第八話。風船と蹄。

 カーテンを開けると、朝日がよく差し込んだ。

 クロエはとっくの昔に起きていたという風で、昨日買ったブーツの靴紐をいじくりましている。服も昨日買ったものに着替えていた。

「起こしてくれても良いよ」

「誰かが隣でぐっすり寝ている朝というのは、なんだかとても良い気分になるんだよ」

「ふうん?」

 思えばあまりそういう経験は無いな。

 父さんと母さんはぼくよりも早起きだったし、他の人と寝るということもほとんど無い。

「二日酔いは無いかい?」

「うん。大丈夫」

「今日はなにをするんだっけ」

「えーっと……」

 正直言って、もうウィルズを出ても問題無い。少しばかりの物資を買い足せばいつでも出発できるはずだ。

 目的だったビークルを手に入れてしまったし、ウィルズは地図に描かれている。

 地図描きの旅としては、これ以上ここにいるのは時間の無駄だ。だからこそ――

「時間の無駄遣いをしよう」

「というと?」

「明日の聖火祭まで見てから、ウィルズを出よう。今日は屋台を回りながら次の目的地を決めるとか、どう?」

「舵取りは任せるよ、ルチアーノ……よ、と」

 ぎゅうと靴紐を引き絞った。

 膝下まである編み上げのブーツ。足のラインが出る白いパンツの裾はこげ茶色のロングブーツの中に収まっている。

 元々長い脚が、余計に長く見えた。

「うん、動きやすいし良い靴だ」

 ポケットに手を突っ込んで、踵で立って。つま先をこつこつと合わせたり片足を上げたり。

 ずいぶんとご機嫌だ。

 ぼくは靴を買ってない。ヴィンスさんからもらったものがあるから。履き潰してサンダルみたいになってしまったら、新しいものを探すつもりだ。

 この先に靴屋さんが必ずあるという保証は無いけれど、まあ、そのときはそのとき。履きつぶして、新しい靴を履くんだ。

 ひとまず部屋を出ることにした。

 風船と蹄亭の宿泊部屋は四つ。一階は酒場兼ロビーで、二階に部屋が並んでいる。ぼくらには一番奥の角部屋を貸してくれた。とは言っても、ぼくら以外の宿泊客はいない。

 たぶんこの宿屋には、酔っぱらって帰れなくなったひとたちが来るんだと思う。〆の料理を食べたり、朝日が昇るまで眠ったり。そうやって、風船と蹄亭はこの世の中で宿屋をやっていってるんだろう。

 真鍮のドアノブを捻って部屋を出ると、くすんだフローリングの廊下が伸びている。突き当りを右に曲がると階段だ。階段がぎしりと軋むにはわけがあるんだよ、とジェニカさんが教えてくれた。誰かが来たってわかるようにね、ということらしい。

 階段の下からはすでに美味しそうな香りが漂ってきている。パンと、これはなんだろう、砂糖?

「おはよう」

 エプロンを畳んでいたジェニカさんが、こっちを見て笑った。

「おはようございます」

「ちょうど朝ごはんができたところだよ。良かったら食べて行って」

「もちろんです、ありがとうございます」

「ん、おしゃれじゃないか、クロエちゃん」

「ありがとう。ルチアーノが似合うと言ってくれたものを買って正解だったよ」

「おやおや、まあまあ」

 うふふふふふふ、と意地汚い笑みをたたえるジェニカさん。

 なんだよ、なんだよこれ。

「それにしても美味しそうなにおいだ」

 クロエはそんなジェニカさんの様子なんて気に掛けることもなくテーブルに着いた。

 運ばれてくるのは良い按配で焦げ目のついた黄色いパン。そしてみずみずしい燻製肉を薄く切ったもの。

「卵と牛乳と、そして砂糖を溶いてパンをひたして焼くんだよ。サンク・トーストっていうんだけど、食べたことない?」

「そ、そんな……朝から卵と牛乳と、それに砂糖だなんて贅沢な……」

「そうか、アルルカンには家畜がいないのか。ウィルズに来るまでに川が見えたろう? あの川沿いで家畜を飼っているんだよ。いつまでもつのかと言われてはいるけれど、まあまだしばらくは大丈夫さ」

 そうか、ウィルズは広大なんだ。

 一日あれば全部回れるアルルカンとは違う。そりゃそうだ。

 これだけの人を養うための力がウィルズにはあるから、相応の人数が集まる。アルルカンじゃあそうはいかない。

「牛もいるんですか?」

「牛? もちろんいるよ。どうして?」

「昨日ウブラリッドクロスに行くと、牛のモチーフがたくさんあったので、なにか理由があるのかなって」

「ああ、ウィルズは牛の街だからね。雄牛の一角塔タルスケルスなんて名前の建物があるくらいだからね」

「あ、そうか……」

「聖火祭というのはね、主神エリツォトリが与えてくれた火に、聖牛と呼ばれた守り神が自ら入って人々の飢えを満たしたという話から始まっているんだよ。だから明日の聖火祭では牛肉料理が大盤振る舞い。この日のために各地から繋ぎヴィクラットを経て百頭の牛を集めるくらいだ」

「ひゃ、百頭!」

 それは壮観だ。すごすぎる。

 想像もできない光景だし、なによりもその百頭の牛を管理できるウィルズも圧倒的だ。

 これが皇国ホーエンベルクの首都……!

 驚くのもつかの間、冷めないうちにサンク・トーストを持ち上げる。ふわっふわなのにずっしりとした重み。そしてパンの繊維の隙間から立ち込める、ほどよく焼けた砂糖と卵の香り。

 奥歯のさらに奥から唾液があふれてくる。生唾を一度飲み込んで……

「いただきます」

 さく……とカラメル状の表面を歯が割り裂くと、閉じ込められていた甘みがどうっと決壊した。鼻の奥に充満する芳醇な香りが鼻腔を行ったり来たり。

 ハフハフと湯気を吐き出しているうちに、甘いミルクの残滓と唾液が混ざる。飲み込んでみると、胃の形がわかる気がした。溶けだした砂糖が五臓六腑に染み渡る……

「お、美味しすぎる……」

「それは良かった」

 クロエはもう完全に黙ってしまって、一心不乱にサンク・トーストにかじりついていた。

 一緒に出されたコーヒーも、これもまた料理に合う。なんてことだ、こんな朝ごはんがこの世にあるなんて!

「今日は何をするんだい?」

「屋台を回ろうと思います。ああ、旅の準備もしなくっちゃ」

 そういえばまだ食料を買っていない。

 最悪、クロエが道端で何かを捕まえて食べることになるだろうけれど、保存食もあるに越したことはないし。

 お祭りだから、開いてる店はないかもだけど……

「明日出発?」

「はい。明日のお昼に出ようと思います」

「そうか、やっぱり早いねえ」

「ずっといるわけにもいきませんからね」

「まあ、それもそうか。じゃ、今日は屋台を目いっぱい楽しんでおくれ。ここを出てまっすぐ行くと大通りに入る。大通りから雄牛の一角塔タルスケルスに向かうように酔いどれたちがひしめいているよ」

 むしゃむしゃと至高の朝ごはんを食べつくしたぼくとクロエは早々に宿屋を後にした。

 木の扉を開くと、あの懐かしい空気が鼻を突っついてきた。

 アルコールに冒された、陽気な祭りの朝。

 アルルカンの収穫祭でも嗅いだあの匂い。

 通りにはすでに赤ら顔の人たちがたくさんいる。まあ、昨日のこの時間はまだウィルズにいなかったから、平時の街の様子がどんなものなのかはわからないのだけれど。

 風船と蹄亭の駐車場には新品のビークルが一台だけ止まっている。あのおんぼろビークルは昨日のうちにビークル屋さんに持って行ってしまった。まだ動くのが奇跡だとおじさんは言っていた。おじさんはお酒をたくさん飲んでふらついていたから、運転したのはアニーだったけど。

 エーテルエンジンの四輪駆動。

 ぼくが旅をする上でどんな道でも走れるように、そう思って用意してくれたんだろう。

 分厚いタイヤは荒れ道を難なく駆け抜け、パワフルなエンジンは急斜面でもしっかりと進んでくれそうだ。

「エンジンをかけてみるかい?」

「うーん……それは出発するときの楽しみにとっておこうかな」

「じゃあ、買い物に行こうか。石炭はあったっけ?」

 ウィルズを出たら次はいつ人里に寄れるかわからない。

 燃料、食料、ほかの消耗品だって買っておかなくちゃ。

「見て、ルチアーノ。牛の被り物をしてる人がいる」

「そういえばウィルズに入るときも牛の鳴き声が聞こえたよね。あれもどこかからつれてきた牛だったのかな」

 子どもも大人もみんな楽しそうだ。

 各々食べ物や酒を持って、笑いながら歩いている。

 ぼくとクロエも、その流れに向かって歩き出した。

「人多いねえ」

「迷子になってはいけないよ、ルチアーノ」

「はいはい……」

 人は多いほうがいいのか少ないほうがいいのか、ぼくにはわからない。

 つい一昨日まで、ぼくはアルルカンの人たちしか知らなかった。強いて言うならば、歓迎年アセイルで来るウィルズやその近くの人たちだけ。あとは極稀に来てくれる、タビモライを恐れない行商人とか。

 けれど今はひしめく人を半ばかき分けるように進んでいるのだ。

 そりゃあにぎやかだ。

 まるで、終末なんて嘘のように。

 道の横から陽気な音楽が聴こえてきた。ずいぶんと騒がしい祭囃子だなあと見てみると、たくさんの人がたくさんの楽器を抱えて踊りながら行進している。

 みな一様に被っているのは、角の生えた帽子。牛のイメージだろうか?

「あれはなんて楽器だろう?」

 大きな袋を腋に抱えて、そこから生える笛のような管を咥えている。

「あれはバッグパイプだよ、ルチアーノ」

「袋とバッグパイプ?」

「そう。あの腋に抱えた袋に空気を溜めて、それを押し出しながら演奏するんだ。最初に息を吹き込む必要はあるけれど、それからは息継ぎで音が途切れることが無いんだよ」

 袋から三本の笛が突き出ているから、何重にも重なったような音がする。管楽器なのにあれひとつで和音が作れるというわけだ。それに言われてみれば確かに音が途切れない。

「あれは複雑な楽器だよ。穴を押さえて音を変えるのは管楽器と同じだけれど、さらには軸を回転させたり、圧を変えたりと」

「詳しいね、クロエ。できるの?」

「わたしはからっきしさ。ただ、あれを作るのに協力したんだ」

「え?」

「始まりの時代、バッグパイプは飛羅鳥のご先祖様の内臓を使っていたんだよ」

「げえ、内臓!」

「そう、大きな大きな胃の出口の片方に不燃草と呼ばれていた草を擦りこんで、炙るんだ。すると穴が焼き潰れて風船みたいになる。そして片方の穴に、木をくりぬいて作ったパイプを突き刺すんだよ」

「うええ、しかもくさそう……」

「失われし先人の知恵というやつだね」

「もしかして全部そんなんなの!?」

 そら恐ろしいことを言いながら、クロエは懐かしそうに微笑んでバッグパイプを見つめていた。

 赤いスエードの服に身を包んだ楽団は、周りに囃し立てられると嬉しそうに音を大きくして通り過ぎていく。

 人の流れに身を任せていると、だんだんと屋台が見えてきた。

 美味しそうな香りも漂ってくる。やっぱり牛肉料理が多いんだろうか?

「ごはんは食べたばかりだから、別のことしようか」

「じゃ、巡礼地プリメヴォを見るっていうのはどうだい?」

「ああ、そうだね、せっかくだし行ってみよう。でもウィルズの巡礼地プリメヴォってどこ?」

「わたしに聞いてもわからないよ」

「まあ……そうだよねえ……」

 でもそんな、当然でしょみたいな顔しなくっても……

 誰か、物知りそうな人……

「ジェニカさんは知ってるかな?」

「彼女なら知っているだろうけれど、ここまで来るとあそこに入ったほうが早いかもしれないよ、ルチアーノ」

 クロエが指さすのは車輪通しの路地ヴェロレットクロス。そうか、管屋さん。

 人混みを離れて狭い路地に入って、だまし絵の窓を撫でながらまっすぐと。

 すると現れる、メッキで出来た管屋プルムスの看板。

「ごめんくださーい」

 からん、とドアベルが鳴る。

「誰だい、今日は祭りだよ」

「すいません、地図描きです」

「……ああ、なにか用かね。降りてきなさい」

「ありがとうございます」

 ぼくとクロエは昨日と同じく薄暗い階段を慎重に降りた。

 階段の下で、おじいさんが椅子をがたがたと動かしてぼくらのために用意してくれた。

 いろいろな形の管が所狭しと張り巡らされた壁に囲まれた部屋。昨日の作業机の上はすっかりと片付いていて、飲み干したマグカップからコーヒーの香りが立ちのぼっていた。

「お茶を用意してこよう」

「あ、お構いなく、ぼくら少し聞きたいことがあって来たんです」

「聞きたい事?」

「はい、ウィルズの巡礼地プリメヴォを知りたくって」

巡礼地プリメヴォ……」

 プ、とおじいさんが吹きだした。

 こらえきれなかったといわんばかりに、腹を抱えて笑い始める。

「いやあ、いやあ、悪い。地図描きさんに道を尋ねられるなんて、まさか思っていなかったからなあ……あっはっは!」

 ひとしきり大笑いした後に、ズズっと最後のコーヒーを飲み干した。

「はあ……巡礼地か。残念だがウィルズの巡礼地はなくなってしまったよ」

「え!」

「もともとウィルズはホーエンベルク国が抱える大きな闘牛場プラザ・ディ・タルスの名前だった。闘牛場の周囲に点々と店や宿ができて城が出来て遷都して、やっと首都ウィルズとなったわけだ。だからきっと巡礼地は大きな闘牛場になるはずだが……今はただの広大な空き地さ」

「そうだったんですか……」

 アルルカンは巡礼地プリメヴォである聖なる焚火跡エインツォフィレアを大事にしていた。

 ウィルズにとって巡礼地はそこまで大切にするべきものではなかったのだろうか?

「うーん……無いなら仕方ないですよね……。じゃあ、旅の準備の買い物しに行こうか、クロエ」

「祭りも楽しんでくれよ、地図描きさん」

「はい、もちろんです。ありがとうございました」

 おじいさんにお礼と、突然訪問したお詫びをして管屋プルムスの階段を上がった。

 かつん、かつん、とクロエの新しいブーツの音が響いた。

 扉に近づくに従って……祭りの喧騒が……なんだか様子がおかしいぞ。

「悲鳴?」

「行こう、ルチアーノ」

 ぼくより先にクロエが動いた。ぼくの横をすり抜けて、あっという間に扉に迫る。慌ててその背中を追って外に出ると、大通りで明らかに先ほどとは違う乱痴気騒ぎが始まっていた。

 クロエと頷きあって一緒に車輪通しの路地ヴェロレットクロスを抜け大通りに走った。

 聞こえるのは人々の悲鳴と雄牛の怒声、見えるのは壊された屋台や頭を抱えてうずくまる人々。

「なん……クロエ?」

「あいつだ、ルチアーノ」

 瞳孔をカッと開いたクロエが、人混みの先をじいっと見つめていた。

 まっすぐ張った背中は、狩猟を始める準備が整ったという合図だ。

「なんだろう」

「牛が逃げて暴れてるんだよ! お前さんたちも早く逃げろ! ああくそ、憲兵は何してるんだ、さっさと肉にしちまえよなあ!」

 ぼくとクロエが立ち尽くしていると、名も知らぬ誰かがすれ違いざまに警告してくれた。数人の憲兵が出張って避難の指示を出している。あの人数じゃあ、暴れ牛と正面切って戦うのは危険かもしれない。

「ルチアーノ。どうする?」

「どうするって言われても……怪我人はいないかな?」

「少なくとも血の匂いはしない」

 そのとき、森の中で突如一筋の光が差し込んでくるように、雄牛の眼光が煌めいた。

 人混みの隙間を縫って突き刺さる、怒り狂った黒い瞳。鼻息を荒げて四肢を張り、まっすぐとぼくらをにらみつけていた。

 黒牛は唸り声を上げる。悲鳴と共に散り散りになる人々の中で、挑発するように蹄で地面を叩く。

 まるで、ぼくらを狙いすましているように……

「あの牛……」

「なに、どうしたのクロエ」

「……どうやら決着をつけたいらしい」

「決着? 決着ってなに?」

「ルチアーノ、頼みがあるんだ」

「えっ、えっ、な」

 雄牛が翻った。

「わたしの目になってくれ!」

 それを追ってクロエも駆け出す。

「えっ、待って!? なに!?」

 目になれ? なんのこと?

 クロエはびゅんびゅん先に行ってしまう。もうよくわからないけれどぼくも走るしかない。

 なんだ、なにが起きてる?

 それにしても速い。まったく追いつける気がしない。目になるどころかクロエの背中が見えなくなってしまう。

 くそ、今わかることといえばクロエはあの牛を追っているということくらいだ。

 ということは……追いつけないクロエを追う必要は無い。

 クロエは雄牛を追っている。そしてぼくに目になれと言った。

 つまり、あの牛を追えば良いのか?

 ウィルズの地図を思い出す。ぼくは門をくぐって風船と蹄亭に行くためにどの道を通った?

 ビークルの通行量を考えると、街の構造はきっと単純だ。いくつかの大通りを主軸に、路地が無数に伸びている。

 だとするならば、きっちり東西南北の四方向に道が伸びている? それならアルルカンより単純だ!

「だったらっ……!」

 初めて行く道でも迷うことはない。

 牛はあの巨体だから、下手な路地に入ろうとはしないだろう。ある程度大きな道しか通らないってことなら、路地を使って先回りもできるはずだ。

 じゃあクロエはどうして路地を使わない。それについてはすでに答えは出ている。

 迷うんだ。牛を目で見て追えば道など気にしなくても良い。けれど牛を見失えば? あっという間にクロエは迷子になる。この首都ウィルズ自体が、クロエの狩猟を阻む天敵と化すだろう。

 そうか、わかったぞ。目になれって、そういうことか!

「クロエ! 北……左だ! 左へ左へ追いやって!」

 ぼくの声が届いたみたいだ。手を挙げて合図を返してくれた。

 その手にはいつの間にか三本の矢が握りしめられていた。飛羅鳥を仕留めたときもそうだったけど、クロエはいつの間にか弓を手に持っている。もしかして、それが神様の力なのかな。

 ……結構気軽に使ってない?

 ともあれクロエは牛の右側に矢を放ち、ぼくの言った通り左へと誘導してくれる。

 このまま北上させれば、影払いの路地ウブラリッドクロスの先にあった広場、そしてその広場の先から南北に伸びていた大通りにぶつかるはずだ。ぼくは架空の地図を頭に焼き付けて、左手の路地に入った。

 距離感と方向さえ見失わなければ、直線距離で追いつける。クロエの目になれるはず。

 いま入った路地の名前はわからない。車輪通しの路地ヴェロレットクロスよりは広くって、影払いの路地ウブラリッドクロスよりは狭い。祭りに向かおうとしていたであろう人たちが、足を止めて暴れ牛の話をしていた。

 早くも噂になっているらしい。

 ぼくはとにかく人混みをかき分けて全速力で走り抜ける。

 直線距離を見つけるように、一本ずつ路地を詰めていく。クロエと雄牛が駆け抜けるはずの大通りへと。

 見えた……!

「危ない!」

 路地から飛び出した雄牛が危うく小さな女の子を撥ねるところだった。クロエが渾身の一歩で踏み込んで、間一髪で女の子を救い出す。

 けれどクロエが体勢を整える一瞬の間に、雄牛は再び別の路地へと入り込んでしまった。今の様子だとあの雄牛、所構わず破壊していそうだ……

「クロエ、大丈夫!?」

「わたしは大丈夫だ」

 びっくりして泣き出す女の子を立たせて頭を撫でながら、雄牛が消えた方向を見る。道では無い。方向を。

 クロエは……違う、神さまは、それくらい道がわからないのか……?

「あの牛……死ぬまで暴れ続けるつもりらしい」

「どうして……」

「……ルチアーノ。わたしを導いてくれ。いま雄牛が入った路地はどれだ?」

「え……」

 はっきり言って、ぞっとした。

 方向音痴なんかじゃない……これは病だ……そうじゃなけりゃ何かの呪いだ。

 たったいま雄牛が入った路地がわからないだって?

「ルチアーノ……話は全部後にしよう。いまはあの雄牛を止めないと、祭りがめちゃくちゃになってしまうよ」

「……わかった」

 とにかくあの牛を止めて混乱を鎮めなきゃあ、明日の聖火祭が台無しだ。

「あの牛、いったい何がしたいの?」

「何もするつもりはないさ。あの牛は、自分の魂を全うするだけだよ。全身全霊で」

「魂……」

「牛を見つけ出そう、ルチアーノ」

「とりあえず、牛が入ったのはあの路地だけど……」

 雄牛が入っていった路地を指さすとクロエは頷いた。

「一緒に行ってくれるかい?」

「うん。もちろん」

「……奇妙だよね」

 クロエは苦笑しながら歩き出した。

 いたずらがばれたようなときの子供のようなバツの悪い顔で。

 その背中をぼくがついて行く。今から入る路地の名前は、夕暮れに至る路地オッケアスクロス

「道がわからないんだよ。人が作った道に関する一切の記憶ができないんだ」

「地図描きと一緒に旅をすることと、それは関係しているの?」

「そうとも言えるかもしれないね」

 クロエはいつものように曖昧な返事をした。

 明言を避けて追及を免れようとする、神さまの言葉。

「ルチアーノ」

「なに?」

「きみは死ぬとき何がしたい?」

「え、え、なに、いきなり」

「あの牛は選んだんだろう。死に様を」

 路地を抜けると見渡す限りの空き地が広がっていた。ビル群の外からでは確認できなかったけれど、相当広い。

 崩れた壁が残った円形の広場。その外縁に立つ人々。

 風が吹くと舞い上がる砂と埃。そしてその中心に立ちぼくらを待ち構える、黒毛の猛牛。

 そうか、ここは……

「皇国ホーエンベルク首都ウィルズ、その始まりのプリメヴォ……闘牛場プラザ・ディ・タルス

「ルチアーノ」

 クロエの手からはいつの間にか弓矢が消えている。代わりに持っているのは赤いムレータ細剣エスパーダ

 ブーツに収められたスキニーパンツと相まって、まるで闘牛士のようないでたちだ。

「目を離してはいけないよ」

 クロエは路地から出る。

 昼を過ぎた日差しが、クロエの黒髪を強烈に照らした。

「今から始まるのは、さすらう魂の決着だ」

 さすらう魂?

 ぼくが質問するよりも先にクロエは闘牛場へ向かった。

 外縁に立つ人々が一気にざわつく。

 雄牛はまるで「待っていた」とでも言わんばかりに鼻息を荒げ、力強い蹄で地面を叩いた。

 クロエの背中に隠れた赤いムレータが風に揺れた。

「偉大なる闘牛デウス・コリダ・ディ・タルス!」

 クロエの声が壁も無い闘牛場に轟いた。

 今までのそよ風のような声とは全く違う。狩猟の女神クロエテオトルが放つ鬨の声。

 雄牛もそれに応えるように怒声を上げた。観客たちはあっという間に飲み込まれ、息をする声も聞こえてこない。

「槍方も銛方もいない! これはお前が望む決闘だ!」

 背中に隠すムレータを広げた。

「来い《オゥレ》!」

 同時に雄牛が飛び出す。ここまで地響きが届きそうな壮絶な蹄音。ビークルが走るような速度でクロエに迫る、迫る。

 どれだけ近づこうとも足を緩めることはない。猛牛は闘角でクロエを串刺しにするつもりだ!

 だがクロエは直立のまま動こうとしない。ムレータを広げて引き付け、引き付け……誰もが目を覆うその瞬間に、躱した。

 雄牛がクロエの脇を猛スピードで駆け抜ける。半身を翻したクロエはすぐに先ほどの姿勢に戻る。両足を揃え、右腕からムレータを垂らすのみ。

 黒牛はその筋肉の塊とも言える四肢でスピードを受け止めて、再び狩猟の女神クロエテオトルに向かって走り出した。

 クロエはそれをまたしても受け流す。

 牛はどうどうと回って睨みつけた。生来の宿敵を、最高の好敵手を目にしたように。

 クロエは何かをつぶやいている。その瞳は少し伏せられていて、悲しんでいるようにも見えた。

 しかし雄牛がブルルと鼻息を鳴らすと、クロエも吹っ切るようにため息をついて姿勢を正した。

 しんと静まり返った闘牛場で聞こえるのは雄牛の唸り声と風の音だけ。

 誰もが感じている。決着は一瞬だ。両者ともに互いを一撃で沈めるつもりだろう。闘いは長引かない。負傷という言葉はない。次の一撃は必殺、決闘の結末は死だけだ。

 ぼくにはどうしてクロエがあの牛にこだわるのかはわからない。

 放っておけば、都会の優秀な憲兵がどうにかしてくれるはず。ぼくらがそこに介入する必要はない。

 けれど、何かの意図が、何かの意味があるんだろう。クロエが真剣な瞳で雄牛を見つめていて、そして、雄牛はもう決して逃げようとしない。

 そうだ。まるで、雄牛は最初から闘牛場で死ぬことを望んでいたかのように。

「来い《オゥレ》!」

 同時に黒牛の怒号が轟く。今度は確実に地鳴りを感じた。死に際に器からあふれる魂のちから。四肢に宿るは矜持。殺意を込めた肉弾が、切っ先を向けて突進する!

 きっとあの牛は気づいている。

 自分の敵がこれまでにない存在であると。

 自分の生に終止符を打つのが圧倒的な存在であると。

 自らを突き刺すエストックの持ち主が、狩猟の女神であると――

 雄牛の闘角が赤いムレータを突き刺す。

 クロエと牛が毛ほどの距離ですれ違う。ムレータに潜んでいた隠し剣の行方は――雄牛の心臓。

 どう、っと雄牛が前足を折って突っ伏した。深々と突き刺された細剣エスパーダ。闘牛場に引かれる深紅の血痕。だくだくと流れ出る血の池で雄牛は沈黙した。鮮烈な一撃は、苦しむ間もなく雄牛の息の根を止めた。

 引きちぎられたムレータを捕まえて、雄牛の顔にかける。

 そのままクロエが路地に向かうと、観客たちはわぁっと歓声を上げるのだった……


「これ、さっきの牛かな」

 市場に戻るとクロエもぼくも、そして街の人々も落ち着いていて、みんなで手を貸しあって片付けをしていた。

 それからぼくらは炭を買い燃料を買い、エーテル充電器や保存の利く食料とそしてお酒を買って回った。夕方になるころには「謎のマタドールが暴れ牛を沈めた」といまことしやかな噂で持ち切りになっていた。

 やっと今日やるべきことを終えたぼくらは、再び散歩をしながら麦酒と肉料理に舌鼓を打っているというわけだ。

 さっきの牛は、宿屋のジェニカさんが言っていたように別の街から祭りで出す食事用として連れてこられたらしかった。もう屋台のどこかで料理になっているのかもしれない。肉というのは、迅速な処理が必要な贅沢な食材だから。

 だから決して、一片足りとも無駄にしてはいけない。

「アサードには葡萄酒が合うのだけれどね」

「じゃ、明日はワインを飲もうか」

 金網の焼き目がついた牛肉のアサード。

 ほんのりと香るハーブが料理を上品にしている。味付けはシンプルに塩のみ。

 これがまた牛の脂と絡んで旨味になって、噛めば噛むほど舌の奥から唾があふれてくる。

 ウブラリッドクロスから抜けた広間でぼくらが美味しい美味しいと言っていると、正面の道に人がぽつぽつ集まり始めた。

 みんな心配そうな顔で……というか悲しそうな顔で話し込んでいる。

 その人だかりの中心にいるのは……

「あれ、アニーじゃない?」

 管屋さんのお孫さん、そしてビークル屋さんの娘さん。

 あの元気いっぱいのアニーが泣き腫らした顔で立ち尽くしている。

「本当だ、なにがあったんだろうね」

「行ってみよう、クロエ」

 人だかりに近づくと、大きな布が見えた。べったりと地面に張り付いている。

 白い布はところどころが無理やり引き裂かれたように破れていて、どうやらそれがまずいようだった。最早涙も枯れたという様子のアニーが呆然と立っている。

 ビークル屋さんがその頭に優しく手を置いて慰めていた。管屋のおじいさんは布のあちこちを確かめて、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。

「どうしたんですか?」

「ああ、地図描きさん」

 ビークル屋さんが悲しそうに笑った。アニーはこっちに気づいてもいない。

「連れてきた牛が暴れてな、それで街の人が避難するときに、明日使う風船の布を踏んでしまって破れちまってるんだよ。ちょうど雄牛の一角塔タルスケルスの麓に持って行くところでなあ」

「風船? この布ですか?」

「ああ」

 風船?

「明日の祭りでこの布を気球にして飛ばすんだが、ご覧のありさまさ」

「街の人がみんなで一生懸命編んだのに……」

 アニーが鼻声でつぶやいた。

 この世の終わりのような顔だ。

 ああ、そうか。初日に管屋さんでアニーと初めて会ったとき、完成したとかなんとか言っていたな。これのことだったのか。

「どうせ打ち上げた後は破るんだが、これじゃあそもそも飛ばねえなあ……」

 ビークル屋さんの落胆に、アニーの涙腺が再び刺激されたらしい。

 わんわんと泣き始めてしまった。あわわと抱きしめるが、おじいさんはそれを見てため息をつくばかり。

「つまり、パンクしちゃったわけですね」

「パンク?」

 管屋のおじいさんが不思議そうにぼくを見上げた。

「風船が破れたっていうことは、穴が空いて、空気が溜められないっていうことですよね」

「まあ……そうだが」

「穴を塞げば良いんですよね?」

「はあ……まあ……だが編むにはちょっと間に合わんだろう」

「ね、クロエ……直せるよね?」

 ぼくの勝手な提案にも、クロエは目をつぶって頷いてくれた。

「必要なのは、ちょっとばかりの時間と、ちょっとばかりの覚悟と、ちょっとばかりの我慢だけさ」

「よし、覚悟を決めよう。一晩ください、ぼくらがこれを直してみます」

「直せるの!?」

 バッとアニーが顔を上げた。

「うん。きっとね」

「わ、私も手伝うわ!」

「それはやめたほうがいいよ」

 ぼくが言う前にクロエがアニーの頭に手を置いた。

 耳元で何かをささやいている。

 すると先ほどまで泣いてぐちゃぐちゃになっていたアニーの顔がみるみるうちにきりっと整う。力強く頷き始めた。

「よし、それじゃあ早速始めよう、ルチアーノ」

「わかった。みなさんは、明日の祭りの準備をしてください。きっとまだ壊れているところがあるはずだから」

 けれどアニー一家以外はみんなは納得しないという顔。

 それもそうだ。どこの馬の骨とも知らないぼくらがいきなりこんなこと言ったって、説得力に欠けてしまう。

 しかしアニーが力を貸してくれた。

「みんな! この人は私の友達なの……少しだけ遠くから来ていて、いろんなことを知ってるの。だからここは任せて、風船を直してくれた後のことを考えないと!」

 外から来たのか、とみんなは珍しそうに目を丸めてぼくを見る。アニーの言葉は届いたようで、各々があそこを手伝おうと相談しあって街の修復に向かってくれた。

 よし、人払いはできた。

「ありがとう、地図描きさん」

「ん? ああ、良いよ。ぼくらもよくしてもらったし、ビークルだってタダでもらったんだから、これくらいはしないと」

 アニーは深々とお礼を言った。

 そんなに大したことをするわけでもないから、なんだかこっちが申し訳なくなってくるな……

「でも、どうやって直すの?」

「うん、それはね……」

 ぼくがクロエに解説を任せると得意げに微笑んだ。

「失われし先人の知恵というやつさ」

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