第九話。暖かい雪。
「もう臭くない?」
「うーん……」
クロエは高い鼻を近づけて、すんすんと匂いを嗅ぎ始める。
ぼくのおでこ、耳、うなじ、背中、脇腹……
「ってもう良いから!」
「臭くないよ、大丈夫」
「そんなに嗅がなくて良いよ!」
「ルチアーノの匂いしかしないよ」
「なんかすごくいやだ!?」
宿屋『風船と蹄亭』の角部屋、ぼくらが二泊三日でお世話になったこの部屋で、念入りに念入りにシャワーを浴びた。陽が昇る頃にやっと帰ってこれた。
かわいそうな汚物を見るような目で鼻をおさえるジェニカさんに謝りながらたくさんの石鹸をもらって、毛の先から爪の先までごしごしと洗って今に至るというわけだ。
「それにしても、失われし先人の知恵がこんなところで役に立つなんて思わなかったね」
ビークルのタイヤをも塞ぐ失われし先人の
クッツキムシの白い花を取り出して、煮詰めて溶かして、塞ぎたい場所に塗りたくる。熱が抜けると溶液は粘化して、しなやかな生地となる。
本来は狩猟の場でとりもちとして使っていたらしいけれど、昨日は風船の穴を塞ぐのに大いに役立った。
ただ溶液が放熱する際に立ち込める悪臭は対策のしようがなく、嘔吐感すらこみあげる中でぼくとクロエはオェオェ言いながらも一晩かけて風船の修理を終えたのだった。
確かに必要なのは、ちょっとばかりの時間と、ちょっとばかりの覚悟と、ちょっとばかりの我慢だけだった。
「クロエ、荷物まとめた?」
「うん。というか、わたしの荷物はほとんど無いね」
「まあ、そうか……」
ぼくは帆布のカバンの中身をチェックする。神の白地図も持ったし、部屋の中にものも無い。
簡単ではあるけどベッドメイクも済ませた。
よし、部屋を出る準備は完了だ。
二泊三日……いや、昨日は寝てないからここで寝たのは一晩だけだけれど、それでもここはぼくらをぐっすりと休ませてくれた。
アルルカンを出て七日。
おんぼろビークルに揺られて疲れ果てたぼくらをこのベッドは優しく迎えてくれた。ここも、今日で最後。
これもひとつの旅立ちになるのかな。
ぼくとクロエはきっとこれからいろんな街に辿り着いて、いろんな街から出発する。
たくさんの人と出会って、たくさんの人に別れを告げる。
「楽しかったね、クロエ」
「そうだね。慌ただしかったのか、ゆっくりしていたのか、よくわからないけれど」
「信号機も、
一昨日ウィルズに着いて今日まで。
ぼくは今まで見たこともなかった、見ることが無かったかもしれないものをたくさん見た。
「よし、行こうかクロエ」
三日間お世話になった部屋にお別れを告げる。
鍵は……一応閉めておこう。
アルルカンの家を出るときもそうだったけれど、最後に閉める鍵ってなんだか特別だ。
それが例え宿屋の部屋であっても。
ぎしりと軋む廊下を歩いて階段を降りると、サンク・トーストのあの香りが漂ってきた。
これが風船と蹄亭の定番朝ごはんらしい。
「やあ、綺麗になったかい?」
「はい、おかげさまで、ありがとうございます。死ぬかと思いました」
「人は匂いでも死ねるらしいからねえ」
あははと笑いながらコーヒーを出してくれる。
マグに鼻を近づけて息を吸い込む。良い匂いだ。鼻の中が洗われる気がした。
「ワインもあるよ」
「あはは、今飲むと運転できなくなっちゃいます」
「無論きみをここに留めるための提案さ」
ジェニカさんはいたずらに笑いながら手にしたワインボトルをキッチンに置いて、ぼくらのテーブルに自分の分の料理を持ってきた。
「早いね、三日って」
「あっという間でした」
「もう少しいる気はないのかい?」
「根っこを張ってしまうと、旅立ちが苦しくなっちゃうから」
「さすらいのセリフだねえ」
ジェニカさんが片手でサンク・トーストを器用に持って頬張る。
クロエも真似して片手で持ち始めた。
「祭りの本番は見ていくんだろ?」
「はい。聖火で上げる気球でしたっけ。せっかく直したので、それを見届けてからウィルズを出ます」
「今度はどこに行くんだい?」
「うーん、決めてません。まっすぐ北に行っちゃっても仕方がないし、西か東のどっちかなんですけど」
「それならここから西のほうに面白いところがあるらしいんだよ。ある日突然繋ぎ
「面白いところ?」
ジェニカさんは席を立って本棚から一冊の冊子を取り出した。本ではない。糸でぐるぐる巻きにして背表紙を留めただけの簡素な小冊子だ。
表紙もなくタイトルも無い。何度も開かれたのかページの端は黒ずんでいる。
「これ、うちのじいさまが撮ってきた写真なんだけどね」
「写真!」
「そう、カメラがあったんだよ。なくなっちゃったらしいけど。じいさまはカメラを持って、このあたりをうろうろしていたらしいんだよね。死因は寿命かタビモライか、それとも両方かってところさ」
写真なんてぼくは父さんと母さんが持っていた本でしか見たことがない。
まさか個人で所有している人がいたのか。さすがは首都ウィルズ……
ジェニカさんが広げるその小冊子には、大きな湖が映っていた。色褪せてはいるけれど、それでもわかる美しい青。太陽が光の粒になって波の上できらきらと踊っていた。
「湖ですか?」
「いや、これは海なんだけどね」
「海かあ。海って、大きい水溜まりの、あの、あれですよね?」
「そうそう。水溜まりかどうかは知らないけど、そんな感じ。でもほら、この海は閉じちゃってるんだよ」
海というのは、開いているはずだ。
「たぶん巨像の影響だろうってじいさまは言っていたけど、なかなか神秘的な光景だったらしいよ。閉じ込められた海に残された船。流れ着いた人々が協力しあって、村を作っていたんだって」
「じゃ、そこに行ってみようか、クロエ」
「良いんじゃないかな」
「聞いてた?」
「指が甘いんだ」
「そう……」
サンク・トーストを持っていた指をぺろりとなめながら涼しい顔をしている。
なんだその得意げな顔は。意味がわからないぞ。
「ごちそうさまでした」
「うん」
大きな旅行鞄を引きずって、帆布のバッグを担ぐ。
ジェニカさんも一緒に立ち上がった。
「お代をお願いします」
「お代? ああ、手紙に入ってたから良いよ」
「……ねえ、クロエ、やっぱり一度アルルカンに戻ってお礼を言ったほうがよくない?」
「そんなことをするとわたしのため息が止まらなくなってしまうよ」
「良いのかなあ」
「良いんだよ」
クロエに急かされて、ぼくは風船と蹄亭の出入り口に向かった。
ドアマットの上で一度立ち止まる。
くるりと回ると、ジェニカさんは優しそうな顔で腰に手を当ててこっちを見つめていた。
「ありがとうございました、ジェニカさん!」
「うん、頑張ってね。疲れたらいつでもおいで。サンク・トーストを用意しておくからね。……いってらっしゃい」
「はい、行ってきます!」
ドアベルがカランと鳴る。
天頂に登ろうとしている太陽が、ぼくらの影をウィルズの道に強く描き出した。
駐車場に止まるビークルの荷台の荷物をチェックする。石炭、干し肉、缶詰とお酒。木と金具でできた折り畳みの机と椅子も積んでいる。テントだってばっちりだ。あとは携帯できるエーテル灯、そしてゴツいスペアタイヤもある。
よし、長旅に耐える準備はばっちり。
「良い宿屋だったね、クロエ」
「うん。朝食も美味しかった」
新品のビークルに鍵を初めて差し込む。するっと入った。酒屋の親父さんからもらったビークルは、鍵穴まで錆び付いていたらしい。
運転席に入ると不思議な匂いっがした。煙草でもなく、葡萄でもなく、初めて嗅ぐ匂い。これが新車の匂いというやつなのかな?
あんまり良い香りではない気がするけれど……
ブレーキを踏んで、鍵を差し込んでかちっと回す。
おんぼろビークルとは天地の差がある立ち上がり。力強いエンジン音が轟いた。
「えーと、ギヤがこれで、クラッチ、ブレーキ、アクセル、あー、ウインカー……これは? あ、ワイパーか」
すっ、と往復した二本のワイパーを思わず目で追ってしまう。
ワイパーが動くなんてすごいなあ。
これなら雨の日も走ることができそうだ。あんまり急ぎたくはないけど、もしものときを考えるとこの機能はあったほうが良い。
「よっし、出発!」
バックでお尻を出してハンドルを切り返す。
駐車場から見える宿屋の入り口にジェニカさんが腕を組んで立っていた。
微笑みながら手を振ってくれている。ぼくも手を上げて、クロエがそれに続いた。
「うわあ、全然揺れない!」
サスペンションがちゃんと機能してくれている。
こんなにも心地いいなんて。これならどんな距離だって走れてしまいそうだ。
「クロエ、管屋さんにも寄っておこうか。お世話になったし」
「ふふふ、ルチアーノ。舵取りはきみに任せるけれど助言くらいはさせておくれ。きっと祭りで忙しいよ。今日は本番だ」
「ああ、そっか。じゃ、せめて気球を見届けよう」
大通りに出て、ウィルズの正門に向かう。あの壁も無い門をくぐったのが三日前だなんて信じられない。
ずっとずっと前のような気がして仕方がない。
祭りの日だからか、ビークルの量は初日ほどではなかった。それでももちろんアルルカンよりは多いけれど。
往来はみんなタルスケルスに向かってるように見える。
風船の生地をタルスケルスの麓に運んでいる途中に破れてしまったと言っていたから、あの塔の近くでなにかあるんだろう。
でもきっと人が多くてビークルでは入れないから、ぼくらは遠くで見るだけだ。
「そういえば『風船と蹄亭』って、この街を現した名前だったんだなあ」
「風船がイマイチわからないけれどね」
「それは今からわかるんじゃない?」
門の向こうから牛の鳴き声を聞いて、風船と蹄亭で荷物を置いて、最初に入ることになった管屋さんも、この風船とやらに関係していた。
初日に作っていたのは風船に空気を送り込むためのパイプだったんだ。だから耐熱ゴムが必要だった。
影払いの
こうなってくるといろんなことに意味があるように思えるなあ。
他になにか不思議なことはあったっけ?
「そうだ、便せんはなんだったんだろう。覚えてる、クロエ?」
「ああ、露店でたくさん並んでいた、真っ白の便せんかい?」
「うん、都会だから手紙も多いのかなって思ったけど、こうなると何か関係がありそうだなってさ……っと、門だよ」
ぼくらが入ってきたときと同じように、やる気のない守衛さんたちが門のそばで雄牛の
祭りなのに、こっちは仕事か。大変だなあ。
「地図描きさん。もう出発かい?」
「風船っていうのが打ちあがるまでは待とうかなって思ってます。ここに少し停めることってできますか?」
「ああもちろんさ。一緒に見よう、暖かい
「カリダニクス?」
守衛さんが指を差すとパーンという火薬が弾ける音が聞こえた。サイドブレーキを引いてビークルを停めて、音の方向を見る。
秋晴れの青空に煙がたなびいている。
そういえば、アニーも暖かい
暖かい雪って、矛盾しているけれど。
「ほら、気球が上がってくるぞ。地図描きさんたちが直したんだって?」
「あ、まあ、一応」
ビル群の隙間から、白い気球がゆっくりと上がってきた。
風船が下げる小さな箱の中には、加熱装置が入っているのかな。
「飢饉が流行り食べ物が尽きそのまま冬を迎えようとした頃、主神エリツォトリがくれた炎にどこからともなく現れた聖牛が飛び込んだ」
守衛さんが眩しそうに目を細めて気球を見つめている。
「炎は人々を寒さから守り、聖牛は人々を飢えから救った。その火は冬の間消えることなく、その肉は春が来るまで尽きることはなかった」
気球は高度が上がるにつれて、はち切れんばかりに大きくなっていった。
「人々はその火を使って気球を上げた。寒さと飢えに震える遠くの人々を呼ぶために。その純白の気球の中に詰められたたくさんの『手紙』は風に乗り、数多の命を救ったという」
タルスケルスの頂上付近でついに気球がばちんと弾けた。
気球の中から飛び出して降り注ぐのは、陽に照らされたたくさんの便せん。真っ白の便せん。
「それを人々はこう呼んだ――」
――暖かい
ぶわと解き放たれた大量の手紙。聖火を帯びた便せんは風に乗り空で踊って、散り散りになりながらウィルズの深紅の天井を覆いかぶさんとする。
「今となっては、呼んだって人は来ないからな。もっぱら街の中でのやりとりになってるよ。学校に通ってる子どもたちなんかは、あれに送り主の名前を伏せた恋文を混ぜるって話だよ。だからみんな、あの風船を大事にしていたのさ。ありがとうな、地図描きさん」
たくさんの手紙。
舞い落ちる暖かい雪。
あのひとつひとつに誰かの想いが綴られて、あのひとつひとつに誰かのやさしさが籠められている。
冬に備えるウィルズのお祭り。
「すごいね、クロエ……」
「うん」
こんなに綺麗な雪があるなんて知らなかった。
アルルカンからたったのこれだけの距離なのに、ぼくはもしかしたらこの光景を一生見ないで終わるかもしれなかった。
冬は必ず寒いもので、雪は必ず冷たいものだと思っていた。
「どしてだろう、泣けてきた」
「きみのたましいは今、喜びにふるえているんだろうね」
……旅はきっと、寂しいものだと思う。
知らない場所に行って、知らない人しかいない町で眠る。
失敗もいろいろするだろうし、優しい人ばかりってわけにもいかないんだろう。
クロエの言う通り後悔することも、もしかするとあるのかもしれない。
でも、
「なみだが出るほど楽しいよ」
ああ、なんだかわかった気がする。
ぼくがどうして地図を作りたいのか。
どうして世界を完成させたいのか。
「行こうか、クロエ」
ぼくはきっと期待しているんだ。
世界はこんなありさまだけれど。
きっと、まだまだ楽しいことがあるんだってこと。
きっと、まだまだ人間はやっていけるんだってこと。
さようならウィルズ。
また、会う日まで。
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