第十話。穏やかな終末に、一杯の葡萄酒を。

 二人旅をしている。

 エーテルで動く四輪駆動。新品ビークルの荷台の上で、黒髪の女の人があくびをした。

 なにやらがさごそと荷物を漁っている音がする。

 首都ウィルズを出て半日ほどが経った。進む先にある燃え盛る夕日は、めらめらと地面を溶かしながら地平線の向こうへ消えようとしている。

「ルチアーノ、この世で最も古い歌を知ってるかい?」

「うーん、神の恩寵アヴェ・グラディア?」

「ふふ、なかなか良い線をいっているよ」

 クロエのがさごそが止まった。

 探しているものが見つかったみたいだ。

「そもそも、音楽とはなんなんだろう?」

「哲学?」

「きみたちが言う鉄色の黄金時代レストピアには、音楽を学問とする人もいたのさ」

 ビークルが走る道はなだらかな下り坂だった。地平の先まで続くゆるやかな下り坂。アルルカンからウィルズに走った道よりも整備されている。整備とは言っても、もちろん土瀝青ビチューメンが敷かれているわけではないけれど、それでもこれが道だ、とわかる程度に雑草が少ない。

 ある日ぱったりとやり取りが止まってしまったとは言っていたけれど、ここは繋ぎヴィクラッドに至る道だったんだろう。

「音楽を、学問に?」

「そう、楽器を習うという意味ではないよ。音楽自体を解体していくんだ」

「解体……」

「そう、解体。なにものも解体していくと正体が見えてくる。音楽の正体は、どうやら『繰り返すこと』らしくってね」

 繰り返し、が音楽の正体?

「音楽とはひとつの節を何度も何度も繰り返すことを言うらしいんだ。少しずつ変えたり、少しずつ足し引きしたりして、豊かな曲が生まれる」

「ふうん……」

「きみの旅と一緒だよ、ルチアーノ。出会いと別れを繰り返す。到着と出発を繰り返す。でもきっと、それらは少しずつ違うのかもしれないね」

 アルルカンの旅立ちと、ウィルズの旅立ち。

 そしてきっとこれから訪れる、幾度の旅立ち。

 ぼくはそれを繰り返すけれど、どれも少しずつ違うんだろう。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと、プアアとどこかで聞いたことのある笛の音が荷台から聞こえた。

「これ……鞄とバッグパイプ?」

「ご名答。買っておいたのさ。自分で作ることもできるけれど……失われし先人の知恵は、しばらくはこりごりだろう」

「まあね……」

 それも動物の胃を使うだなんて、勘弁してほしい。

 やっと鼻の穴にこびりついていた匂いもとれてきたんだから。

「でもクロエ、からっきしって言っていなかった?」

「からっきしだよ。けれどひとつだけ、いつか弾けるようになりたい曲があって」

「へえ、なんて曲? ぼくも知っているかな」

「名前は無いよ。歌詞も無い。ただ、歌があるだけ」

 そう言ってクロエはバッグを押さえた。

 バッグパイプの音は夕日が沈んだ空に目一杯響いた。何重にも聴こえる不思議な旋律。神聖で、それでいてどこか間の抜けた音。

 からっきし、と言うのは本当のようで、クロエは何度も何度もやり直して音を探している。

 思い出の中に眠るその歌と、ひとつひとつを照らしあわせるように。

 でも、あれ、これって……

 聴き覚えがある。

 そうだ、クロエがたまに歌う鼻歌だ。あの『始まりの時代』を想起させる旋律……

「ふふ、やはりだめだね」

「その曲、名前はないんだ?」

「うん。何かを讃えるためだけにあった歌」

「何か? 神さま、とかじゃないの?」

「神さまを讃える歌なら、わたしは歌わないよ」

 クロエはバッグパイプを置いてあくびをした。

 ぼくもクロエも風船の修理で寝ていないから、そろそろ限界かな。

「よし、ここでキャンプしようか。寝よう」

「そうだね、寝ることにしよう」

 誰も通りはしないけれど、念のため路側にビークルを寄せる。クラッチを切ってブレーキ。前のビークルとは全く感触が違うから、気を抜くと大きくカックンしてしまう。

 ギアを停止に入れて、クラッチを繋いで、サイドブレーキを引いて、エンジンを切る。エーテルエンジンの回転音がシュンと静まった。

 ぼくが運転席を出ると、すでに荷台を降りたクロエがぐっと伸びをしていた。

「こっち側でテント張ろうか」

 荷台からテント袋を引きずり出す。クロエが机や他の荷物をどけてくれた。

 深い緑色の布の筒。結構な重さになるそれを抱えて歩いて、草むらの上にどしんと落とした。

 まだ明るいからテント張りも楽だ。

 底面グランドシートに刺したポールで骨を作る。ぐっと湾曲させるとテントを支える力が生まれる。二つの湾曲したポールを直線のポールが繋いで、これで骨格は出来上がり。ペグを刺して固定するのはクロエがやってくれた。ぼくはその間にキャノピーを引きずりあげて骨に被せる。これでテントとしては出来上がり。あとは風で飛ばされないように固定綱ガイラインを引っ張れば、寝る準備も完了だ。

 アルルカンからウィルズの道中で、テントは六回張った。もう手分けして作業するのも慣れっこになった。

「さて、寝る前の腹ごしらえといこうか、ルチアーノ」

 ぼくが固定綱ガイラインペグ打ちをしていると、クロエはビークルの荷台から机と椅子を持ってきた。折り畳みのそれを開いて、テントの前に設置する。

「アサードは無いけれど、干し肉があるよ。そして葡萄酒もね」

「その前に、ちょっと待っててね」

 そうだった、『あれ』をやらなきゃいけないんだ。

 ビークルの運転席に入って、座席下のレバーを引き上げる。すると荷台のほうで何かが開く音がした。

 エーテル濃縮機だ。エーテルエンジンはこれをやらなくっちゃいけない。いざというときの燃料エンジンも搭載しているけれど、節約するに越したことはない。

 乗らないときは濃縮器を開いて空気に混ざっているエーテルを取り込ませる。濃縮管を通って集められたエーテルが、燃料タンクに充満するというわけだ。

「ビークルも休憩が必要というわけだね」

「ぼくらと同じでね」

 椅子に座ったら、クロエが葡萄酒を注いでくれた。机では携帯用エーテル灯が煌々と青白い光を上げている。

 白い葡萄酒はエリツォトリの涙、赤い葡萄酒はエリツォトリの血と言われている。今日は血のほうだ。クロエが干し肉を陶器のお皿に並べる。赤、赤、赤。

「これ、牛の肉?」

「そうだろうね」

 牛の街。

 皇国ホーエンベルクの首都ウィルズ。かつては王城が抱える大きな闘牛場だった。そこから店や家ができて、いつしか城下町となった。

 もう壊れてしまっていたけれど、始まりの巡礼地プリメヴォはその闘牛場プラザディタルス

「大変な三日間だったね」

「うん、目が回ってしまったよ」

 クロエがグラスの首を持った。上目遣いで急かしてくる。

 わかった、わかった。

「乾杯」

「乾杯」

 グラスは打たない。互いにグラスを持ち上げて、目を合わせて、そして一口目を飲む。

 すっと入ってくるキレの良い葡萄酒だ。渋さがなくてどちらかと言うとしっとりと甘い。一緒に食べる肉料理のことを考えたウィルズの人たちが、この味に仕上げたんだろう。

 濃厚過ぎず、しかし薄すぎず、あくまで料理をメインに据え置いた名脇役だ。

「ね、クロエ」

「なんだい」

「あの牛、なにかあったの?」

 ウィルズの聖火祭の前日、街を荒らしまわった暴れ牛。

 クロエはやけに必死だった。今この場で見せている風のような態度が消えてしまうほどに。

 ここでぼくが話をすることをわかっていたというように、クロエは目を伏せて静かに笑っている。

「あの牛はタビモライに罹っていたよ」

 ……奇病タビモライ。

 原因不明の死に至る病。大抵は、生まれた土地から遠く離れてしまった者に降りかかる。この世の滅びを加速させる死病だ。

 そうか、あの牛も遠くから来たんだ。聖火祭のために、連れてこられたんだ。

「難しい話さ、ルチアーノ」

「……」

「あの牛は死期を理解していた。内臓が砂のようにざらついて、そしてだんだんと動かなくなっていくのを知っていた」

 葡萄酒がエーテル灯に照らされる。

「けれどずいぶんと生き生きしていた。あの牛は自らの死に場所を選択したんだ。あの巡礼地プリメヴォ跡地、闘牛場プラザディタルスを墓標として。わたしには、あのつぶらな瞳がえらく輝いているように見えたんだ。それはわたしの勘違いかもしれないけれどね。わたしは牛の気持ちはわからない。神さまだから」

 不思議なんだよね、とクロエは呟いた。

 アルルカンの墓地で見たときと同じ顔をして。

 でもそれは墓石に向けてでもなく、牛を思ってでもなく、きっと、

「燃え盛るほど、ろうそくは早く尽きてしまうことを、みんな知っているはずなのに」

 きっと、ぼくに問いかけている言葉だ。

「……人を、残酷だと思う?」

「わたしがそれに答えることはできないよ」

「クロエ、ぼくね、アルルカンを出てから夢を観ないんだ」

 伏せられていた目は再びをぼくを見てくれた。

「ぼく、たぶんいますごく楽しいんだと思う。アルルカンが楽しくなかったわけじゃないんだけど、実際に旅に出て、世界って広いんだな、人ってこんなにいるんだなって思うと、なんだか安心したんだ。心の中のどこかでは、ずっとずっと、ずーっと昔にアルルカンは取り残されたんじゃないかって思ってた」

 みんないなくなってしまって、この世界にはぼくらしかいないんじゃないかって。

 けれどそんなことはなかった。

 ウィルズには雄牛の一角塔タルスケルスがあって、土瀝青ビチューメンがあって、信号があって、お祭りがあって、たくさんの人がいて、温かい宿屋があって、美味しいサンク・トーストがあって。

「ぼくね、たぶん世界を救いたいとか、正直、そういうことは思ってないんだと思う。地図を描くのはもちろん世界のためだとは思ってるけど……なんていうか、幸運だなってさ」

「幸運?」

「そう、幸運。自分がやりたいことに、命を懸ける理由があるから」

 そこまで言うと、クロエが辛抱できないという風に吹きだした。

「な、なにさ、笑って!」

「いや、本当にきみは両親に似ているなァと思って……ふふふ、あはは!」

「お、父さんと母さんに?」

「そう、同じようなことを言っていたよ。やりたいことをやってるだけなのに、行く先々で親切にされるのが不思議だって」

「やりたいこと……」

「そう、やりたいこと。二人で旅をするのがたまらなく楽しいんだって言ってたよ」

「ふうん……」

 なんか、父さんと母さんのそういう話を聞くのは恥ずかしいな。

 なんだろうこの気持ちは。

「ここまで聞いてしまった上で尋ねるのは無粋なのかもしれないけれど、一応もう一度だけ答えてもらえないかな、ルチアーノ」

「なに?」

「旅は続けるんだね?」

 さすらう魂の決着。

 クロエはあの牛の死に様をそう言っていた。

 きみは死ぬときなにがしたいか、と。

 そんなの決まってる。

「続けるよ、もちろん」

 たましいの底から喜びに震え、なみだが出るほど楽しいことだ。

「ふふふ、少し湿っぽくなってしまったね」

「もう一回乾杯しよう、クロエ」

「では、仕切り直そうか、ルチアーノ」

「さあ、乾杯!」

 明日のことはわからない。先のことなんてさっぱりだ。

 どうやって生きるか、どうやって死ぬか。

 そんなことは、まだぼくには難しいような気がした。

 だから、少なくとも今は一生懸命愉しもうと思う。

 この穏やかな終末に、一杯の葡萄酒を。

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