第七話。商人と紙の上の街。
青白いエーテル灯が影払いの
「珍しいの?」
「どういう仕組みで動いているんだろう」
「エーテルだよ」
「そもそもそのエーテルというのも、ずいぶんとぼんやりしたものだよね」
エーテル。
『鉄色の
人間たちは地下資源を使って電気を作り、その電気で機械を動かして仕事をこなす。鉄色に埋もれた理想郷。その当時、人々は永遠とも思える安寧の中で、天上の贅沢を味わっていたらしい。
鉄色の
鉄色の黄金時代より以前、人間の中には『魔法』を使える者がたくさんいて、その技能の扱いの上手さで身分が決まるほど重要なものだったらしい。
しかし人々は、そのちからを誰しもが使えるようにしようと思った。誰もが平等に、誰もが幸福に生きる術を手にいれるためだ。
長く長く研究を続ける過程で、魔法使いたちが大気中に充満する物質を使って魔法を使っているのだということがわかった。まず、それがエーテルの正体。そしてそのエーテルを操作するにあたって必要だったのが、魔法使いの口から紡がれる呪文。それらを体系化して標準化して、そして『エンジン』という形で魔法使いの技術を機械化することに成功した。
それからは、あっという間に進化が進んだ。
何十年も何百年も停滞していた技術の進歩がホップステップジャンプの勢いで躍進して、エーテルエンジンの開発からまさに十年で、のちに語り継がれる『鉄色の黄金時代』が到来したというわけだった。
「どうしてエーテルじゃなくって、地下資源を使うようになったんだい?」
「不安定だったから、らしいよ」
エーテルを操作する技術を見つけたところまでは良かったけれど、その肝心のエーテル自体に不安定な要素がたくさんあった。
天気や気圧、標高なんかでも濃度が変わるし、なによりも月の満ち欠けによる落差が酷かった。これではとてもじゃないけどずっと使っていくには厳しい、そう思った技術者たちが、今度は地下資源に手をつけた。
しかし今度は状況が一変。巨像による『大崩壊』の後は、その地下資源の供給が断たれてしまった。だから今現在のメインエネルギーは、不安定ではあるけれど、どこにだって存在しているエーテルに落ち着いた。
ウィルズにある数々の信号も街灯も、動力源は恐らくエーテルだ。
「魔法を機械で使えるようにしたわけだ」
「そう。クロエも魔法は使えるの?」
「もちろんさ。神さまだからね。けれど神さまは……」
「めったにちからを行使しない、でしょ」
「おっと、これはこれは。ふふふ」
クロエは嬉しそうに微笑した。
ふと、気づくとぼくらに向かって手を振っている人がいる。
ああ、あれは……
「地図描きさんたち! また会ったわね!」
管屋さんのお孫さん。確か……アニーだ。
ぼくやクロエと同様ウブラリッドクロスで買い物でもしたのか、大きな紙袋を持っている。
「観光は終わったの?」
「うん、ひとまずね。宿屋に帰るよ」
「わたしも風船と蹄亭に行くの。一緒に行こ」
「宿屋に?」
「うん。お父さんが、今夜は風船と蹄亭でご飯を食べるんだって」
「お父さん……あっ! ビークル屋さんの?」
「あら、知ってたんだ」
もしかして管屋さんはもう連絡したのか……?
「地図描きさんたちも服を買ってたのね」
「寒さに備えなくっちゃいけないから」
「そうね、もうすぐ雪が降るもの。ウィルズの次はどこに行くのかって、もう決まってるの?」
「最終的には最果てに行こうと思ってるよ」
「じゃ、ここから北ね。ずうっと北。地形が変わっていなければ。今から行けば、もしかしたら一番寒くなる時期までにはたどり着く、のかな?」
「できるだけ、遠回りするんだ」
アニーは、ああ、となにか納得したようにつぶやいた。
「そうね、地図を描くんだものね」
ウブラリッドクロスを抜けて大通りに出る。ここから西にまっすぐ行けば、すぐにでも風船と蹄亭にたどり着く。
ここでは、遠回りをする必要はない。
「ね、でも、地図を描いてもどうやってみんなに伝えるの? だって地図描きさんは……あっ」
「ふふ」
アニーが慌てた様子でどもり始めた。それを見てクロエが笑う。
言いたいことはわかった。
だって地図描きさんは。
だって地図描きさんは……タビモライで死ぬんでしょう。
「それはね、エーテルの力を借りるんだ」
地図描きにだけ持つことを許された『神の白地図』。ぼくがそれを持ってぼくの目で大地を見渡すことによって、自動的に地図が書きこまれていく不思議な紙の束。
ぼくが記した地図はある時点でエーテルに乗って、世界各地の地図に浸透していく。
数ページ分まとまれば、いつの間にか世界中の地図にそれが現れるというわけだ。これが、太古より連綿と受け継がれる謎の技術。
きっと、これぞまさしく『魔法』という。
「ええ、なにそれ……」
アニーはわかりやすく「わからない」という顔を作った。
無理もない。魔法技術はもう根絶やしと言っていい。鉄色の黄金時代をもたらしたエーテルエンジンは、その便利さと気軽さから、世界中から魔法というちからを奪ってしまった。
それは仕方のないことで、そして進化のために必要なことだったんだろう。鯨に足の骨があるように。人間のお尻に、尻尾の骨があるように。
アニーはあれこれと質問してきた。
アルルカンはどんなところだったのかとか。両親はどんな人だったのかとか。
ぼくとクロエは本当のところどんな関係なのかとか。
「ね、ね、クロエさん教えてほしいことがあるの」
「ん、なんだろう」
「わたしの友達にね、幼馴染の男の子が好きっていう子がいるの」
「ふうん」
「でもね、その子はちょっぴり臆病で、気持ちを伝えて気まずくなるのが怖いんだって」
「へえ、そうなんだ」
「クロエさん大人っぽいし、こういうときどうすれば良いのか知らない?」
女神さまは笑いをかみ殺しながらも一考するように顎を触った。
「その子はきっと、もう自分がやるべきことを知っているだろうね」
「やるべきこと?」
「そう。ありったけのお小遣いを持って、服屋が犇めく路地に繰り出して、めいっぱい可愛い服を買っておめかしをして、祭りのときかその後か……きっと自分の気持ちを打ち明けるつもりさ」
「……それはまずいかな?」
「わたしなら、その愛くるしい友人にこう伝えるよ、アニー。恋はなまもの。それにとびっきり繊細な、ね。迅速で的確な調理が必要な、お肉と一緒さ」
いきなりむつかしい話を始めた。
でもアニーはじいっとクロエの言葉に耳を傾けている。
いったいこの人たちは、何の話をしているんだ?
「うまくいくかはわからないけれど、すべて終わってお皿に盛ったとき、焦げていたり、朽ちていたら、とても悲しいじゃないか。だからその友人に、ぜひとも頑張りたまえと伝えてくれないかな」
「わ、わかった! 伝えておく、頑張る!」
フンス、と鼻息を吹いて気合いを入れる。
いやいや頑張るのはきみじゃないだろ、アニー?
そんなこんなで、アニーがあれこれクロエに質問する間に風船と蹄亭が見えてきた。
ぼんやりと光るエーテルランプが木の看板を照らしている。駐車場に停めてある鉄くずみたいなぼくのビークルの隣に、ぴかぴかの新品ビークルが並んでいた。
ああいう風に新しいビークルと並べて見ると、よくここまで動いてくれたなあと感心してしまうほどだ。
まるで、車輪のついた土塊だよ。
「お邪魔しまーす」
アニーは勝手知ったる様子で風船と蹄亭の敷居を跨いだ。ちりん、とドアベルがこだまする。
ふわっとパンの香りが漂ってきた。そこだけ空気が柔らかく暖かくなったような、あの香り。
「あら、地図描きさんと一緒なのね、アニー」
風船と蹄亭の女主人、ジェニカさんがビールジョッキを持っていた。
クロスが敷かれた丸テーブルには、赤ら顔のおじさんが気分良さげに手を上げる。
「おう、アニー! そしてそちらさんが地図描き少年?」
「お父さんのこと知ってるみたいよ」
「オー! じいさんから聞いたんだろ? 表のビークル持ってきてやったんだぜ!」
表のビークル……!?
「あっ、あんなピッカピカの新車を!?」
「そうだそうだ。高くつくぞお、早く商談をしよう、ここに座れ、ここに」
そ、そんな、さすがに買えない。新車を買うつもりではあったけど、それは型落ちのお古のつもりだったんだ。
あんなの、酒屋のビークルなんてタイヤの溝にも足りない!
「まずはアルルカンから遠路はるばるご苦労さんの乾杯と行こうじゃないか。おうい、ジェニカ、ビール!……ビール飲めるか?」
「び、ビールは好きですけど……」
「おう、良いぞ。そこのお姉さんは?」
「では、わたしもビールを頂こうかな」
ジェニカさんが片手でジョッキを二つ、そしてもう片方の手でオレンジジュースを持って来た。
ゴン、ゴンとテーブルに叩きつけるように豪快に置いてくれる。ぼくとクロエと、そしてビークル屋のおじさんがビール、そしてアニーがオレンジジュースを手に取った。
「えー、ごほん、ではウィルズを代表しまして……」
「お父さんそんなに偉くないでしょ」
「ウィルズを代表しまして――乾杯!」
「あー無視した!」
乾杯! とアニー以外がジョッキを叩きつけあった。
「一杯目の乾杯は雪解けの証だ」
長い長い一口目を飲み込んだおじさんが満足気に語りだす。
「どうしてジョッキグラスはぶ厚かったり、木で出来ていたりするかというとだな、古代の乾杯はこう、力いっぱいにぶつけたわけなんだよ。そうすると互いの酒が飛沫になって互いのジョッキに入るだろ? そうするとだな、『誰の酒にも毒は入っていませんよ』という証になるわけだ。だから安心して酒宴を楽しみましょうってな!」
すでに出来上がっているおじさんにため息をつくジェニカさん。クロエは面白いものを見る目でほほ笑んでいた。
「結局今日も酔っ払いが来ちまったよ、ごめんね地図描きくん」
「いえ、にぎやかな食事も大好きです」
「あーそうそう、今日は商談に来たんだよ、良いか、地図描き少年。こんなご時世だ。ビークル一台の手配にもそりゃあとんでもない時間と労力がかかる。ヴィクラットに置いた発注書はヴィクラットを経由してヴィクラットに届き、ヴィクラットを経てまたヴィクラットに行く……果てしのない旅を終えた発注書が供給者に届くのなんて何か月かかるかわかんねえ」
おじさんは茹で豆を皿に並べて、その遠大なる発注書の旅をわかりやすく教えてくれた。点在する茹で豆を、トマトの欠片が渡っていく。
最終的に、ビークルはどこ産なのかわからなくなる。いくつものヴィクラットを中継して届けられる場所は果てしなく遠いのかもしれないし、もしかしたら一周回ってこの近くなのかもしれない。
酒屋さんで働いていたからよくわかる。注文のお酒が二年後に届くなんてこともあったな。それも、作った人がどこの誰なのかもわからないものだ。
「だからあのビークルを手に入れるのもとんでもなく大変だったんだ。四輪駆動のエーテルエンジン! どんな山道だって進んでみせる戦車みたいなビークルさ。だから高くつくんだ。あれは高くつく。それこそお金如きじゃあ買えないくらいだ」
「あの、ぼくはもっと安いやつでも……」
「そこでだ! 地図描き少年……お金以外のもので買ってくれ。あのビークルを」
おじさんの赤ら顔はいつの間にか引き締まっていて、ぼくを挑発するような眼になっている。
お金如きじゃ買えないビークルを、お金以外のもので買う……
「俺はな、地図描き少年。俺は話を聞きたいんだ。いま俺の目の前で、伝説の地図描き一族の末裔が酒を飲んでいる。これほど愉快なことってあるか? 世界の希望がいま俺の目の前でビールを飲んでいるんだ! な、この賑やかな終末に一杯の麦酒を飲みながら楽しめるような話をしてくれよ。地図描きならではの話をさ」
これはまたとんでもない無茶ぶりだ……
地図描きしか知らない話……
ひとつだけ、あるな。
「……じゃあ、『商人とペーパータウン』の話を」
これはサンタマリア家に代々伝えられる逸話。本当のことなのかただの伝説なのかはわからない。
けれど地図描きとしての掟が記された、重要な『おとぎ話』だ。
「昔々、鉄色の黄金時代よりも昔、あるところに……」
あるところに、一人の地図描きがいた。
地図描きはようやっと荒野を抜けて人里に降りたところだった。
その街はさびれてはいたが、活気のある人々に満ちていた。色んな匂いが満ち満ちる市場の中に、ほんの少しだけ欲深い商人がいた。
昼も夜も商人はお金を稼ぐことに夢中だった。だから、商人はよく街の外に行っては道端に生えている草だったり、木の実だったり、あるいは魚を釣ってきたりと、自分の足で取ってきたものを売り、捕まえてきたものを売り……少しづつだが着々とお金を稼いでいた。
ある日、商人は遂に金脈を見つけてしまった。商人はその金脈の存在を誰にも明かそうとはしなかった。山を越え滝をくぐりようやくたどり着くその場所は、なかなか人に見つかるものではない。ただ一人、自分だけが知る地図を作り、決して迷わないように金脈へ通い詰めた。
掘れども掘れども出るわ出るわ。秘密の金脈からはざっくざっくと金が生まれ、商人はあっという間にお金持ちになってしまった。
すっかり街一番の富豪となった商人は、世にも珍しい地図描きの男の噂を聞きつけて、屋敷に呼び出した。
「地図を見せてくれ」
商人は横柄な態度だったが興味津々という様子で地図描きに詰め寄った。地図描きは、隠すことなく魔法の地図を見せた。自分の足跡とも言えるその確固たる旅路を語りながら、商人を楽しませてやった。
だが地図のあるページをめくったとき、商人の目がぎょっと開かれた。
「この盗人め!」
発狂したように商人が怒りだす。衛兵に取り囲まれる地図描きは、一体全体なんのことだと商人に言い返した。盗人もなにも、自分は今日この街に来たばかりだ。
だが商人、顔を真っ赤にして怒鳴る、怒鳴る。
「なにが魔法だ、このペテン!」
もちろん、地図描きにはなんの心当たりもない。
「やいやい、この地図に描かれている『リンドヴァーグ』という街! これは俺が俺だけの地図に勝手に書きこんだ嘘っぱちだ! それなのにどうしてこの地図に描かれている?」
商人は、自分の地図が誰かに模倣されたとき、すぐにわかるように嘘っぱちを混ぜていた。
つまりこの商人は、地図描きが自分の地図を複製したと糾弾しているのだった。
リンドヴァーグは、俺だけの街だ、と。
しかし地図描きは眉根を寄せている。商人が言いたいことがわからないわけではない。ではその困惑顔は……
「いや、リンドヴァーグは、確かにこの場所にあった」
地図描きは冷静な声で言った。自分は、そのリンドヴァーグを通ってきたんだと。
どうしても納得できない商人は、地図描きを従えてそのリンドヴァーグへと赴いた。
馬車に揺られること三日、すると商人の前にリンドヴァーグがあるはずの場所にさびれた村が現れた。
村の規模は商人がいた街に比べると足元にも及びはしない。だが住人に聞くと、確かにここはリンドヴァーグというらしい。架空の街は、いつの間にか存在してしまっていた。
商人はいよいよ頭を抱え始めて、村の者に聞いて回った。
このリンドヴァーグという村はいつからあったんだ?
村の人はこぞって首を傾げる。私は外から来たものだから、さっぱりわからないと。
信じがたい奇妙な出来事ではあったけれど、そこにあったからには仕方がない。商人はすぐさま地図描きに謝った。
乱暴なことを言ってすまない、でも何が起きたのか俺にもわからない。
しかし地図描きは商人を責め立てることはなかった。
「あなたは賢い商人だ」
どころか地図描きは商人を讃え始めた。
「我々地図描きは、自らの地図が悪用されないように、紙の上の
地図描きは淀みなく言葉を続けた。
「この世のすべてのものは、二度作られると言われている。これはその愉快な、かつ最たる事件だ。リンドヴァーグは、かつてあなたの頭の中にしか存在しない街だった。それが今や目の前に形となって現れている。つまりあなたの頭の中で一度作られ、そして二度目は現実に作られた。きっと、あなたの地図を覗いた何者かがここに流れ着き、存在しないリンドヴァーグの住人となったのかもしれない。果たしてここは地図上でリンドヴァーグとしての意味を獲得し、私の地図に描かれた」
結局、謎は謎のままだった。
リンドヴァーグがいつの間にか現れた理由はいくつもいくつも説として挙がってはいるが、どれも確証はない。
そもそもその噂は誰が言ったのか、そもそもその商人は存在したのか、そもそもこの話は本当なのか、実際のところはわからない。
一つだけ、たった一つだけわかることがあるとするならば、
「――こうして噂は今もまことしやかに語り継がれているということだけです、まるで、幻のリンドヴァーグ自身のように……」
どうだ、ぼくの渾身のおとぎ話……!
語り終えると、自分がのめりこんでしまったことに気付いて顔が少しだけ熱くなった。
おじさんの顔をちらっと見てみると……めちゃくちゃ目を輝かせていた……
「うっわあ、うっわあ、なんだそれ! すげえワクワクするじゃねえか! 良いこと聞いたなあ、アニー!
おじさんとアニーがうなずき合っている。良かった。楽しんでもらえたみたいだ。
この話を初めて聞いたとき、ぼくはきっと二人と同じ顔をしていたんだと思う。物語がぶわあっと一気に広がっていく感覚。追えども追えどもそのロマンの背中には追いつけなくて、その輝く影はいつの間にか果てしなく遠くまで行ってしまう。
決して追いつけないまばゆい光に釘付けになっているうちに、ふと現実に肩を叩かれる。
「なあ、その村って、今もあるのか?」
「はい、ありますよ。ちょっと待ってて……」
椅子の下に押し込んでいた帆布の肩掛け鞄から、白地図を引き出して机に置いた。
おじさんもアニーも目を丸くして「いいの?」と聞いてくる。良いんです、隠すものじゃないから。
「ほら、ここ」
アルルカンの遥か西南西。
リンドヴァーグという村が確かに描かれている。山を越え滝をくぐった先にある秘境。どうしてこんな場所に村があるのかと言われれば、確かに変だ。
けれど人はどこにでもいる。
絶海の孤島にも、雪に閉ざされた山脈にも。
その人にとって、きっとそこが生きたいと思える場所なんだと思う。リンドヴァーグを作った人にも、何か理由があったのかもしれないな。
「……遠いな」
おじさんが、ぼそりと呟いた。
ビークルでずっと走りっぱなしで行けば半年はかかりませんよ、そんなことは言えなかった。
こういうとき、地図描きは無力だ。きっとこの地図がなければ、リンドヴァーグはもっと遠かったはずだ。あっちに行ったりこっちに行ったり、通り過ぎたりもするかもしれない。
地図は人に道を示してくれる。最短距離を教えてくれる。こうやって行けばここにたどり着きますよと、寡黙に励ましてくれる。
けれど、病は治せない。
新しいヴィクラットを築くことができても、余計な道を通らずに済んでも、タビモライがなくなるわけじゃあない。
ウィルズの人はウィルズを離れることはできないし、リンドヴァーグの人も村に閉じ込められたまま。
「でも、ヴィクラットはできるわ」
アニーが地図を指で叩いた。リンドヴァーグと回りの街の中間地点を、とんとんと。
「リンドヴァーグにはない美味しいものが食べられるようになるかもしれない」
「地図描きは、そのために地図を描くんだよ、アニー」
ぼくら地図描きができること。
それは道を見つけることだけだ。命がけで遠回りをして、近道を見つけるだけなんだ。
「わかった。俺のビークルを使ってくれ、ルチアーノ=サンタマリア」
おじさんが手を差し出した。
ぼくはそれを握って、固い握手を交わした。
父さんと母さんがよく言っていた。
地図描きは希望の灯ではない。松明に油を塗って、焚火を見つめるばかりの孤独なひとたちに渡すだけなんだと。
すっかり酔っぱらったクロエと宿屋の寝室に転がり込んだ。
アルルカンを出てからずっとビークルの荷台で寝ていたから、ふかふかのベッドを思わず抱きしめてしまう。
「知ってるかい。ベッドは、人間による偉大なる発明のひとつなんだよ、ルチアーノ」
「そうなの」
「ふふふ、それにしても商人とペーパータウンの話は面白かった。どうやら忘れられそうにもないね」
「記憶に残る話だよね、なぜか」
強烈なストーリーや個性あるキャラクターが出るわけではないけれど、なんだかぼんやりと胸のあたりに居座るお話。
ぼくが初めて聞いたのは、本当に本当に小さいころだったと思うけど、それでもなんだか覚えていた。
「でもね、クロエ。ぼく思うんだ。この話ってきっと、ぼくらにとってすごく重要なことが隠されているんじゃないかって」
「ぼくらと言うのは、地図描きということかい?」
「うん、そう。不思議だよね、神の白地図って」
アルルカンは、村を作った人の名前にあやかったものらしい。
ウィルズだって、ホーエンベルク国王が「ウィルズである」と言って名付けられた。
どちらにもここはこういう名前の場所だ、という看板が立てられ、人々が集い、村や街となった。
「リンドヴァーグは存在しなかったんだよ。商人が勝手に呼んでいただけで、そして現れたリンドヴァーグにも『ここはリンドヴァーグです』と記すものはなかったそうなんだ。誰かがリンドヴァーグと呼んだからリンドヴァーグになっただけでさ」
「なにがおかしいんだい?」
「うーん……言葉にしづらいんだけど、その土地の名前って、いつ決まるのかな?」
机を挟んで隣のベッドで、クロエは寝転がりながら肘をついてこっちを見た。
続けて、ということだろう。
「リンドヴァーグという土地をリンドヴァーグたらしめる何かが、その村にはあったのかな。その土地の名前がリンドヴァーグじゃなくっちゃ、神の白地図にはリンドヴァーグとして記されることはないはずだよ」
「……確かにね。確かにそうだ」
「だからぼく、思ったんだよ」
橙色の柔らかい照明がクロエの顔に影を作っていた。
それでもわかる。ぎらりと見開かれているのが。
「神の白地図って、実はもう完成しているんじゃないかって」
「現に白紙のページがあるじゃいない」
「うん。きっと白いインクで描かれているんだよ。神さまか誰か。それこそ主神エリツォトリかもしれないけれど、そういう超上の人がぼくらを見下ろして、地図を描いたんじゃないかな。だから『ああ、ここはリンドヴァーグと呼ばれているのか。』って言って、リンドヴァーグを描いちゃったんだ。ぼくらがそれを実際に辿ると、インクが黒に変わるの。魔法みたいに」
「……なるほど」
「なるほどって。この話を聞いたとき、そういう想像をしだけだよ」
「ルチアーノ」
クロエはエーテル灯の紐スイッチに手を伸ばしながら言った。
「きみは、この世のすべてのものは二度作られると、さっきそう言ったね。一度目は誰かの頭の中。二度目は現実にと」
「うん」
「じゃあ」
じゃあ。
クロエは電気を消した。
「この世も二度作られたのかな?」
「クロエ……?」
「ふふ、酔ってるみたいだ。おやすみ、ルチアーノ」
この世界も、二度作られた。
もし、もしそうだとするならば……一度目は、一体誰の頭の中で?
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