第三話。ランドスケヱプ
ふたり旅をしている。
石炭で動くおんぼろビークルの荷台で、黒髪の女の人があくびをした。
長い髪は後ろで一つにまとめられている。肌はオリーブ色で瞳は涼しげながらも情熱的。神話に記される通りの姿で現れた、狩猟の女神だ。
北風すらもいなしてしまいそうな彼女でも、太陽には敵わない。こんなにぽかぽかとした陽気の中でのんべんだらりと草原を走っていると、さすがに眠くもなってくるようだ。
そういえば村を出て五日が経つけれど、ぼくは自分より遅くまでクロエが夜に寝ているのを見たことが無い。だから日中に眠たくなってこんなありさまなんだろうが、それが狩猟というものなのかもしれない。
獲物は寝ているときに狩るのが一番簡単なんだよ。
クロエはそう言っていた。まあ、当たり前のことだ。だから狩猟は、獣が覚醒する昼間ではなく、夜明けに行うものなのだと。わざわざ夜行性の動物が生きている意味を考えろ、と。
「ルチアーノ、朝にしか鳴かない鳥というのを知ってるかい?」
「鶏かなあ」
「ふふ、あれは昼でも鳴いてるね」
見渡す限りの草原と、気持ちばかりの獣道。誰もいない道をビークルで走る。
クロエはあくびをしながら、ぼんやりとした口調でぼくに暇つぶしを要求してきた。運転席の後ろの窓から、荷台にいるクロエの声が聞こえる。
「なぞなぞ?」
「なぞなぞではないよ。真理の話さ」
「知らないなあ」
「ほら、あそこに飛んでいる二羽の鳥」
恐らくクロエは蒼穹に浮かぶ二つの飛影を指差したりしているんだろうが、しかしぼくはビークルの運転席でガタゴト道のハンドルを握っているため、それを見ることができない。
クロエはそんなこと構わずに説明を続ける。やはり眠そうな声で。
「雨呼び鳥と言われていてね。あれが朝に鳴くと、その日のうちに雨が降るんだ」
「へぇ」
「だから急いだほうがいいよ、ルチアーノ。ついでにわたしのお腹も鳴きそうだから」
「雷が落ちる前に街に着くと良いなぁ」
「ウフフ、今はこんなに陽気なのにね、天気というのは不思議だね」
首都ウィルズまでは、恐らくもうそんなに離れてはいないだろう。
クロエはそういうのはわからないらしい。そういうの……つまり、人間が作り出した街や建造物までの距離や方向に関しては、てんでダメだ。
地の果てにある野ウサギの巣のありかは言い当ててみせるというのに、人間の手が介入した途端に壮絶な方向音痴と化す。
少しでも背の高い建物が増えてくると、ゆく道に枯葉が落ちたアリの如く。
だからクロエに街までの距離を聞くわけにもいかないし、クロエ自身があとどのくらいで着くのかもわかっていない。だからきっと、アルルカンでもぼくを見つけられなかったんだ。
それにしても、
「それなら『大崩壊』のおかげで随分と楽になったんじゃない、クロエ?」
「ん、何がだろう」
「方向音痴だよ」
「わたしのは方向音痴ではないよ」
「ええ、じゃあなに?」
「わたしを導く風が、遠回りをさせるのさ」
「ねえクロエ、神さまってみんなそんななの?」
世界が滅んだ。
こののどかな光景の裏で、実は世界は滅んでいた。いやこののどかな光景だからこそ、というべきだろうか。
首都ウィルズですら、かつてはアルルカンまで道が伸び、ともすれば街を守る外壁はぼくらのもっともっと背後にあったかもしれない。
ここはすでに首都ウィルズ、ないしは皇国ホーエンベルクの統治下にあって、今ビークルで走っている土手も硬化石灰や
発達した世界を謳歌していた人間たちに、ある日突然何者かの鉄槌が下された。
世界のいずこより現れた『巨像』は、ぼくらの文明をたたき砕き、踏み潰し、焼き払って無へと還してしまったのだ。
ガソリンを湯水の如く燃やしたり、元素を壊してエネルギーを取り出すといった高度なシステムは崩壊し、人間たちは産業革命の時代へとまっさかさまに落ちていった。
機械文明が発達したせいで、エーテル魔法が使える者は既にほとんどいなくなっていて、人間が着々とそして迅速に積み上げてきた物的進化が持ちこたえることは無かった。
一度到達した技術の高みを、思い出せる限りで蒸気機関や、あるいはもっと原始的な技術を使って再現する。
それがぼくら人間が行える、精一杯の滅びへの抵抗だった。
そんな世界に、狩猟の女神クロエテオトルは舞い降りた。
地図描きの民の末裔として、地図を完成させる旅に出ようとしていたぼくの前に。
「旅に出よう、たましいの底から喜びにふるえ、涙が出るほど楽しいやつに」
と。そらに浮かぶ星のように、漠然とした言葉で。
「あっと、あーあ! パンクしちゃった」
右前車輪が音を上げた。
ブスブス言いながら、あぜ道にへばりつく。まるで暑さにやられた熊のように。
「またかい?」
「うん。もうスペアタイヤ無いんだよなー」
「さて、どうにかして解決しなくちゃね」
「どうするかなあ」
酒屋の親父さんからもらったビークルは、右を直せば左が壊れるような有様だった。村の中で乗る分にはまだ良かったのだけれど、砂利でも泥でもなんでもござれの首都への道には少々くたびれ過ぎていたらしい。
うーん、これはそこそこに一大事だ。
ウィルズまでそう距離は無いとは言っても、それはビークルに乗っていればの話。
ここから徒歩となると一日以上は確実にかかってしまうし、何よりも『雨呼び鳥』とやらに鳴かれてしまった以上、今日は雨が降るのだろう。
体が冷えては風邪をひく。
旅の身に風邪はこたえてしまう。
あまりうれしくない展開だ。
「どうしよっか、クロエ」
「ひとまずご飯かな」
「干し肉はまだ残ってるよね」
「いや、新鮮なのを捕ってこよう」
遂に止まったビークルのその荷台の上で、クロエはすでに立ち上がっていた。
肉食獣のような鋭い瞳孔が、ピントを合わせる望遠鏡みたいに蠢いている。右手にはいつの間にか木製の安っぽい弓と、そしていくつかの矢が束ねられていた。
獲物を見つけたのだろう。
地平の果てにある、美味そうな肉塊を。
「火を起こしておいて、ルチアーノ」
相変わらず俊敏さ。これぞ狩猟の女神だ。
先ほどまでぼんやりとしていたと思ったら、獲物を見つけた途端に空気が変わる。
狩猟民族とは、みなそうなのだろうか。クロエは神様だけれど。
普段のあの静かさは、集中力の温存なのかな?
双眼鏡でクロエの背中を追うと、右手の矢を一本、弓につがえるのが見えた。
クロエの肩あたりまであるぼうぼうの雑草に身を隠しながら、ぼくからでは全く見えない獲物に肉迫している。
どうやら彼方の大木に向かっているようだ。
あのあたりに何かがいるのだろう。
クロエは体を斜めにして、雑草を斬るように進んでいる。葉っぱをなるべく揺らさないような歩き方だ。
背をわずかに曲げて頭まですっぽりと雑草群に埋まって、左右に蛇行しながらじわじわと大木に近づいていく。
そして、スッと腰を折って膝を立てた。
ピンと張りつめた背中。ぎりぎりと絞られる肩甲骨。つがえた矢を引くさまは、まさしく壁画に描かれた狩猟の神の如く。
ざわ、と東の果てから風が始まる音が聞こえた。
音は水面のように雑草を揺らし広がり、あっという間にクロエを飲み込んだ。群生する雑草が風に撫でられてこうべを垂れる。背え高ノッポの雑草たちが一斉にお辞儀をした。
その刹那、草が倒れ視界が奪われたはずのクロエテオトルは、このタイミングを待っていたというように右手を開いた、時を止めるが如き姿勢から放たれる女神の矢は、揺れる雑草を貫いて、掻き分けるように風を穿った。
その先は、ぼくからは見えない。
だが、寸分待たずに貫かれたであろう獣の断末魔はここまで聞こえてきた。
「ああ、
この空洞の木を叩いたようなよく分からない鳴き声は、
羽が退化して小さくなって、地を走るしかなくなった中型の鳥類。よく動き回るから、肉がしまって結構美味い。脂身がある部分は少ないが、メスの背中は絶品だ。
だが今の声からするとオスだろう。贅沢は言わない。オスだって美味しいんだから。
クロエがすぐに捌けるように、とりあえずまな板と包丁を用意しておく。
ビークルの後部座席の下から、今にもカビが生えてきそうなリンゴ箱を取り出して、中身を包む布を開けた。全部、村のみんなが用意してくれていた。
調理道具一式が入っていて、とりあえずその中からネラの木で出来たまな板と、包丁そして木炭入りの麻袋を持ってビークルを降りる。おっと、網と脂を忘れてた。
荷台からは半分に割った鉄樽と、脚となる鉄棒を四本。
四つのリングをエーテル溶接した鉄樽に足を接続し、安定の良さそうな場所に建てる。麻袋の中の木炭を適当に取っては投げ入れた。
ビークルの荷台からニョキリと生える断熱板のロックを外して、機関部を露出させた。石炭の自動供給を止めて、焚口戸から鉄鋏で石炭を二、三、取って樽の中心へと置いた。
金網に牛脂を塗りたくっていると、石炭の火が木炭に燃え移る。
このまま肉を焼くとえらく臭くなってしまうため、石炭だけはビークルの中に戻しておいた。
「ルチアーノ、
そうこうしていると、クロエが自分の背丈ほどもありそうな飛羅鳥を抱えて戻ってきた。脚を束ねて、くちばしをひきずりながら……
「メスが良かったけれど、残念、オスだね」
「贅沢は言わないよ、ありがとう」
クロエは近場の木に縄を括り付け、飛羅鳥の足を結んだ。鬱血させているんだろう。
ぼくは荷台に受け取った弓と矢を置き、まな板に塩を撒く。
「お湯を沸かしてくれるかな」
「はーい」
タライに水を張って、鉄樽の上に乗せた。
飛羅鳥は鬱血が進んで、もはや身動きも取らない。クロエは腰のナイフを持った。
鳴かぬ鳥の首をグイッと曲げて、張った血管から首半分にまで刃を通した。だばだばと赤い血が落ちる。
「ルチアーノ、ビークルと馬の違いは知ってる?」
「うん? 哲学?」
「まあ、間違いではないね」
「エサを食べるかどうか、かな?」
「このビークルだって石炭を食べているよ」
「あー……」
そう言われるとなんだろう。
ビークルと馬の違い。鉄と生き物の違い。
車輪と脚の違い、石炭と肉の違い、いまいちピンと来ない。
ウーム?
「生きようとしているかどうか、じゃないかな」
「生きようとしているか……」
「そう、見て、この肉。わたしが心臓を抜いた後、いまここで捌かないとウジに食い荒らされて朽ち果てる。このビークルも、ついにパンクした。きみの足は折れても治るけれど、つまり生きようとしているけれど、このビークルのタイヤは自分でパンクを塞ぐことは恐らくできない。滅びへの抵抗が、生きている証になるのかもね」
「ふうん、どうしたの急に」
「ん? ウフフ」
「わかんないなあ」
タライの水がグツグツと泡吹き始めた。
クロエは鳥の足を持って湯にじゃぶじゃぶ沈めてみせる。ザバッと取り出すと
肉塊と化した鳥をある程度振り回した後、羽をむしり取る。ゆがくのは、毛がよく落とせるからだ。
丸裸にされた飛羅鳥は気持ち半分ほどになっていて、少し落胆はするが二人で食べるならこの程度でも贅沢だろうと思い直すこととした。
ぼくが金網を鉄樽に乗せると、クロエは鮮やかな手つきで鳥を解体していった。
筋張ったと言えば聞こえが悪いけど、よく引き締まった赤身の肉が次々と金網の上を転がる。
オスも脂身があるのは背中だ。
切り分けられた背肉が金網の上に投入されると、例の焼肉の音がにおいとともに立ち上った。
木炭の爆ぜる音が聞こえる。赤かった肉はポタリ、またポタリと肉汁を滴らせながら深い真紅へと変貌を遂げる。いま落ちた一滴には、いったいどれほどの旨味が詰まっていたのだろう。
「もも肉、良いよ」
ぼくはクロエが差し出した木の皿に、一対のもも肉を乗せる。
切り落としていない足付きなので妙な気分になるが、まあそれもだんだん慣れてきた。クロエとの『外食』はいつもこうだ。とは言っても、クロエとは未だ外食しか経験はないんだけど。
「ルチアーノも食べないと。酒屋のおじさんにも言われたように」
クロエはもう一つの皿に、足付きもも肉の一本を取り分けた。
「ありがとう。先に食べておいて。全部焼いてしまうから」
ぼくは礼を言いつつも、肉を焼き続けた。
火は目を離していてもどんどん肉の芯へと向かっていく。じわじわと、気づかないうちに。
「美味しい、クロエ?」
「美味しいよ」
「今まで食べた一番美味しいご飯って、なに?」
「フフ、難しい質問だ。一番を決めるとなると、わたしは二番目も、三番目も決めなくっちゃならないね」
「難しいかな」
「このお肉が美味しいよ。きっと明日食べる干し肉も美味しいはず」
「誤摩化してるなあ」
「なんでもかんでも、決めれば良いってわけでもないのさ」
「うーん……」
クロエはいつもこうだった。
なんだか哲学的なことを言って煙に巻く。なにかを決めつけるというのをあまりしなくって、曖昧な言葉でお茶を濁す。
神さまって、みんなこう?
「焼けたかな」
「新鮮も新鮮、もう少し寝かせても良いくらいの肉だから。生で食ってもよほどのことが無い限り当たらないよ」
「じゃ、これで良いか」
肉を皿に移す頃には、空にどんよりとした雨雲がかかっていた。
雨呼び鳥の予報はどうやら的中するようだ。
「よっと」
ビークルの荷台に乗って、クロエの隣に座る。
「随分遠くに来たなあ」
「ふふ、そうかな」
クロエはそう言って例の微笑みを浮かべて、そして肉に再びかじりつく。
肉汁が、ぽたっと荷台の床に落ちた。ニスが剥がれたベニヤ板にしみ込んだ。
「アルルカンを出てから五日か」
五日で二つのスペアタイヤを消費した。
とんでもないペースだが、舗装されていない道を通っているし、そのうえタイヤも安物だから仕方ない。
首都で売り払えという親父さんの言葉は、どうせ首都より先は走れないという意味だったのかもしれない。
「もうすぐ首都に着くんだね」
「パンクして、進めないんだけどね」
「それに関してはわたしに任せて良いよ。さっき良いものを見つけた」
「え、直せるの?」
「だますことはできるさ。わたしは神さまだからね」
なにか手があるのかな?
「スペアタイヤはもう無いよ?」
「自然のちからを借りよう。便利な植物が生えていたから」
「じゃ、それ採ってこよう」
「まあまあ、急げば良いというわけでもないよ。ほら、空を見てご覧」
ヨッ……と、ぼくが荷台に手をついたとき、頬に一粒の水滴を感じた。
雨だ。
ぼくとクロエは同時に呟いて、そして同時に立ち上がる。
ぼくが荷台の側面から
がらがらっと音を立てて、幌の内側に張ったロットが伸びて、荷台の反対側に降りていく。
深い緑色の天井は、雨雲から差し込む僅かな光を切り取った。
クロエはロッドの末端を荷台の端に取り付けて、自分の皿の横に戻った。ぼくもロックを掛けて隣に座る。これで大丈夫。
「雨かぁ」
ぼくが呟くと、クロエも雨だねと言った。
目の前では、ほったらかしのバーベキューセットから煙が立っていた。ぽつぽつ降っている雨が木炭の息の根を止めるのも時間の問題だろう。
雨が幌を叩く音が少しずつ大きく、そして間隔も短くなっていた。
未来予知してみせた雨呼び鳥はどこへ行ったのだろう。
巣に帰って親兄弟たちに得意げに自慢でもしているのかもしれない。どうだ、今日もやってやったぞって。
パンクを直す植物とやらの収穫は、ひとまず延期だ。
クロエも完全にぺたんと座ってしまっているし、ぼくだって肌寒く感じることがあるこの季節に、しとどに降る雨になど打たれたくない。
「秋の雨はしつこいよね」
肉を嚥下したクロエの瞳はどこかさびしげで、僅かに口角が上がる唇は少しだけ嬉しそうだった。
秋の雨はしつこい。ぼくはその言葉を心の中で復唱する。秋の雨は、しつこい。
「ルチアーノ、雨は嫌い?」
「嫌いじゃないよ。雨なら休むのも仕方ないって思えるし」
「ウフフ、酒屋のおじさんがきみの体を心配していた理由もわかってきたよ」
「クロエは嫌い?」
「きらいなものは無いよ。あんまりね」
人っ子一人いない見渡すばかりののどかな風景で、燃え尽きる木炭を肴にお酒を飲むのもいいかもしれない。
ぼくはクロエに賛成して、硝子でできた上等なグラスを二つと、そして葡萄酒を荷台の奥から持ってきた。
クロエはにっこりと笑って受け取ったグラスを構える。
「おっと、このグラスは凄いね」
「え?」
「柄の継ぎ目が素晴らしい。ほら、土台と柄、グラスと柄、継ぎ目になる部分を触ってご覧。ダマが無くて滑らかだ。あの靴職人と言い、きみの村には随分と腕の立つ芸術家が多かったようだ」
「ありがとう。なんだか嬉しいよ」
ぼくは一礼して、大げさなウェイターの真似をして真っ赤なワインを注ぎいれる。
「底を持つのは殊勝だけれど、ラベルが下だね」
「おっと、これは失礼」
「ふふ」
ぼくも自分のグラスにワインを注いで、残ったビンを二人が座る間に立てた。
雨の音はいつの間にか途切れないようになっていて、秋雨らしいしっとりとした小さい雨粒が視界の果てまで降り続けていた。
「じゃ、乾杯」
ぼくとクロエは目を合わせて、グラスをくいと上げてみせた。
雨がしとしとと、少しだけ弱くなってきた。
その頃にはすでに葡萄酒の瓶は空になっていて、クロエの手は二本目に伸びていた。
飛羅鳥は骨だけになっていたけど、荷台の中には干し肉と豆がつまった木箱がある。
「肉というのは、とにかく迅速な処理が必要なぜいたくな食い物なんだよ」
クロエはコルク抜きをギュウギュウとビンの頭にねじり込みながら言った。
「特に肉を喰らう獣は、処理が少しでも遅れるとたちまちウジが湧いてしまうんだ。食べられなくもないけれど、あんまり食べたくはない」
クロエは飛羅鳥を仕留めるとサッと足首を持って天地を逆さにしていた。
あれは鳥を仕留めたときの正しい処理の一つらしい。体をめぐる血は心臓が止まるとたちまち滞留してしまう。
血液の汚れをこしとる内臓器官を通過することができないから、汚れた血は我先にと肉を汚すという。
だから脚を持って、食わない頭に血を集める。
そしてすぐさまゆがいて毛を落とし、さっさと捌いて火を通す。
肉に巣食う虫というのは想像以上にしたたかで、気を抜くと凄まじいスピードで増えてしまうのだ。
生きようとしなくなった肉体を、刻一刻と食い散らかす。
「そこで干し肉という選択肢を見つけた人間は、やはり神の子というべきかな」
コルク抜きはしっかりと食い込んでいた。
「人間は、こと食事に関しては随分と……フッ」
スポッ、と音を立ててコルクが引き抜かれた。
「随分と変態的だ……わ! この葡萄酒はすごいな」
クロエはきらきらと目を輝かせてビンを掲げた。
良いワインというのは開けた瞬間にわかるというのが彼女の持論だ。ビンの中でこれでもかと醸造された酒精たちは、コルクを抜いた瞬間に美味さをまとって飛び出してくる。
奥深く幅広い葡萄の香りがビン口から間欠泉が如く吹き出してくるのだ。
確かに芳醇な香りが、ぼくにまで伝わってきた。
始めはほのかに、気のせいかと思うほどささやかなアルコールが鼻腔の覚悟を促して、気づいたころには豊かな果実の芳香に取り込まれている。
雨の音が一瞬遠ざかるような感覚にすら陥って、クロエとともに頷き合った。
これは今日このタイミングで飲むべき酒だったんだ。
どんな酒にも最高のタイミングというものがある。と、酒屋の親父さんはよく言っていた。
酒精たちは奥ゆかしくて、それをビンの外には伝えてくれない。
どんな美酒でもその頃合いを逸してしまえば沼の底溜まりみたいな味になることもあるし、逆に唾棄に値するような馬の小便も、管理の方法とタイミングさえ合えばマシになることもある。
と、親父さんはよく言っていた……。
この葡萄酒は村で貰ったものではなくて、道端で出くわした行商から買い取ったものだけど、そこまで高いものではなかったはずだ。
クロエに言わせてみれば、値段と味が釣り合うと思ってるうちは三流とのことだが、しかるべき方法で大事に仕舞われる酒は総じて高いに決まっている。ぼくだって酒屋さんで働いていたんだ。それは身をもって知っている。
ましてや行商などというガッタンゴットン押しては返し、夏も冬も関係なしにほぼ野ざらしと言っていい状態の酒がこんなになるなんて、想像できるだろうか。
できまい。
だからクロエもここまで感動しているんだろう。
「いやはや、これはちょっと、ふふふ、すごいね」
ほれほれとビン口をぼくに向ける。出会ってから今までで一番元気だ。
グラスを構えると、静かに、極めて慎重に真っ赤な酒を注いでくれた。
「ほんと、すごい」
グラスから立ちのぼる濃厚な酒気。
赤い煙があふれてきてもおかしくないような濃度の香りに、すでに脳はくらりと来ていた。
ぼくが目を丸くしているのを見て、クロエも満足そうに口角を釣り上げた。
今度はぼくが注いでやろうとクロエからビンを受け取って、同じようにゆっくり注いでやった。
グラスの半分……までは淹れない。普段は豪快にがぶ飲みしてしまうぼくらだが、このお酒にはいつにも増して敬意を払うべきだ。
クロエもそう理解しているようで、控えめに注がれた酒を見てウンウンと頷いた。
しかしまるで満杯の水をこぼさぬが如く慎重に、クロエはゆっくりと杯を鼻に近づけた。
小高い鼻をグラスの中に突っ込んで、スッと吸い込む。
脳が痺れる香りの弾丸を喰らったのか、ため息のような歓声を上げて目を瞑った。
ぼくも同じようにほんの少しだけグラスを傾けて、鼻を突っ込んでガラスの中に充満する見えない財宝を吸い込んだ。
百年の労働から解放されたような気分に、頭が真っ白になる。
肺腑に満ちる葡萄の香りが、まぶたの裏ではじけるようだ。
酒とは、どうしてこんなに不思議な香りがするのだろう。水と葡萄しか使っていないのに、どうしてパイ生地みたいに何層にも積み重なったような香りになるのだろう。
その芳香に潜む傑作の立役者は、明らかに葡萄だけではない。ともすればコーヒー、ともすればシナモン、あるいは林檎や檸檬までが複雑にじゃれあって、完璧なひとつの塊となっている。
足の指先にまでその香りを味わわせてやろうと、ぼくは目いっぱいグラスの中で息を吸い込んだ。
クロエまでもがその果実の香りのとりこになって、魂が抜けたように脱力していた。
「ここしばらくで、間違いなく一番の葡萄酒かもしれないね。脳の芯まで痺れてくる」
「あ、これが一番なんだ、クロエ」
「おっと、ふふふ、目敏いね、ルチアーノ。明日飲むお酒はもっと美味しいかもしれないな、と付け加えておこう」
「もー……」
やっと意識がぼくのもとに戻ってきて、雨がまだ降っていることを確認できた。
雨が降っていれば仕方がない。何もやることが無いから飲むしかない。
言い訳を探して酒を満喫するなんて、ぼくもなかなか呑兵衛が板についてきたと心の中で苦笑いして、「乾杯」と小さな声でつぶやいた。
乾杯をやり直したくなるほどの美酒だった。
クロエもそれに続いてグラスを上げる。
クイとグラスを傾けると、口の中いっぱいに恐ろしいほど濃厚な葡萄のエキスが押し寄せた。
じっくりと煮詰めたような、とろみさえ錯覚する容赦の無い甘味と酸味。
香りの如く味の角は丁寧に丁寧に丸められて、舌の端につかまるようなえぐみではなく、さらさらと流れていくしとやかな、しかし強烈に美しい存在感のあるボディ。
妥協なき酒精たちのはたらきによって、舌を濡らす液体の一粒にまで葡萄の味が染み込んでいた。
しゃばついている水の部分を一切感じない。
こんなワインがあって良いのかと疑うほどの濃厚さ。とても汚い箱で適当に売られていた酒の一本とは思えない。
ぼくもクロエも言葉を発しなかった。いや、発せなかった。
口を開けて漏れ出すものすらもったいない。そう思えるほどの美酒。いかにも、まさしく美酒だった。
一気に飲み干したい、という欲望と戦うのも一苦労だ。このお酒はゆっくりと、温度の変化と酸化の具合を、腰を据えて楽しむべき酒だろう。
グラスは回さず静かに置いて、ぼくはやっとこ息を吐きだした。
「知ってるかい、ルチアーノ」
クロエはグラスを見つめて、蕩けた顔で囁いた。
「ワインというのは、ふたりで飲むのが丁度いいと言われてるんだ」
「そうなの」
「ふたりでゆるりと話しながら飲むのが良い。酒の変貌を知ることができるから」
「変貌」
「
「なるほど、だからふたり」
二人で二杯ずつ、ないしは三杯飲めばだいたい無くなる。
お酒の本気を感じたいのならば、それくらいがちょうど良いということだろう。
自然と口角が上がっているクロエが、催促するようにグラスを傾けた。
ぼくは先ほどと同じように注意深く注ぎ、そしてぼくの分はクロエに注いでもらった。
ぼくもクロエも、この酒にぞっこんだった。パンクのことなんてどうでも良い。
さきほどのグラスとはまた違う、開放された酒精が空気に触れて、さらに味が複雑になっている。
しとしとと降り続ける雨を眺めて、ぼくらは無言で味わった。
まだ目的の街にすら辿り着いていないと言うのに、ぼくのこころは満足感で溢れそうになっていた。
これからもこんな旅が続けば良い。
穏やかな終末に一杯の葡萄酒を、じっくり味わうような旅が。
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