第一話。葡萄踏み娘を探して。
旅立ちは今夜。
小鳥の鳴き声で目が覚めた。ぎしりと軋んだおんぼろベッドに手をついたときに、少しだけ寂しくなった。起き抜けだというのに。もうこの部屋で目を覚ますことはないのかな、なんて。
すこし肌寒かった。ぶるりと震えてみせて、腕をさすった。よし、ベッドの上で、ぼうとしていても仕方がない。
今日は村の収穫祭だ。
この村で暮らす最後の日だけれど、手伝うことは山ほどある。
首都でビークルを買う資金は貯まっている。だから今日は恩返しだ。『地図描き』のぼくをここまで育ててくれた、この村への。
ノスタルジックでいまいち調子が冴えないが、しかし最後の仕事を休むわけにもいかない。
あばら家を出て、苔生した白壁の路地を歩く。日陰は少し寒すぎるくらいだった。鳥の鳴き声がこだましている。前髪をちょっと撫で付けて、狭い路地を抜けた。
はっと広がるはクリーム色の石畳と赤いレンガの屋根。そして祭りにうかれて騒ぐ大人たち。
男たちはこの一週間で収穫した葡萄をぼくの身長くらいある樽に詰めて、教会前の広場に積み上げている。
筋肉の塊に見える肉屋のおやじが、ゲラゲラ笑いながら樽を担いで、樽に上って、樽の山を築いていく。
大人たちは朝から……というか昨日の夜から酒を飲んでいるのだろう。
村に満ちる新鮮なはずの朝の空気は、少しだけアルコールの毒気に冒されていた。
収穫祭の村を見るのはもう十数回に及ぶのだろうけれど、相変わらずこの空気が好きだ。
今日は世界の休日だと言わんばかりの堕落に落ちた村の人々は、好き放題に顔を赤くして踊り狂い惰眠をむさぼる。
地獄で酒を配ったらこんな風になるのかもしれないな。もしかすると天国は毎日こんなかもしれない。
禿げた文無しのおやじにもお恵みがあったようで、赤ワインの瓶を片手に野良犬とじゃれあっていた。まさかとは思うが、犬に飲ませちゃいないだろうな……
広場を歩いて反対側の路地に入って。ぐねぐね曲がる道を進んで。石畳を這う野良猫に挨拶。おはよう、もうぼくは明日にはいないよ。
路肩に停まるおんぼろビークルが見えてきた。
「おう、ルチアーノ。こんなに早くなくってもいいんだぜ」
「親父さん、おはようございます」
「本当に祭りに行きゃ良いのに、今日出て行っちまうんだろ?」
「今日出て行くから、今日までは働かせてください」
ぼくの働き口である酒屋の店主、通称親父さんは、四輪ビークルの荷台に酒樽を積み始めたところらしかった。
麦酒の樽とワインの樽がそれぞれ四つずつ。どいつもこいつもぼくと同じくらいの大きさだ。肉屋のおやじはこの樽二つをたった一人で空っぽにしてしまうらしいが、あの人の五臓六腑はいったいどういう仕組みになっているんだろう。
その気になればあの怪物、ぼくをぺろりと食べてしまうんじゃないだろうか?
親父さんに挨拶を済ませて酒屋に這入ると、奥さんが羊皮紙の発注書を眺めながら渋い顔をしていた。
右手に持ったインクペンが、所在なさげにふらふら揺れている。
「奥さん、おはようございます」
「ああ、ルーちゃん、おはよう。最後まで、ありがとね」
「いえ、とんでもないです。発注書がおかしいんですか?」
「おかしいもおかしいさ、こんなんで足りるわけないってんだい」
「え、どうするんですか?」
お酒が足りないだって!?
今日は念願の収穫祭だ。みんなこの日のために一年間働いているようなものなのに、この村唯一の酒屋に酒が無いってんじゃあ……死人が出るぞ……
「発注が控えめ過ぎるのさ。樽の数が去年とおんなじだから」
「去年は、ちょうど良いくらいじゃなかったですっけ?」
「だけれど去年はいなかったオーウェンさんとその仲間たちが帰ってきてるんだ、ったくあの間抜け神父、祭りのなんたるかをこれっぽっちもわかっちゃいないよ! ルー、あんたは旦那の手伝いをしてやって。私がこれで正しいのか聞いてくるよ」
「は、はい!」
そうか、去年は傭兵団のみんながいなかったんだ。
オーウェンさんが率いる傭兵の人たちは、えらく酒を飲む。そりゃもう飲む。もしかして、戦ってたくさん怪我をしたところにお酒を飲むおかげで、いつの間にか血と酒が入れ替わっちゃってるんじゃないかと思うほどに。
「そういえば、今年の葡萄踏み
「え? ぼくが、ですか?」
「あんたを探していたようだよ」
葡萄踏み
葡萄踏みそれ自体は毎年行われているが、
「今年って、
「そうだね」
ぼくは生まれてこの方、この村を出たことがないから。父さんと母さんの知り合い、ということもないだろう。
「いや奥さん、そんなにニヤニヤされても……」
「はっはっは、ルチアーノも隅におけないってもんだ」
ガッハッハー、と豪快に笑いながら、奥さんは酒屋を出て行った。
しかし本当に心当たりが無いぞ。もしかすると昔はこの村に住んでいて途中で出てしまったとか、そういう感じか? そんなことは、絶対にありえないと思うけど。
まあしかし、ぼくも今から仕事だから、探すことなんてできない。
「おうい、ルチアーノ! 出発できるかー? せっかくなんで早めに行くぞー」
「はい!」
ぼくの名前が入ったパンチ・カードを機械に通す。歯車がぐるぐる回ってカードを吸い込み、中でロッドが打たれる音がした。ばちんっ。
歯車はたちまち逆回転してパンチ・カードを吐き出す。日付のところにバッチリ星形の穴が空いているのを確認して、パンチ・カードを棚に戻した。
ルチアーノ=サンタマリア、無事に最後の出勤だ。
親父さんのビークルは乗り心地が悪い。
型落ちしてしばらく経つ代物で、壊れたらそんじょそこらのビークル・ショップでは直せないから、首都に持っていくしかない。けれどそれはそれで大変だ。そうして自分で修理を覚えることを余儀なくされたから、ぼくもそれなりの技術が身についた。
親父さんの運転はとても荒い。
初めて仕事で助手席に乗せてもらったときは何度も死を覚悟したし、目の前のフロントガラスにいつ人が打ちつけられるか気が気でなかった。
が、親父さんは人を轢いたことがないし、荷台に積んだ一杯の酒を倒したこともなかった。
「ルチアーノ、今晩に出発だったよな?」
「え、あ、旅ですか?」
「ああ」
「まあ、一応はそう考えてます。首都までは荷馬車を予約してるからそれで行って、首都についたらビークルを買おうと思って」
「しっかり金を貯めてるから偉いよ、お前さんは」
親父さんはタバコを取り出そうとしたが、ぼくの顔を見てやめた。
ぼくとしては一向に構わないけれど、奥さんに怒られてしまうらしい。
「旅かあ、いったいどこに行くんだ?」
「果てです。この世界の最果て。ただ、」
ぼくは窓から外を見ていたが、親父さんの視線は肩越しに感じた。
「ただ、ひたすらに、ひたすらに遠回りをするんです」
「『地図描き』ねえ」
「ぼくはルチアーノ=サンタマリア、サンタマリア家の人間だから」
「生きたいように生きればいいさ。……お前さんの父親も母親も、『タビモライ』で……」
「でも、極南からここまでの地図は完成させました」
タビモライは確かに怖いけれど、そうも言ってられない。それに大きな大きなこの使命には、ぼくだって結構ワクワクしてるんだ。
広場の教会で崇め奉られている、主神エリツォトリ。ご先祖様がその偉大なる神様から受けた大きな信託なんだから。
「それに、いずれ誰かがやらなきゃいけないですから」
主なる神エリツォトリは大地を造られた。
神の汗があふれた大地は自らに根を張り天空へ上る大木を産み、大木はやがてたわわな葡萄を実らせた。
神の吐息より産まれあふれたわれわれは、自らを導いてくださるあるじに葡萄を捧げた。
主なる神エリツォトリが葡萄を食むと、豊かな甘みに御涙を流した。
恵みの涙が地を満たすと、やがてたくさんの木々が茂り思い思いの実をつけ、さまざまな生き物が栄え思い思いに言葉を発した。
主なる神エリツォトリは神々の仲間を産み、われわれを導くことを任され大いなる眠りについた。
聖書の冒頭を思い出してみたが、主神エリツォトリは大地を作れど地図を作っていなかった。
神様だって忘れ物くらいするだろう。なんならぼくが、そのお尻を拭いてやろうじゃないか。神のお尻を。
「もうすぐ着くぞ、ルチアーノ。準備しとけ」
道は石をぎっしりと敷き詰めてはいるが、ぼこぼこの隆起があちこちにあって、とてもじゃないがビークルのことを考えて作ったとは思えない。
それにごちゃごちゃと入り組んでいて、ともすれば十六年間ずっと村にいたぼくでも迷ってしまいそうなありさまだ。
それでも親父さんは縦横無尽に路地を抜けたり入ったりして、お客さんのところまで最短ルートでついてしまう。
今日の最初のお客さんは、
「ようお前さんたち、のどが渇いたろ?」
親父さんに歓声を上げるのは、警備の衛兵さんたちだ。
村の入口にある関所には、たくさんの兵士がたむろしていた。
ぼくはせっせと荷台に移って酒を降ろす準備に入った。金具を外して後アオリを降ろし、うちの酒屋特製のステップをひっかける。
樽たちをまとめていたロープを解いて、さっそく手を掛けた。自分の身長くらいある酒樽を持ち上げるのは、できれば避けたい。
酒樽を少し斜めにして、樽の縁を使って転がすのだ。荷台の上からステップに載せる。金具をがっちり樽にかませて固定する。
ぼくが先に荷台から降りて樽を引っ張ると、ステップにかかった金具がきりきり言いながらゆっくりと樽を滑らせた。
親父さんの発明品だが、こいつが無いとぼくはまだ荷卸しもできやしない。
「ああルチアーノ、今夜出発なんだって?」
衛兵長が、酒樽を受け取りながら言ってきた。
なんでそれを知っているのか……まあ、親父さんか奥さんが言いふらしているのかもしれない。
隠すことでもないから、良いけれど……
「はい、お世話になりました」
「まったくさびしくなるな、親父さん!」
「ルチアーノが地図を描けば、俺の仕入れも楽になるかもなァ」
「だとよ、ルチアーノ」
すでにアルコール漬けになっている兵士たちは、これっぽっちで愉快に笑ってしまっていた。
この酔っ払い兵士たちとももうお別れかと思うとさびしくなるけれど、だらしなくよだれをまき散らしている人たちに、寂しくお別れを言っても仕方ない。
他の配達もあるからビークルに戻ろうとすると、衛兵長に呼び止められた。
「ルチアーノ! 葡萄踏みの娘が探していたぞ!」
「え?」
「酒屋にいるかもと言ったが、会ってないか?」
「会ってないです。さっき奥さんにも言われて……」
「えらい『別嬪さん』だったが、お前さんも隅におけないなァ!」
またしてもげらげら笑い始めるが、親父さんは気にせず手を振ってビークルを出した。
「親父さん、今年の葡萄踏み
「ああ、朝に会ったぞ。お前を探していた。『オリーヴ色の肌の娘』だ。心当たりはないのか?」
「まったくないです……」
「ふうん? まあ見たら思い出すかもな。すぐ来るから待ってろと言ったんだが、祭りを楽しんでくると言ってフラリと出て行っちまった。ま、そのうち会えるだろ、葡萄踏み
「まあ、そうですけど……」
「娘に追われるのは初めてか、ルチアーノ?」
「なっ、や、やめてくださいよ!」
追われてるとは言っても、知らない女の子なんだ。
正体不明なんだから嬉しいも何もない。
「さて、次は
ビークルは一層狭い道に入った。
恐らくどの村にもあると思う。
その村、その村で教会を除いて一番最初に建物が建った場所だったり、一番古い道だったりが
うちは、村を興すときに一番最初に火が焚かれた場所、だ。
エルモス通りという路地の一番奥にあるのだけれど、あそこまではビークルが入れない。ぼくと親父さんはなるべく近くにビークルを停めて、葡萄酒の樽と麦酒の樽をそれぞれ一つずつ転がした。
エルモス通りには、たくさんの職人がいる。
今日は革職人も銀細工職人も休みだったが、ひとつだけハンマーの音が聞こえた。
靴職人のヴィンスじいさんだ。
「よう、ヴィンスさん、今日は頼むよ」
「ああ、すくい縫いも終わった。じきに完成だ」
親父さんの投げかけた言葉に、ヴィンスじいさんは芯が通った声で返した。
靴を鉄の棒に固定して、底付けして余った部分をがりがりと削っている。作業台にあるハンマーとペンチが一緒になったワニと呼ばれる道具は、ヴィンスじいさんの手の形に変形していた。生まれる前から靴職人だった、とよくヴィンスじいさんは言っていた。今年八十になるはずだから、職歴八十年だ。
「ヴィンスさん、葡萄踏み
「ああ、ルチアーノか。靴の採寸をしに来たよ。『陽の光に映える
葡萄踏み娘は葡萄を踏んだ後、村の男を選んで教会前の噴水に運ばれる。
そのとき、娘は新しい靴を履いていなければならないというしきたりがある。だからこうやって、収穫祭の日に靴職人が娘の足にあった靴をせっせと作っている。いつもはもっと余裕があるのだけれど、今年は
「はい、まだ会ってません」
「そうか、すれ違ったか」
「どうしてぼくを探しているか知ってますか?」
「会えばわかるさ。会えばな」
ヴィンスさんは微笑みながら木槌を振るった。
ぼくと親父さんは再び樽をごろごろ転がして、『聖なる
焚火跡はもちろんすでに石で舗装されているが、ひとめでわかるように丸い大きな石を埋め込んでいる。その真っ白な石には『聖なる
葡萄踏み娘はパレードが始まると、ここから広場まで歩いていく。
聖歌隊はすでに周辺でパレード開始に備えて着替えているが、酒が来るやいなやグラスを奪い合った。聖歌隊とはよくいったものだ。
酒を届けてエルモス通りを出て、再びビークルに乗った。
親父さんは発注書を見て次の目的地を確認している。
「『オリーヴ色の肌』で、『美しい脚』……」
「なんだ、気になり始めたか、脚が好きか、ルチアーノ?」
「ち、違います! なんだか、もしかしたら見たことがあるかもしれないって……」
「門兵たちは『えらい別嬪さん』とも言ってたな」
「ニヤニヤしないでくださいよ」
なにかを思い出しそうだった。
まだこんなに少ないことしかわからないのに、葡萄踏み娘の姿かたちが浮かんでくるようだ。
もしかして、本当に前に会っている子なのだろうか?
「お前、覚えてるか、ルチアーノ。聖なる
「覚えてるような、覚えてないような……」
「よく壁にぶつかっていたよ。泣きべそかいて、それでもお前は絶対に自転車から降りなかったんだ」
「……」
「よっし、それじゃ次は酒場だ、ルチアーノ」
ビークルが停まったのは、この村で一番大きな酒場。仕事終わりの男たちが夜遅くに大挙して押し寄せてくる、だめな大人達の憩いの場だ。
今日はドアを全部開いて、広場からあぶれた男たちのために料理と酒をふるまっていた。
黒い木でできた壁に背中を預けて談笑する男女や、入口にある数段の階段でちびちび飲むおじいさん、そして店内にはぎゅうぎゅう詰めの男たちが陽気に笑っていた。
なんだか気温が高い気がするし、おまけにとんでもなく酒臭い。
「おう、ルー坊!」
酒場の
「こんにちは」
「今日が最後なんだって?」
酒場にも話は回ってきているのか。
「はい、今夜出発します」
「そうか、さびしくなっちまうな……」
店長がしょんぼりと肩を落とすと、店の客全員が大げさに落ち込んだように顔に手を当てた。
なんだこれは。
「そうだ、ルチアーノ、お前さん葡萄踏み
「いや、まだ会ってないです。ここにも来てたんですか」
「酒を飲んでっちまって、お前さんがいないことがわかるとなるとふっと出て行ってな。まあもうすぐ葡萄踏みも始まるだろ、広場に行ってみたらどうだ?」
「そうですね、仕事が終わったら」
「お前らもルチアーノを見習ってちったあ働けってんだ」
野太い笑い声が響く酒場を後にしてビークルに乗り込もうとすると、親父さんがぼくを呼んだ。
「なんですか?」
「もういいぞ、あと一軒だ。お前は先に広場に行ってこい」
「え……いえ、最後の仕事なので」
「……そうか。じゃあちょっと手伝ってくれ。まだ葡萄があるらしいから、畑に寄ろう」
くしゃりと笑う顔は、少しだけ寂しそうで、そして少しだけ嬉しそうだった。
気を取り直してビークルに乗り込むと、親父さんは村の東にある葡萄畑に向かってハンドルを切った。ビークルは、心なしいつもより張り切った音でエンジンを唸らせた。
もう一度衛兵さんたちの前を通って、ぐるりと村を迂回する。
するとすぐに見えてくる。
彼方まで広がる明るい緑色の葡萄畑。そして大きな大きな、鋼の髑髏。朽ちた頭蓋骨は彼方の地面に半分埋まって、空っぽの眼窩で村を見つめていた。苔生して錆び朽ちて。旅を許された鳥たちの遊び場となっている。
「旅には気を付けないとな。こんなご時世だ、何が起こるかわからない」
こんなご時世……
『豊かな黄昏』のことを言っているんだろう。
今ぼくの目の前に広がるのどかないま葡萄畑と秋の優しい日差し。広く真っ青な大空と澄み渡った空気。
これがこの世界の、滅びの姿だった。
人があらゆる全てを支配していた世界は、今にも終わろうとしている。
『豊かな黄昏』。
この時代を、人々はそう呼んでいる。
ぽかぽかの陽気が降り注ぎ、木々は思い思いに背丈を伸ばし、水は清く、風がそよぎ、そして人の世界だけが、滅びを迎えようとしていた。
原因は、巨像だ。葡萄畑の彼方に見える、こんもりとした山と見紛う頭蓋骨。
突如現れた破壊の化身たちは、人間の文明だけを選んで破壊し、蹂躙し、全ての進化を葬った。
一度技術に慣れてしまった人間たちは、再び荒野へと還ってしまった大地をどうすることもできずに、二足で這いつくばる獣として、残りの
「立派な苔が生えちまって、あれだとちょっとした山だぜ。あの髑髏も、取るもん取っちまったからなあ」
「そうなんですか?」
「そうそう。お前さんの親がこの村に来たときによ、巨像の死骸の使い方を教えてくれたんだよ。目玉の不思議な硝子は耕作機の歯に変えて、耳やら、人間サイズのボルトなんかは溶かして鋼にしてよ」
「そうだったんだ……」
「旅の中で、色んなものを見てきたんだろうなあ」
父さんと母さんが、そんなことをしていたなんて。
巨像の死骸が各地にあって、その使い方はぼくにも話で教えてくれた。でも葡萄畑の髑髏を、父さんと母さんの力で利用したとは言っていなかった。
ぼくたちは、巨像たちによる『大崩壊』を受け入れて、それでもなんとか生きている。
こうして世界樹の実とも呼ばれる葡萄を作って、毎年収穫を祝っている。
世界は滅びかけていても、人はまだ生きているから。
だからたぶん、ぼくも自分がやるべきことを……ひとが歩くための『道』を探らなくっちゃいけないんだ。大崩壊によってぐにゃぐにゃに曲がった大地を、この足で見なくちゃいけない。
ぼくはまだ、生きているから。地図はまた、必要になるから。
畑の人たちと一緒に葡萄の樽を積んで、村の中に戻ってきた。
最後の荷卸しは、ぐるっと戻ってきての教会だ。
主神エリツォトリを崇める、この村でたったひとつの教会。
広場に面した、いわば村の中心となっている教会の両側には、既に酒樽がドカンと積みあがっている。
ぼくと親父さんが積荷を降ろすと、シスターたちが先導してくれた。樽をごろごろ転がして教会の中に次々運び入れる。
教会の中は麦酒が禁止されているが、ワインは奨励されている。神父様の好き嫌いだと思う。
首都には大きな醸造設備を持っている教会もあるという話だ。
ぼくが最後のひとつを運び入れると、ちょうど神父さんが奥から出てきた。
「やあ、ルチアーノ。聞いたよ、今夜、出るんだって?」
「はは、みんな知ってるんですね」
「そんなに苦笑いをしないでおくれ。みんなきみと別れるのがさびしいんだ」
「神父さんこそ、そんなことを……」
「ああ、そうだルチアーノ。葡萄踏み
神聖な葡萄踏み娘だから、先に教会に来ているということについては納得だが、そこかしこでぼくを探しているなんて言いまわっているのか……?
「いえ、まだ会えていませんけど……」
「今年の葡萄踏み
「へ、へえ、そんなに……」
この熱弁ぶり。よほど美人なのかもしれない。
というか神父さまがこんなに女の子の容姿について熱く語ってもいいんだろうか……
主神エリツォトリが産んだ、狩猟の女神クロエテオトル。
豊かな生き物に満たされた大地を駆け、人々に狩猟を教えて回ったという。
確かに今年の葡萄踏み娘が言われているような容姿で聖書に記されていたはずだ。オリーヴ色の肌に黒い髪……
昔、父さんと母さんは会ったことがあるよなんて言っていたけれど、ぼくも小さかったし、どこまで本当かはわからない。
サンタマリア家は一応、『地図描きの民』とされて神話にも登場する。
所謂、神の眷属だ。エリツォトリが生んだ神の子孫、その神聖なる子らを導く存在として地図を完成させることを命じられた民族。
「さ、もう始まるぞ。早く広場に向かうと良い」
「はい、ありがとうございます」
ぼくと親父さんが外に出ると、村の人々もぞろぞろと広場に集まってきた。村のほとんどの人間が集まった光景は、それなりに壮観だ。
真ん中の噴水周辺には、葡萄が詰まった樽が山を作っている。去年の樽を分解して組み上げた台座には赤い絨毯が敷かれ、その先には半分に割られた大樽が置かれていた。
あの中に今年採れた葡萄がたくさん詰められていて、葡萄踏み娘は巡礼地を出た神聖な足でこの樽の葡萄を踏む。
そうしてやっと、今年の葡萄酒作りが始められる。
葡萄踏み娘は主神の遣いとも言われていて、エリツォトリは葡萄踏みの様子を夢の中から覗き見て人間たちの繁栄を確かめているらしい。
聖歌隊の歌が、遠くから聴こえた。
親父さんが苦笑いしている。酒を飲み過ぎた聖歌隊の皆々は、列も乱れてしゃがれ声で、とてもじゃないが神聖な歌には聴こえない。
まあ、毎年こうだから、誰も気にしない。なんたって、今日は祭りだ。
「親父さん、今までお世話になりました」
「ん」
「親父さんのおかげでビークルも買えるし、ここまで生きてこれました」
「そんなこと言うなよ、お前は賢い子さ」
「親父さんのところで働けて良かった」
親父さんは笑って、ぼくの頭を撫でてくれた。
この乱暴な手つきがたまらなく好きだ。体を包まれるようで安心してしまう。
しかし、もうこの心地よい逞しい手ともお別れだ。
ぼくは村を出て、旅に出る。誰も知らないどこかへと向かい、辿り着けるかも分からない果てしのない旅に。
この祭りも、きっとこれで見納めだ……
「あれが……」
聖歌隊に囲まれた女の子がちらりと見えた。
オリーヴ色の肌、黒い髪、青い瞳、羚羊の如くしなやかな脚……
誰一人として嘘を言っていなかった。つややかな肌が陽に輝き、小汚い石畳の上でも浮かぶように光っていた。一度その子を見てしまうと、もう誰も目が離せない。心臓の止まる音が、あちこちから聞こえる気がした。
黒くも無く白くも無く、磨き上げられた宝石のような肌。
夜空を星ごとすくって染め上げたような輝く髪。
無限に広がる青空を落とし込んだ深く澄んだ瞳。
そして軽やかに踊るその四肢は、まるで超越した神獣のように。
赤と黄色の
紫色の刺繍の入った黒いベストから伸びる純白の
黒く艶やかな髪は後ろで大げさな三つ編みになっていた。前髪の隙間から覗く青い瞳がまっすぐと、まっすぐと。涼しくも、情熱的な瞳で……
「ぼく、を……?」
あんなに奇麗な女の人に、ぼくがどうして追いかけられる?
人違いじゃないのか?
「どう、して……」
少女はヴィンスじいさんが作ってくれた靴を脱いだ。樽に上がるために大きなスカートを持ち上げる。
脚が見えた。踵と脚をつなぐしなやかな腱とそれを挟むようなくぼみ。骨ばったくるぶしをみて、湧いてきた生唾を無理やり飲み込んだ。
親指の付け根にあるなだらかな丘が、樽への階段の一段目を踏みしめた。
彼女の軽そうな体がふわりと持ち上がる。足の指先から中ごろまで浮き出る細い骨たちが、やたらと扇情的でつい息をするのも忘れてしまう。
樽の中に足が差し入れられ、遂に乙女による葡萄踏みが始まった。
……ぼくはこの娘を知っている。ざあ、と記憶が巡る音が聞こえるようだった。
スカートを持ち上げて、周りの男たちにもてはやされて。伏し目がちで微笑むこの少女の姿をした、神さまのことを。
「クロエテオトル……」
全部思い出した。
ぼくに……いやぼくの
地図を描く、という途方も無い大仕事。その血に、その使命に、彼女の記憶は深く刻み込まれていた。
母さんと父さんが教えてくれた。上手な絵で見せてくれた。
ぼくの血が、この娘を知っている。そうだ、そうだった。
「さ、今年の葡萄を踏み終えた! 存分に祝うが良い!」
神父様の声で、広場のみんながワッと万歳をした。
なんてこった、今年の葡萄踏み
これは来年の葡萄酒はとんでもなく美味いに違いない。
男たちはそんなことになっているとはつゆ知らず、とにかく美しい容姿の葡萄踏み娘を噴水まで運ぶのはこの俺だと、指名をじっと黙って待っている。
だが、樽に立つクロエは当然のようにぼくに向かって手を伸ばした。
「さ、わたしを運んでおくれ、ルチアーノ=サンタマリア」
ルチアーノ!
広場中の男たちが悔しそうに声を上げる。怨嗟すら籠っていそうな溜め息が方々から聞こえて来た。
それでも仕方ないものは仕方ない、と男たちは道を開けてくれた。めちゃくちゃ行きたくないけれど、これ以上時間をかけても悪目立ちするだけだ……
親父さんに背中を叩かれて、ぼくはクロエテオトルの手を取った。すると合図もなにも無しにぴょんと飛んで、ぼくの首に腕を巻きつけた。ふわっと、ぼくでも持ち上げられるくらい軽かった。
慌ててその娘を抱え上げて、噴水まで早歩きで向かう。
「あ、あ、あの、あなたはもしかして……」
「ふふ、わたしが誰だか知っているようだね?」
「父さんと母さんから聞いてるよ!」
「であれば話は早いね。迎えに来たよ、ルチアーノ」
噴水でクロエテオトルを降ろす。ぱしゃぱしゃと脚を洗って葡萄の皮を洗い落とした。透き通った水に少し紫色のもやが広がって、そして消えた。
真っ白なふわふわのタオルで足を拭く。卸したての靴を履くと満足げに笑って、今度はクロエがぼくの手を取った。
「ふふ、この日を楽しみにしていたよ」
「一緒に行ってくれるの?」
「そうだよ、よろしくね」
有無を言わなさないような微笑みに呆気にとられてしまう。
神さまってこんなに軽くていいのか?
「さ、旅に出よう。たましいの底から喜びにふるえ、なみだが出るほど楽しいやつに」
風のように涼しくも情熱的な顔立ち。ぼくより少し年上くらいにしか見えない外見だけれど、クロエは満面の笑みでぼくの答えを待っている。
ぼくの目尻から涙が一筋流れたようだった。いつのまにか、陽気な悲しさが胸の中に広がっていた。
ああ、そうか。旅に出るんだ。
たましいの底から喜びにふるえ、なみだが出るほど楽しいやつに!
「よろしく、クロエテオトル様」
「クロエでいいよ、ルチアーノ」
とっても苦しくて、
とっても長くて、
とっても険しくて、
とっても大変な、そんな旅になるだろう。
それでも、たぶん大丈夫。
きっといつだって、どんなときだって、大丈夫だ。
ぼくの目を見る女神さま《クロエテオトル》は、そんな顔をしていた。
とても、とても雄弁な顔で、笑っていた。
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