穏やかな終末に、一杯の葡萄酒を。

きゃのんたむ

第一章。地図を描く者。

プロローグ。

「『タビモライ』だよ」

 聴診器をドクターバッグに詰めながら、丸めがねを掛けた小男が言った。

 そう、とか細い声で答えるのは一人の美しい女。痩せ細ってはいるが背筋はピンと伸び、落ち窪んではいるがきらきらと光る瞳を持っていた。

 女は真白いシーツの上で手を組んだ。細長い指の先が交差した。

 表情は、穏やかそのもの。

 カーテンを揺らす窓に目を細め、医者の診断を受け止める。

 覚悟はしていた。

 彼女の身に宿る使命を成し遂げるためにこうなることは、最初からわかりきっていることだった。

 奇病『タビモライ』に感染するのを承知の上での旅。

 それでも、やらなければならなかった。

「アガタ、もって半年だ」

「……半年も、もつんですね」

 アガタと呼ばれた女は静かに返した。

 流麗な黒髪が、窓から忍び足で入ってくる風にになびいた。

 菜の花が放つ青々とした命の香りが、アガタの鼻をくすぐった。シーツの上で交差された指がぴくりと動いた。鮮やかな命の香りは、アガタにとって毒だった。

「よくやったよ、アガタ。お前さんはよくやった」

「でも、まだ……完成していません」

「もう良いんだ、アガタ。サンタマリアの使命はもう忘れよう。息子ルチアーノを、呼ぼうか?」

 待って、とアガタは言った。

 席を立って、部屋の外にいる息子を呼ぼうとしたドクターの腕を掴んだ。

 そのちからの強さに、医者はハッと顔を上げてしまった。そのとき初めて、医者はアガタの目を見たような気がした。

 直視してしまったアガタの仮面は、今にも崩れようとしていた。食いしばった口からは嗚咽が漏れ始め、かたく閉じた目蓋の端から涙が滲んでくる。

 右手で心臓を押さえて震えていた。こころの器から溢れようとする一切を、必死にせき止めているように見えた。

「まだ、あの子の前で笑える自信がないの」

 アガタ=サンタマリア。

 その血が背負う使命は、壊れた地図せかいを、もう一度完成させること。


 そして八年後――その息子ルチアーノ=サンタマリアは、十六歳になっていた。

 母の遺志を、引いては生きとし生けるもの全ての希望を小さな身に背負い、地図せかいを完成させる旅に出る。

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