第四話。雄牛の一角塔

 雨が止んだ。

 あの雨呼び鳥が別の場所で鳴いてるのかもしれない。雨雲はすぐさま移動してしまったようだ。

 ぼくはぐずぐずになったバーベキューセットの炭を鉄板でできたゴミ箱へ放り込んで、タワシで鉄樽を軽くこすって、片付ける。

 クロエは飛羅鳥(ドゥロンタ)の調理で使った道具を淡々と洗っては仕舞い、洗っては仕舞い、気付けば草むらの中でガソゴソやっている。

 半分に割った鉄樽に四本の脚を仕舞い込んで、おんぼろビークルの荷台に載せる。転がらないように箱やら何やらで固定して、クロエについていった。

「何やってるの?」

「クッツキムシを採ってるんだよ。くだんの役に立つ植物」

「ふーん、クッツキムシ?」

 クロエはぼくに答えるように、ばっさと草の束を掲げてみせた。

「この白い花びらを煎じるととろみが出て来る。それをさらに煮詰めて湯気を飛ばすと、獲物の足と罠を繋ぎとめる強靭に粘る生地になるんだ。今回はタイヤの穴を塞ぐだけだから、そんなに量はいらないかな」

「やっぱ狩猟の女神が知ってるってことは、狩りで使うの?」

「最早武器も成熟し道具も豊かになった今、とりもちで生け捕りにして引っ張っていく理由も、帆船の帆に空いた穴をふさぐ理由も無くなってしまったからね、失われし先人の知恵というわけだよ」

 手際良くクッツキムシを採集して、片手で持ちきれなくなったらぼくに押し付ける。

 五十本くらいになるんだろうか。適当にそれなりの数を抱えたぼくとクロエはビークルに戻って、さっき全部片付けてしまったキッチンセットを引っ張り出す。

「花びらをむしるの?」

「うん。使うのは花びらだけ」

「わかった。白いやつだね」

 ということでむしりはじめた。

 これが本当に接着剤になるんだろうか。荷台に座って、ふたりで花びらを黙々とむしり続ける。

 なんだか、母さんの手伝いで根菜のひげ根を取ってたことを思い出した。

 ベランダで足を投げ出してひたすらひげ根を千切るぼくと、そして母さん。父さんはキッチンでスープの下ごしらえをしている。たまに手に入る牛肉と野菜をぐつぐつ煮込んだトマトスープは、いつもみんなで作っていた。

「まあ実際大雑把でも良い」

「絶対面倒くさくなったでしょ」

 クロエのざるを見てみると、花びらというか花ごとむしって突っ込んでるのがいくつもあった。

 狩猟の女神さま、どうやら細かい作業に向いていないみたいだ。

「パンク塞ぐだけだから大丈夫」

「失われし先人の知恵ねえ……」

「おっと、ルチアーノくんが生意気を言い始めたな」

「突っかかるところわかんないよなあ」

 じっとりとした目でこっちを見るクロエをよそに、ぼくも黙々と、若干適当に花びらをむしってざるに盛っていく。

 なんの変哲も無い草の匂いだ。生臭いでもなく良い香りというわけでもない、あの青い匂い。

「それくらいで良いよ。火は……そうか、雨で消えてしまったか、そういえば。もう一回つけてくれないかな。温める程度だから、簡単で良いよ」

「わかった」

 あぜ道に転がっている石を積んで、コの字に固める。

 よく空気が通るように石炭を組み上げて枯れ草を敷く。ビークルの中から石炭を一つ取った。パチ、っと弾けて、枯れ草が燃える。

「手慣れているね」

 クロエは感心しながら鉄のボウルを持ってきた。水を水筒からざばっと入れて、中の花びらを解きほぐす。

 白い花びらが、褐色の細い指の間で踊っていた。

「神さまのちからで沸かすとかできないの?」

「神さまはちからを行使しない。めったにね。祈って救われた者を知ってるかい? 祈って救われる者は、結局自力で戦える者なのさ」

「も、元も子もない……」

「これは絶望の言葉ではないのだけれど、フム、ルチアーノにはまだ早かったかな」

 フフフ、と笑うクロエはぼくの頭を乱暴に撫でる。

 まったく意味の無いやり取りをしていると、ふつふつとボウルの中が沸騰し始めた。

 白い花びらは、泡に抗わずに水の中で舞っている。母さんが持っていた、スノードームみたいだ。

 気付くとボウルの中にはだんだんととろみが出てきていた。縁の部分が艶やかに光って膨らんでいる。泡の動きも鈍くなって、パチン、パチン、と水面で大げさに弾けていた。

 クロエは体育座りでボウルの中を見つめている。

「そろそろ?」

「うん、そうだね。かき混ぜてみて」

「はーい」

 木べらを突っ込む。

 明らかに水ではない重みを感じた。花びらから分泌された何某かの成分が、ネバネバを作っているんだろうな。

「花びらが溶けたら火を強くする」

「ふむ、じゃ、これよろしく」

 石炭を焼(く)べて、息を吹き込む。赤い部分が煌々と輝いた。熱がじっとりと炭を食う。

 ボウルの中のネバネバも強くなる。湯気が増えた。余分な水分が飛ばされていく。

 ぼくが火を焚いて、クロエがボウルをかき混ぜる。追加の指示が無いということは、このまま火力を強めて良いということだろう。

 しばらくすると、クロエがぼくの肩を叩いた。もう良いらしい。

 加熱を止めてからも、ボウルの中をかき混ぜる。

 水だった液体はねっとりとした白い粘液に変わって、沸騰するマグマのようにパチンと泡が弾けていた。

「あー、クロエが横着した花の部分が残ってるよ」

「エッ、なんの話?」

「……まあ、パンク塞げれば良いか。このまま混ぜるだけ?」

「うん」

「じゃ、準備しとくよ」

 ヨッコラ、と荷台からジャッキアップを引きずり出す。かなり重いが、赤くて油圧でガッツがあるやつだ。

 フロントバンパーの下に潜り込ませて、ジャッキアップする。きこ、きこ、と鳴りながら、おんぼろビークルの頭を持ち上げる。

 タイヤが十分に見回せるほど持ち上げられれば良いだろう。ガチ、とロックを噛ませて次に移る。

 荷台のキッチンセットから粉石鹸を取り出して、水にいくらか溶かして、コップに移した。その石鹸液をスプーンで掬って、タイヤにそろりとかける。こうするとパンクの箇所に石鹸水がかかったときに……

「よし、ここか」

 ぷくぷくと泡が吹き出た。良かった、タイヤが裂けてるわけではないようだ。これなら塞ぐのも簡単だ。

 小石か何かでも刺さったのか、小さい穴が空いているのかな。

 その小さな穴から空気が吐き出されて、石鹸水を泡立てている。吹き出す泡が無くなる前にチョークでパンク箇所に印をつけた。

 さて、

「普通に塞ぐ感じで良いの?」

「うん、こっちももう終わる」

 クロエはボウルを抱き上げて、そしてぼくの足元にドカンと置いた。

 白い液体はふっくらと膨らんでいた。ともすればパン生地にも見える。ウミヘビが通り抜けたみたいに、プスンプスンと小さな気泡が弾けていた。

「これを接着剤にするんだね」

 定石で言えば、ゴムのひもみたいなのをパンク穴に突っ込んで、接着剤を塗りたくる。ゴムの膨張特性と接着剤の気密性が合わさって、強力な穴塞ぎが可能になるというわけだ。

 だがクロエは得意気に首を振った。

「最初はぬめぬめとしてるんだけれど、薄く伸ばして空気に曝すと、それはそれは頑丈な生地になる。繭と枝とを繋ぎ止める、強靭な絹の糸のようにね」

 木の枝でクッツキムシ液を絡めとり、空気穴に塗りたくった。

 ダマになった部分は丁寧に伸ばし、薄膜を重ねるように穴に被せた。

「こんなので良いの?」

「うん。すぐに固まるよ」

「クッツキムシ、だいぶ余ったよね」

「そういうこともあるさ」

「どうするのこ……ウワッ!?」

 突如立ちこめる悪臭!

 タイヤから放たれる、牛乳を拭いた雑巾で豚小屋を掃除して更に汗を染み込ませたような……

「グワーッ!」

「え、くさ……」

「エッ!? 知らずに使ったの!?」

「これは臭いね、ルチアーノ……」

「なんなんだよ、もーっ!」

「まあまあ、そんなに怒らなくっさいなあ!」

 たまらずクロエもボウルを放り投げて立ち上がった。

 涙が出てきそうな悪臭! 幌に充満する毒ガス! さっきまでいい感じで葡萄酒を飲んでいたというのに、思わぬ刺客に全部吹き飛ばされた。

「う、失われし先人の知恵……」

「失われるには理由があるという教訓だね、ルチアーノ……」

「名言じゃないよ……」

 急いで幌のロックを外して、ロッドも外して、格納する。空はまだ曇りがちだけれど、もう雨は完全に止んでいる。

 クロエはわなわな震えながら呆然と立ち尽くしていた。

「こんなはずじゃなかった……」

「以前はくさくなかったの?」

「……いや……くさかった気がする……」

「……」

「記憶は風化するものさ、ルチアーノ」

「早く洗って出発しようか……」

 クッツキムシは放熱するときにとんでもない匂いを放つみたいだ。

 とても新鮮な植物が持っているとは思えない、この世の地獄を煮詰めたような悪臭を。

 しかし果たして時間が経つとクロエの言う通りカピカピに乾いて、真っ白だったクッツキムシ液は半透明になっていた。乾いた膜は弾力があり、しなやかでいて軽い。風を受けた帆のようだ。なるほど、これに捉えられた獲物はひとたまりも無いな。

 匂いもすっかり消えている。もしかして狩りで使うときは、遠くに仕掛ける罠だったとかで匂いはあまり気にならなかったのだろうか?

 鼻の良い獣なんかだと、あの匂いだけで死んでしまうような気もしないでもないし……

 ボウルをそうっと引っくり返すと、固まったクッツキムシ液がごとりと地面に落ちた。

 捨ててマズいものではないだろうから、そのままにしておく。もしかすると固まっているのは表面だけで、中身はまだとろとろで破った途端に……という展開も避けたいし。

 道具を木箱に仕舞って荷台に積んで、ぼくは運転席に座った。

 クロエも今度は荷台じゃなくて助手席に乗り込んで来た。やっぱり例の涼しそうな顔をしているけれど、少しだけバツが悪そうだ。

「怒ってないよ、クロエ」

「……もうずっとずっと前になるよ、わたしが狩りを教えて回っていたのは。歴史という言葉では足りず、数字が意味を為さないほど、途方も無い過去」

 ブレーキを踏んで、キーを回す。外燃エンジンの中で火が起こる。着火機関から石炭に火が燃え移り、低圧内核を暖めた。すぐにスロットルが回り始めて液体燃料をレシプロエンジンへ噴霧を始める。

 吸入、圧縮、爆発、排気。ガシュガシュとシリンダが往復するのがお尻に伝わって来た。

「色々なことを忘れているみたいだ」

「神さまも忘れるんだね」

「神さまだから、忘れるのかもしれないね」

 クロエはそんなことを言ったきり、ぼんやりと鼻歌を歌い始めた。

 窓を開けてひじをついて、伏し目がちに、そして楽しそうに、切なげな鼻歌を。

 その鼻歌を聴いていると、ぼくの目の前に今とは違った風景が浮かんで来た。

 黄金に色あせた高原を馬に乗って歩いている。弓を担いだ男たちと女たち。薄膜が張ったようなほのかに青い大空と、優しく降りそそぐ陽の光。今と……豊かな黄昏とよく似ているけれど決定的にどこかが違う、荒涼とした世界。クロエの鼻歌が連想させるその景色は、きっと『始まりの時代』そのものなのだろう。

 狩猟の女神クロエテオトルが……いや、クロエだけではなく、数多の神々が人と歩み繁栄を夢見た、可能性の時代。

「おっと、あれはなんだい、ルチアーノ」

 ふ……と幻想的な世界が掻き消される。クロエは窓から顔を出して、遥か前方に見える天頂の折れた塔を見つめていた。

 運転席から見える景色には、木の柵や掘建て小屋が混ざり始めている。

 見えてきた。

「あれは雄牛の一角塔(タルス・ケルス)だと思う」

「と、言う事は」

「うん。首都ウィルズだ」

 ようやく着いた。

 ぼくらの旅の、最初の目的地に。

 そして、ぼくが持つサンタマリアの地図に描かれている、極北(さいご)の街に。

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