第六話。古都散策。

 二本目に定めて入った路地の名前は『影払いの路地ウブラリッドクロス』。

 車輪通しの路地ヴェロレットクロスより随分と広い。車道は無いけれど、ぼくが六、七人くらい並んでも通れるような道幅がある。これは最早路地ではないのではとも思うけれど、名前に路地とついてあるからには路地なんだろう。

 路地の入り口からしばらくは夕日も差し込んでくる。道の両側にひしめくのは、驚くことにすべて洋服屋さんだ。びっくりするほど華美なものから、ぼくでも持っていそうな地味なものまでズラリと並んでいる。

 建物に施された、凝りに凝った装飾たち。あれは蹄の形をしたテーブルだろうか。牛頭を模した什器に野性味溢れる服が掛けられていたり、解体した自転車のフレームを看板立てにしたり。

 ここを歩いていると、なんだか急に自分の貧相な格好が恥ずかしくなってきた。路地を歩くひとたちはみなスラリとしていて、おしゃれなカバンを持って、姿勢を正して歩いている。一方でぼくは歯切れを被ったドブネズミ。なんかもう、本当に申し訳ない。たぶん悪いことはしてないけれど、謝りたくなってしまう……

 クロエはまだマシだ。白が基調のシンプルな服はこの路地によく似合っているように思えた。

 都会には都会に似合う服装と、それを売っているお店があるんだ。

 アルルカンには服屋が無かった。お酒や食料と一緒に積まれてきたものを、みんなで山分けする。破れたら縫って、ぼろぼろになったら雑巾にして。雑巾としても役に立たなくなったら、暖炉で燃やす資材にしてしまう。

 そうやってずっと使ってきた。最後の最後まで使い古した。

「車輪通しの路地ヴェロレットクロスは恐らく車輪を通すような狭い路地、ということだったのだろうけれど、影払いの路地ウブラリッドクロスはどういう由来があるんだろうね」

「服を選びながら、聞いてみよっか」

 土瀝青ビチューメンではなく石畳の道。それにやけに古びている気がする。他の石畳はまだ新しいように見えたけど、気のせいだろうか?

 その苔むしてひび割れた道を歩いて、ぼくとクロエは一番入りやすそうなお店を選んだ。

 軒先に伸びるのは真っ赤な幌。野ざらしの棚にはびっしりと服が詰められている。失礼かもしれないけれど、いかにも安物が売ってそうだ。看板が見つからないから店の名前はわからない。薄暗いお店の中では、柔和そうなおばさんがカウンターで編み物をしている。

 ウィルズの人々も冬に備え始めているみたいだ。毛皮のついたコートやマフラーが数多く並んでいた。赤、青、縞模様。

 クロエは店に入るやいなや、早速吊るされた服の壁に手を突っ込んで物色を始めていた。

「『始まりの時代』ではね、食べ物と動物の毛皮で暖を取っていたんだよ」

「食べ物?」

「そう。唐辛子ルブレム生姜ジンジベリを煮詰めたり炒ったりしてね。あとは雪山に住む獣。やつらの毛皮は極上のコートになる。寒さをしのぐすべを手に入れるために、極寒の地に踏み入るのさ。苦しい仕事だとわかっていても、やらなければもっと苦しくなってしまうからね……これ、似合う?」

 クロエはひとつ、服を引っ張り出して肩に当ててみせた。

 腰までをすっぽりと覆う暗い橙色のロングコート。ダブルボタンは寒風をよく防いでくれそうだ。

「いいんじゃない」

「ハァ、きみに恋人がいなかった理由がわかるよ」

「ぼくに恋人がいなかった話なんてしたことないよねえ!」

 クロエがため息をつきながらコートを戻す。

 な、なんだよ……

「な、」

「ん?」

「な、なんて言えば良いのさ、こういうとき……」

 ……あっ、やってしまった。勇気を出して言ったというのに、クロエの顔はひどい有様だった。

 ニタァ、と今まで見たことのない表情でぼくを見下している!

 くそ、失敗した、言わなきゃ良かった!

「ふふふ、自分で見つけなくっちゃねえ」

「くっ……」

 ちくしょう、なんだよそのいやらしい顔は……

 なにが、神さまだ。まるっきり人間じゃあないか……

「ルチアーノも恋人が欲しいんだね」

「そ、そりゃそうだよ!」

「うふふ、そういう欲には無縁な人間だと思っていたよ」

「そんなひといないよ……」

「ふうん……そうだ、待ってて」

 クロエはいくつかの服を引っ張り出して、店の奥に進む。カウンターで編み物をしているおばさんと一言交わして、試着室へと入っていった。

 ぼくも自分の服を探そう。男もののコートをいくつか手に取ると、なんだか暗い色ばかりだった。クロエは簡単に橙色のコートを選んでいたけれど、あんまり派手なものを着るのはなんだか恥ずかしい。それにこんなに上等な服を着たことがないから変な感じだ。

 田舎者っぽい格好になっちゃっていないだろうか?

 ぼくなんかがこんなの着て良いんだろうか?

 そもそも、着方あってる?なに、このひも……

「ねえルチアーノ、こんなのはどうかな?」

 カーテンを勢いよく開けたクロエが着ていたのは……

「なっ、そっ、なんでっ」

 白いブラウスと真っ黒なエプロン。ふわりと膨らむロングスカートの裾からはレースが見える。

 め、召使いの服だ!

「なんでそんなのがあるのさ!」

「いやあ、懐かしい。きみの父親はこんな服が好きでね、よくアガタに着てくれと懇願していたよ」

「知りたくなかったよそんなことーっ!」

「ふふふ、どうだい、性癖は遺伝しているかい」

「やめろーっ!」

 それ以上知りたくない!

 ぼくの父さんは強くて凛々しくて格好いいんだ!

 それにぼくはそんな、そんな恰好……

「……」

 健康的なオリーブ色の肌と白ブラウスのコントラスト、そしてさらにその上から黒のエプロンで引き締められるシルエット。

 手首のカラーがクロエの指の細さを際立たせている。ふっくら膨らんだスカートも、普段の活発に動くための服とは正反対で……

「屈しないぞ!」

「そうか、残念だ。きみのお世話をしようと思っていたんだけれどね」

 指の先っちょでスカートをつまんで持ち上げる様は、高級な屋敷で訓練された本物の……

「絶対にメイドなんかに負けたりしない!」

「じゃ、次か」

 しゃ……とカーテンを閉めて姿を隠してしまった。……しまった、じゃない。隠した。

 別に名残惜しくなんかない。あんな恰好で旅なんてできるはずがない。今はウィルズだけど、今後どんな道になるのか想像もつかないんだ。もっと軽やかに自由に動き回れる服じゃなっくちゃいけないんだ。

 だからさっさと次の服に……次?

「これはどうかな?」

 またしても開かれたカーテン。現れたのは、今度は大きく胸が開いた真っ赤なドレス!

 カシメを打った胴衣ボディスは大きく胸が開いていて目に毒だ。白いブラウスの袖はまくっている。クロエは自分が白いブラウスが似合うのを完全に理解している……

「なんだか麦酒を飲みたくなってくる服だね」

「ねえこのお店おかしいよねえ!?」

 けらけら笑うクロエがまた試着室に引きこもる。

 気づいたらカウンターで編み物をしていたおばあさんが口元を押さえて笑いをかみ殺していた。

「ごめんねえ」

「い、いえ、こちらも騒がしくて……」

「見ない顔だねえ」

「ええと、アルルカンから来ました。地図を描くためです」

「ああ……地図描きさんかい。そうか、そうか……」

 おばあさんは苦笑いしている。

 少しだけ嬉しそうで、少しだけ悲しそうな笑顔。

 ああ、きっと、ぼくはこれからはこんな顔にたくさん出くわすのだろう。

 ありがとうと言いながら謝るような。

「地図は、アルルカンまで埋まったんだねえ」

「はい。あとアルルカンから道がわかるウィルズまでは」

「ここまで来たんだ。洋服はなんでもあげるよ。私からも路銀を送らせておくれ」

「い、いえ! お金は持っているので、ちゃんと買います!」

 おばあさんはまたしても眉をハの字に落として苦笑した。

 下手に深刻な顔をされるよりも、ぎゅうっと胸が締め付けられる気がした。

「あっ、じゃ、じゃあ! 由来を教えてください! ウブラリッドクロスの由来!」

「ああ、この路地の名前だね。ここはね、昔、昔……」

 おばあさんは話し始めた。

 今は昔、大崩壊よりも大昔、人類が最も繁栄した『鉄色の黄金時代レストピア』よりももっと昔、ここは屈指の城下町だった。土瀝青ビチューメンで埋められる前の城下町には妥協を認められない完ぺきな石畳が敷き詰められて、その上を荷馬車が走ったり、甲冑を着た衛兵がランスを担いで歩いていたりした。人々は赤から金から華美な服装に身を包み、首が痛くなるような重いカツラを被って繁栄を謳歌していた。

 タルスケルスが建てられたのは鉄色の黄金時代だから、当時はまだあの塔は存在しない。その代わりに街の北側には大きなお城が建っていた。ウィルズは皇国ホーエンベルクの首都として、そして世界中が憧れる都市のひとつとして、その栄華をほしいままにしていた。

 街の形はだいぶ変わってしまったけれど、このウブラリッドクロスは別の名前で当時から存在していた。その頃の名前は『布の路地クロスクロス』。

 そしてこの路地の名前を変えてしまったのは、たった一人の少女だった。いや、少女と言うと誤解を招くかもしれない。

 その女の子はやんごとなきご身分の、由緒正しきお姫さまだったからだ。

 のちの第十八代目ホーエンベルク妃となるその子の名前はシャルロット=ホーエンベルク。

 彼女は生まれつき腕白な好奇心の塊で、来る日も来る日もお城を抜け出しては衛兵たちを困らせていたそうだ。

 心労で倒れてしまいかねない当時のお妃さまを見かねて、王様が城の者に命令した。

「シャルロットの城下散策をなんとしてでも阻止せよ!」と。

 初めは衛兵が隠れてシャルロットの後をついていった。城下の人々はシャルロットが来るなり赤く熟れたリンゴを分けたり、気軽に挨拶をしてみせる。自由気ままに歩き回るお姫さまが街に活気を与えているようにも見えたという。

 そして衛兵は必ず、見失ってしまうのだった。一人で追っても二人で追っても、もっと大勢で追ったとしてもいつの間にか皇女は消えていて、いつの間にかお城に帰っているのだった。

 にっちもさっちもうまくいかない尾行に業を煮やした執事長が、我こそはとその役を買って出た。執事長はお城でお姫さまに算数や歴史の授業をやっていたし、護身用の剣術の手ほどきだってやっていた。いわばシャルロット姫のお目付け役。シャルロットのことならばなんでもわかると大言壮語する執事長を出し抜くのは確かに容易いことではない。

 結果から言うと、執事長でも駄目だった。それほどのことを言うだけあって衛兵たちより長くシャルロットを追うことはできていたらしいが、お姫さまは執事長を必ずまいてみせた。

 これではいかんと今度は城の者が総出で姫を尾行した。後にも先にも皇国ホーエンベルク史の中で、城が空っぽになったのはこれが初めてだった。

 ある者はちょび髭をこさえたり、ある者は女の恰好をしたり、必ずや皇女の秘密の遊び場を見つけてみせようと意気込んだ。執事長は浮浪者に変装し、王様は百姓に化けて城下町に繰り出した。

 しかしそれでも皇女は遂に捕まらなかった。

 この最後の大尾行の日。すべての者の視界からお姫さまが消え去ってしまったのが、

「この路地というわけさね」

 だから、『影払いの路地』と呼ばれるようになったのだ、と。

「皇女さまは、結局どこで遊んでいたんでしょう?」

「さあ……もしかすると、かくれんぼをしたかったのかもしれないねえ」

「あはは! そりゃ良いや」

 みんな皇女さまの秘密の遊びを止めようと躍起になっていたのに、いつの間にか皇女さまの遊び相手にさせられていたってわけだ。

「昔から、服屋さんが多かったんですか?」

「この路地はそうだねえ。皇女さまはきっと、変装してお供の者を出し抜いてしまったんだろうね」

 ふふふ、とおばあさんは笑って、試着室の方に視線を移した。

 ぼくもつられてそっちを見てしまう。

「なにやら、面白そうな話をしているね」

 クロエは、ベージュ色のスキニーパンツと胸の開いていないブラウス、そしてファー付きのロングコートを着て試着室から出てきた。

 両手を上げて、ぼくになにかを問うような顔。

 そうか分かった。今度はしくじらないぞ。

「い、いいね、似合ってるよ」

「ふふふ」

「なんだよ!」

「これをください。ルチアーノが似合ってると言ってくれたから」

「なっ……!」

 クロエはいかにも「こうするんだよ」とでも言うような顔でぼくを見ている。

 おばあさんは相変わらず穏やかに笑っていた。

 ぼくもクロエも暖かそうな冬服を買ったらお礼を言って店を出て、再びウブラリッドクロスに繰り出した。夕日もほとんど落ちかけて、家路についた人たちで路地の往来も増えていた。

 一度服を買ってしまうと、この路地の他のお店にも入ってみたくなる。なんだか一つの山を越えた気がする。ぼくだっておしゃれくらいできるんだ。

 まあ、ぼくの服を選んだのはクロエなんだけど……

 神さまも、やっぱり服には気を使うのかな?

「神さまってさ、どこにいるの?」

「なんだって? きみの目の前にいるじゃない」

「違う違う、ここに来る前は、どこにいたの?」

「それぞれさ。一応、わたしたちが住む場所はあるんだけれど、地図描きの旅を終えたはずのウィツィポロだって戻ってきてないよ」

「クロエはそこにいたんだ?」

「いや、わたしはしばらく違うところにいたよ。というより、みんな戻れなくなったのさ。みんな、帰り道がわからなくなってしまったんだ」

「あ……クロエの方向音痴って、神さま全体のものだったんだ……」

「方向音痴ではないよ」

「頑なだなあ」

 いつものように涼しげで物憂げな顔。

 でも、少しだけいつもより悲しそうな、そんな気がした。

 帰る場所はあるけれど、帰り方がわからない。ぼくにクロエがついてきてくれる理由ってそこにあるのかな。

 地図を完成させれば帰り道もわかるかもしれない。ぼくは神さまの住処に心当たりはないけれど、もしそうだとしたらそこにも寄ってみたい。

 クロエだけじゃない。父さんと母さんと旅をしてくれたウィツィポロにも、帰り道を教えてあげなくちゃ。どこにいるのかもわからないんだけど……

「クロエ、帰りたい?」

「さあ、どうだろうね。帰りたいかと聞かれれば帰りたいかもしれないし、そうでもないのかもしれない」

「どっちでもいいってこと?」

「きみとの旅が楽しいということだよ、ルチアーノ」

 クロエはぼくの頭をまたワシワシと撫でまわした。

 帰りたいかと聞かれれば帰りたいかもしれないし、そうでもないのかもしれない。もしかして、ぼくも同じ気持ちなのかな。

 クロエとの旅が、すごく楽しいから。

 はっ、そうか、ここでこれを口に出すんだ。

 傭兵団のオーウェンさんも言っていた。モテる男は反復する!

「ぼ、ぼ、ぼくも楽し……あれ、クロエ?」

 悶々と悩んでいるうちにクロエの姿がさっぱり消えていた。

 えっ。

 きれいさっぱりいなくなっていた。

 見えるのは知らない人の背中ばかり。しまった、はぐれた。

 そうか、ちくしょう、ここはウブラリッドクロスだった……

 途方に暮れていても仕方がないので、歩き回って探すことにしよう。迷子で一番いけないのは、知らない道を歩き続けることらしいけれど、この場合はそうも言ってられない。クロエの方向音痴では、ぼくを探すことはもちろんのこと、宿屋に帰ることだって難しいはずだ。

 参った。まさに目を離した隙にというわけだ。

 ひとまずウブラリッドクロスを出よう。このごった返した路地では人なんて探せたもんじゃない。クロエもたぶんそう思うはずだ。……たぶん。

 かさばる冬服が入った大きな紙バッグを持っているから見つけるのは簡単なはずだ。変な道に入ったりしていないといいけれど。

 都会にたくさんいると言われている悪漢に襲われてもクロエなら大丈夫だろう。華麗に返り討ちにしてくれるだろうからその点は安心できる。

 一人きりになったら、ウィルズの広さを思い知らされる。

 道幅も広い。建物も大きい。人が多くて、いろんな匂いがする。相変わらず遠い空は薄暗くなりつつあった。

 両側に犇めいていた服屋さんが店を閉め始める。棚を戻して、幌を畳んで。箒でゴミを集めながら、隣の店の人と話している。

 ウブラリッドクロスを抜けると大きな広場につながっていた。じゃぶじゃぶと音を立てる噴水には、カップルが座って話していたり、お互いの唇を、くち……わ、わ! み、見ていないことにしよう……

 クロエの姿は公園にも無い。どこに行ってしまったんだろう。クリーム色の建物に囲まれた広場で立ち尽くす。四方八方、壁、壁、壁。頭上には切り取られた紫色の空があった。

 ウィルズの人たちは各々の帰路についている。お母さんと手を繋いだ子どもは、今日の出来事を土まみれの笑顔で報告していた。

 どこを見ても、知ってるものはなにもない。知ってる人は誰もいない。

 馴染みのない建物、馴染みのない人々の服装、ふるさとではあり得ない人混み。いつの間にか消耗していたみたいで、一人になると疲れがどっと出てきた。

 やっと実感した。

 旅って、きっとこういうことだ。

 今までとは違う場所、今までとは違う人。

 何もかもが初めての地図描きの旅。ずっとこれが続くんだ。一歩進んでは初めてのことに出くわして、それを解決しては知らない世界に踏み入っていく。それが、退くことが許されない地図描きの旅。

 たぶん、これを孤独って言うんだろう。あの暖かいアルルカンは日に日に遠くなる。みんなはぼくのことを少しずつ忘れていくんだろうけれど、ぼくはふとした瞬間にあの日のことを思い出すんだ。

 みんなが村の出口で待っていてくれた夜。おやじさんの煙草の匂い。そしてはなむけの葡萄の葉。

 ぼくにとっては、あれが最後のアルルカンだ。アルルカンにとっては、あれが最後のぼくだ。ぼくがいない場所にも歴史があって、ぼくが去った場所にも未来がある。

 これから訪れるいろんな場所で、ぼくはそれを痛感することになるんだろう。

 今までずっとアルルカンがぼくの世界だった。父さんと母さんが話してくれた常夏の島や樹上の国なんか、ほとんどおとぎ話みたいなものだった。

 でもこれからは違う。それを自分で見つけなくっちゃいけない。自分の地図に書き記さなくちゃいけない。

 この噴水にも作られた理由があって、あのカップルにもこれまでの足跡があるんだ。ぼくはそれに関われない。

 それが世界だ。それが広さだ。

 知らない場所に行くって、楽しいけれど、うれしいけれど……きっと、想像を絶するほど寂しいことなんだ。

「ルチアーノ」

 風のない湖に石を投げ入れるような声。

 クロエはウブラリッドクロスを出てすぐのところで立ち尽くしていた。ぼくと同じように、途方に暮れた様子で。

「はぐれちゃだめじゃないか、ルチアーノ」

「ええ、ぼくかあ……」

 すかさず人のせいにしてくるけれど、ほっとした顔を隠そうと目を逸らすクロエを見ると笑いが漏れるのを抑えきれなかった。

 どちらからともなく歩みを進めて、宿屋の方向を向いた。今度ははぐれないように、少しばかり近づいて歩く。

 ウブラリッドクロスに再び向かうと、青白いエーテル灯がぱちりと点いた。道の限りに見える街頭が、何度か瞬きしつつ順番に目を覚ましていく。

 夕日の橙色はもう消えた。道を照らすのはエーテル灯。すっかり店が閉まってしまった路地でも、街灯はしっかりとみんなの家路を照らしてくれる。

「帰ろっか」

 家ではないけれど、今のぼくらにとっての帰る場所。

 宿屋『風船と蹄亭』に。

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