記録を叩き出す。
私みたいに大会では毎回予選敗退の競技者にとって、記録会は自らのタイムをプロの計測者に計ってもらえる絶好の機会だ。
くるっくるっと、レンチを使い適度な力加減でスパイクにピンを装着する。緩いと走っているときにピンが落失、レンチで締める力が強過ぎると勢い余って折れる(トルクオーバー)。中島スボーツ公園は土のトラックなので長く鋭利なピンを、
男子の次は女子100メートルなので、私は自由電子くんの帰りを待たずテントを出た。砲丸投げに挑む武道は自由電子くんより先に出発済。「ファイト!」を力強く言ってくれたのはまどかちゃん、翔馬、そして陸たち鵠沼海岸学院の部員だった。
「目標タイム11秒台の人はこちら、12秒台はこちらに並んでください。13秒台以降はこの後呼びます」
青いトラックと、フィールド競技を行っている内側の芝生を見渡すスタート地点。客席とその外周のテント場は離れているけれど、各校部員の声援も微かに聞こえる。
まもなく女子100メートルの計測が始まる。上下ウインドブレイカーを着た係のおじさんが目標タイム別に走者を整列させている。
私の目標は13秒0なので、この後整列。
ぶらんぶらん、ぐるんぐるん、トントン、トントン。周囲も私も身体をほぐすために手足を動かしている。爪先でトラックを軽くつつくと足首が柔らかくなる気がする。
思うように走れるかな。緊張で胸が高鳴る。
「位置について、よーい……」
パーン!
ガンの火薬が弾け、その小気味良い音が一帯に響き渡った。
8人の走者が一斉に走り出し、私は手足を無駄なく俊敏に動かしみるみる離れて行く彼女たちの背を見送る。短距離走を背後から見る機会はあまりないだろう。
12秒ほどで全員がゴール。次は私たちの番。さっそくスタブロの調整に取りかかる。足を置く左右のブロックを固定具の走り出しやすい目盛りに連結。
うーん、どの位置もしっくりこないけど、このくらいが妥協点かな。よし、出走準備完了。
記録会は大会より緊張感が薄いのか、後ろで順番待ちをしている数名の走者が「私13秒いけるかな」、「ユキちゃんだったら行けるって」などと談笑している。
対していつも予選落ちで準決勝以上に進む気のない私は記録会のほうが緊張する。
「位置に着いて、よーい……」
前のめりになって指を地に押し付け、スタブロに脚を預けて体勢を整える。あとはただ、フライングや出遅れのないよう感覚を研ぎ澄まし、目を閉じて聴覚を最大限に引き出すのみ。
パーン! とガンの音。
両手両足の体重を地に、身体は前に、その反発を利用してロケットスタート。
うんぁああああああ!!
風になれ、風になれ!!
きたきたきたきたあああ!!
絶叫マシーンが急降下するように脚が地中へ吸い込まれるような痺れを、転びそうなほど宙に舞う足を、転ばないギリギリで片足着地、蹴り飛ばして風を切る。
あぁ、走るって気持ちいい。
50でも200でもない、自らが疾風と化すこの感覚は100メートル走でしか味わえない。身近なものに喩えるなら急降下するジェットコースター、全速力の新幹線、離陸直前に急加速する飛行機、急な坂をノンブレーキで下る自転車。
両サイドに走者はなく私がトップ。このほんの十数秒が意外と長く感じる。まだかまだかゴールはまだかうわぁまだ30メートルくらいある息継ぎしたい深呼吸したい酸欠だ倒れる頭が痛い冬だから耳も痛いこのくそ早く終わらせるぞおおお!!
ゴーーーーーール!! 白浜選手ゴールしました!! さてタイムは何秒でしょうか!?
「はああっ、あああ、はぅうあああっ……」
内心は勝手に盛り上がっているけれどとにかく息が苦しくて、乾燥した気管が酸素と水分を激しく求めている。
ゴールしたら素早くトラックの外へ退き、両膝に両手を押し付けて大きな呼吸を繰り返し、失われた酸素を体内に取り込む。要するに息切れだ。
ゴール地点には係のおじさんが待機していて、私にタイムを告げた。12.9秒だった。目標達成。
結局、私はトップをキープしたままゴール。だけど、あまり気持ち良くない。
わぁ、これはマズったな。
そんな想いが脳や胸を駆け巡っていた。
きっと他の走者は目標を高めに設定し挑戦、しかし私は無難なラインを選んだ。甘い目標を設定した結果、あっさりトップとなった。記録会なのでトップだから何ということもないけれど。
とりあえず、後味が悪い。
走り終えてテントに戻ると、そこには自由電子くんと武道の二人しかいなかった。他の部員は何かにエントリーしてもう出て行ったのだろう。
「おうおつかれさん! どうだったよ」
「12.9」
「おお良かったじゃねぇか! 目標達成だ」
「うん、まぁね。武道は?」
私はもぞもぞと身を屈めながらテントの中に入り、水とスポーツドリンクをがぶ飲みした。ぷはーっ! うんまい! 全身に染み渡る! スポーツドリンクの浸透圧は、水だけを飲んだときと比べて本当に圧倒的。冬の渇きにも夏の熱中症対策にも水と併せて飲むと違いがよくわかる。水分と塩分の血中濃度がちょうど良くなるのだろう。
「16.5」
武道は砲丸投げなので単位はメートル。
「わお! すごいじゃん!」
会話をしながらウインドブレイカーを着こむ。走ってから数分、火照ったからだは徐々に冷めつつある。
「うーむ、しかし高校生記録は18メートル台だからな」
「そうなんだ。でもそれって、まだまだ伸びしろがあるってことじゃん!」
「間違いない。まだまだ頑張るぞ!」
「おーお! 自由電子くんは……寝てるね」
座禅を組んでいるように見せかけて眠る。高1の野外学習で座禅をしたお寺の住職の常套手段を実践する自由電子くんは、神仏の域にあるのだろう。山奥だから4月でも気温2℃。そんな中、ジャージ姿で座禅、
ねぇ知ってる? 樹海って、本当に木の海みたいに森がずーっと広がってるんだよ。凄かった。本当に海原を木に置き換えたようだった。この狭い島国に、ジャングルみたいなただただ広い森があるなんて知らなかった。
あんなの見たら、例え刑務がイヤでもお寺から抜け出す気にはならないよね。
「おつかれさま!」
武道がぽかーんと間抜けに口を開け、私は背後の声の主へと身を
「つぐみちゃんおつかれー! どっか行ってたの?」
そう、声の主は武道の想い人、つぐみちゃん。競技モードのポニーテール。ウインドブレイカーを着ていても可愛い。
「うん、アップしてきたんだ。私これから千五に出るから」千五。千五百メートル走の略。
「そうなんだ。私はこれからストレッチするんだけど、良かったらつぐみちゃんもいっしょにしない?」
「うん、いいよ」
その無垢な笑顔は、女の私から見てもとても愛おしい。
「よっしゃ。武道も行くよ!」
「お、おお……。あ、でも自由電子寝てるし、荷物番はどうしよう」
いつになくオドオドする武道。明らかにつぐみちゃんとの接触を躊躇している。しかし確かに誰かが荷物番をしていなければ窃盗事件が発生しかねない。
「いいよ、私がやっとくから三人は行っておいで」
困り果てた正にそのとき、どこからともなく救世主登場。
「ナイスタイミングまどかちゃん! じゃあお言葉に甘えてお願いしちゃいます!」
「うん、いってらっしゃい」
「いってきます!」
私たち三人は運動場外の空きスペースへ向かって歩き出した。狭い通路には各校の陸上部員や顧問が往来していて、なるべく邪魔にならないよう縦一列でお互い避け合いながら進む。私が先頭、つぐみちゃん、武道の順。か弱い子を真ん中に置いて防護するフォーメーション。
場外入り口門付近に空いているスペースがあったので、私たちはそこに居留した。
「えーと、つぐみちゃんと武道は初めての接触?」
「うん。タケミチくんっていうんだ。2年生?」
朗らかでナチュラルな笑みを浮かべ、つぐみちゃんが尋ねた。
あーう、あうう、オーマイエンジェルマイ女神さま。私が恋にフォーリンラブしてしまいそうだ。茅ヶ崎東海岸の住宅地でこんないい子が育つなんて、わたしゃ知らなかったよ。
「あ、はい! 2年です! 合格の
「合田武道くん。同じく2年の小日向つぐみって言います。小さい日向に、ひらがなでつぐみです。よろしくね。えーと、合田くんでいいかな」
「はっ、はい! よろしくなっしゃす……!」
噛みまくりで顔真っ赤。私に告白フェイントをかましたときもこんな感じで、本当にわかりやすい。けど、このタイミングでつぐみちゃんに勘付かれたら彼女が身構えて、無駄な心の距離が生じかねない。
でもいいな。こういう甘酸っぱさが青春だよね。私も早く好きな人を見つけたい。
これで武道とつぐみちゃんの接点はできた。
二人が、特に武道のぎこちない会話を見守っていると、視界に飛び込んで来た人影に気を取られた。数十メートル離れた道路の向こうに並んで歩く男女。男が女の頬に軽くキスをして、女は雌の悦びを孕んだ気色の悪い笑みを滲み出している。男はどこかの知らない学校のジャージを着ている。女は我が校の女子部員、悪口三人組のリーダー格、
ううぇ、マジか。あんなのにオトコができて、なんでフルーティードリーミングガール沙希にはできないのさ。
あ、男のほうも大したヤツじゃないんだ。
刹那に吐き気を催したものの手早く心の整理をして、私は再び武道とつぐみちゃんに目を向けた。
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