エピローグ。ワルツ・フォー・アニー。
皇国ホーエンベルクが首都ウィルズ。脈々と受け継がれる皇族の血も今や途絶え、皇国の名も哀愁を引き立てるばかりの虚栄の証となり果てた。
かつて不夜城とも呼ばれた雄牛の
形ばかりの寂れた門から街に入り、彼方まで貫く大通りを三ブロック。さらに進んで左へ曲がると二ブロック先に車輪通しの
冠する名のごとく、転がす車輪が倒れないほどの狭い路地。その中程にあるメッキの看板には『
祭りの喧騒から隔絶された路地に佇む三毛猫があくびをした。大きく口を開けたが、静謐さに水を差すことなく、あくまでひっそりと。
冷えてきたとは言ってもまだ冬ではない。路地の日陰に満ちる空気はそれなりの心地良さらしい。
錆びついた蝶番が擦過する音にめげずに管屋の扉をくぐると、足元からはすぐに階段が伸びている。並んで二人は降りられないほどの狭さが、階段の勾配を一層大袈裟に装飾する。両側の壁には、様々な管が飾り付けられていた。
天井にぶら下がる水道管の一部や、排気用の管。変わりダネでは節毎にぶくりと膨れ上がったエーテル濃縮管もある。
階段の下では、優しい橙色の光が煌々と瞬いていた。
そこにいるのはこの店の
店主は目尻の皺を一層優しく深くして、何も言わずに黙々と作業を行っていた。
つい一昨日にこの街を訪れて、そして半日前に去ってしまった地図描きの少年から託されたビークルのパーツを、ひとつひとつ丁寧に点検している。
自らが修理を施したパーツだが、これだけ酷使されると見覚えもなくなってしまう。しかしこのエンジンには工具の跡があり、それは人の手でなんども手入れされたということを教えてくれる。恐らく首都へ毎回運ぶのが大変だから、あの地図描きの少年が修理を覚えたのだろうと、勝手な想像をしては頬をほころばせる。
大切に使ってくれていたらしい。自然と口角が上がるのも無理はない。
店主はビークルの持ち主の顔を思い出している。酒屋を営む屈強な大男だった。
アルルカンは大昔の
「おじいちゃん、いま何時?」
「あと半刻で夜の七時になるよ」
「うう……」
アニー=ゼンツは牛のぬいぐるみを一層強く抱きしめて、カーキ色のソファをごろごろとのたくった。
ぬいぐるみの角を握ったり離したりして、軟体動物のようにのけぞったりソファから落ちたりしている。その落ち着かない様子にも店主は慣れきったようで、引き続きエンジンパーツの点検に没頭している。
ソファの背もたれを使ってぐんにゃりとえび反りをしたアニーの瞳に、一葉の写真が映った。店主が大事にしている古びた本棚の二段目にある、額入りの写真だ。
写真の中には若かりし頃の店主と、今は亡きその妻が二人で寄り添って立っていた。
「その写真は風船と蹄亭の女将の、そのじいさんが撮ったんだよ」
「へえー……」
アニーはソファからずり落ちて、写真を手に取った。
自分の祖父と祖母の若かりし頃を見て首をかしげる。店主はついに作業を放棄して、アニーを眺めた。
「お父さんに似てる」
「俺のほうが良い男さ」
「そういうところもお父さんに似てる」
アニーはころころと笑って、店主の強がりなど歯牙にもかけない様子だ。
「ねえおじいちゃん」
「なんだい」
「地図描きさんたちって、どうして地図を描くんだろうね。繋ぎ
額のなかに収まる夫妻は、それはもう満ち足りた顔をしていた。
互いに寄り添い支えあい、この幸福はきっと一生続くのだと信じて疑わない夫婦の顔だ。
自らの血が連綿と受け継がれ、このウィルズという地で育ち栄える。大地に根を張った人間の瞳。
「地図描きさんにもお母さんとお父さんがいて、おじいちゃんとおばあちゃんがいたんだよね」
影払いの
父親と母親は極南からアルルカンまでの地図を完成させ、ルチアーノを生んだ土地でそのまま亡くなった。悪いことを聞いてしまったとアニーは謝ったが、ルチアーノとクロエは笑って許してくれた。
「アニー、道はどうしてあるのか答えられるかい?」
「道? 誰かが通るためかな」
「うん。きっとそうだ。だから彼は地図を描くのさ」
「ふーん?」
わかったようなわからないような……そんな曖昧な顔をして、写真を棚へと戻した。
もうすぐ約束の七時だ。
昨日、ずたずたになった風船を直してくれたクロエが言ってくれた。
ここを手伝うよりも、『友人』の手伝いをしたまえ。
なまものの恋を今から一生懸命美味しくしようと四苦八苦する友人の元へ走りたまえ。
聖火祭を成功に導いたクロエがそう言ってくれたからには、頑張らなくはならない。
命を賭して世界を歩く二人にチャンスをあたえられたのだ。地図描きの二人は挨拶をする間も無くこの街を出てしまっていたが、恩に報いるために、アニーはやらなければならない。
この日のために、影払いの
アニー=ゼンツは立ち上がる。
「よし、行ってくる!」
店主はにっこり微笑んで頷いた。
自分の頬をぴしゃりと叩いて気合をいれる孫娘が、愛おしくて仕方がなかった。
階段を上るアニー=ゼンツの背中を見守るように見つめている。
生まれて初めての晴れ舞台だ。成功するのかどうかはわからない。笑って帰ってきても泣いて帰ってきても、同じ顔でおかえりと言ってやろう。店主はそう心に誓うのだった。
果たして少女の淡い恋心の結末はいかに。
しかしそれを物語るには既に、語り部である地図書きの少年は、遠く離れてしまっていた。
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