第39話 最後の戦い

  三十九 対峙

 

 印地打ちが次々を斬られ、庇おうとした右よしも動かなくなった。目の当たりにした吉左は、

「もうだめだ。やはりあのすごい奴だ。腕が違いすぎる」ぎゅっと目を閉じた。

「化け物が相手だったのに、気づかなかった」

 そして傍らに来た半次に、

「あれを吹け。みんな逃がしてやれ」

 撤収の笛を吹けというのだ。

「お頭も早く」腰の革袋から笛を取り出しながら、半次は言った。そして、

「申し訳ない。おれの失敗だ」なおも謝り続ける吉左に、

「こんどはちゃんとした罠を仕掛けることにしましょう」と、笑いかけた。

「急いては事をし損じました。あたしが悪い」

 

 親兵衛は荷馬を守る新当組の周囲を駈け巡りつつ、右に左に賊を斬り払った。

 坂道に差し掛かったところで、すすきの向こうに胸から血を流した大男が現れた。

 その男、磯太は伊藤を見つけると驚喜した様子で駆け寄ろうとした。そして丸太のような棒を振り回し、荷馬を守ろうとする新当組を追い払う。

 伊藤はいざという時のため、最も価値のある伝来の茶器を納めた木箱を、身体に縛りつけていた。

 それに向かって、「お頭、お頭、こいつだな」と叫びながら、磯太は突進した。止めようと前に出た一宮らを棒の一振りで吹き飛ばし、絶叫をあげて力を誇示した。それを見て、残った襲撃者たちがわらわらと集まってきた。

 親兵衛が間にあった。

「邪魔だろう、おまえ」大男が人間離れした力で振り降ろす棒に合わせ、親兵衛が刀を打ち込むと、棒と一緒に磯太の大きな半身がきれいにすべり落ちた。その後ろで磯太を頼りとしていた盗賊たちは、凄まじさに立ちすくんだ。

 

 古田の家はその頃、しんと静まり返っていた。親兵衛は、今宵は戻らぬとだけ言いおいて常と同じように家を出たのだった。それ以来みぎわは、なにが気になるのかひどく不安げな様子が続いていた。

 顔を見にきたいしには、「心配などしておりません」と笑いかけたが、そのうち台詞が、「もっと暖かいお召し物をお着せすべきだった」に変わり、いつの間にか部屋の隅でべそをかいていた。子供に戻ったようなみぎわの姿に、いしは自分も泊まることして、

「そんなに気に病まれても、何もなりませんよ」と、無理に早く床に着かせた。

 

 夜半になって、いしは目を覚ました。胸騒ぎがして寝所をのぞいた。空だった。

(お嬢様)家の中を探しまわったが、どこにも見つからなかった。

 ろくは相変わらずぐっすり眠っていた。舌打ちして、いしはあちこち心当たりを見て回ることにした。

 ずっと昔、突然に姿の失せたみぎわを真っ青になって探したことを思い出した。

 小さな彼女は、近くにまだあった馬場の小屋の中で子猫と一緒に眠っていたのだ。


 思いついて、坂を登ったところにある古い神社まで足をのばした。みぎわが幼い時分、よく遊んでいた場所だった。

 暗い社の前に白い着物が見えた。

(よかった)

 みぎわは膝をつき、懸命になにかを祈っているようだった。やけど以来、感情の波立ちをめったに人に見せなくなったみぎわが、一心不乱に祈り続けている。母親がわりのいしも、はじめて見る姿だった。

 

 風邪をひきますよと声をかけようとして、いしは自分も昔、ここでよく願をかけていたのを思い出した。

 お嬢様が良縁に恵まれますように。十郎様が立派に家督を継がれますように。それなのに、お嬢様は一生消えないやけどを負い、弟の十郎様は嫁も取らずに病で亡くなった。 

 ここの神様はあてになりませぬ。そう言って彼女を止めようとしたいしは、大切なことを思い出した。

(旦那様をお連れしてきてくれた)


 絶え間ない苦しみにも、不平ひとつ漏らすでもなかった気丈なみぎわが、感情をあらわに夫の無事を祈っている。

 いしも裾を直し、土の上に膝をついた。

(なにをお願いしよう)と考える。そして、

(みぎわ様の願いをお聞き届けください)に決めて、一緒に祈りはじめた。

 

 親兵衛はまた駆けて、倒れた鵜飼を囲んだ賊の群れに躍り込み、縦横に切り払った。その時ふと、刀を振るう際にいつも口の中で唱えていた念仏をやめた。急に必要がなくなった気がしたからだ。人を斬るたび目の裏に浮かんだ父や母の顔も消えた。

(そうだ、唱えるのはあの人に教わったな)突然、兄のことを思い出した。


 兄は対敵した際、うろたえずに相手との拍子をはかるには、口中で歌を唱えよと、その頃は沢村半四郎という名の少年だった親兵衛に教えた。どこかで聞くか伝書をつまみ食いしたらしい。歌を知らないと弟が言うと、では念仏を唱えよと厳かに教えを垂れた。兄のことだ。そのあと舌を出していたかも知れないけれども。

 半四郎に、上士の子弟がこぞって通う有名道場ではなく、わずかな弟子しか採らなかった孤高の剣客の弟子につくことを熱心に勧めたのも、兄だった。

 

 兄は冷厳な人間などではなく、むしろその反対の、陽気な変人とでも表せる愛すべき人物だった。誰より頭が良く、国が二つに割れる前は国費であちこちの塾に送られ、農政学から洋学まで修めていた。帰国すると自室に仲間を集めては、その知識の一端を楽しそうに披露していた。

 なかでも可愛がっていた弟には、深遠な学業の成果よりも珍奇な文物を見せては喜んだ。ウンスン歌留多の切れっ端から琉球の変わった農具まで、遊学中に納めた正式な学問からはみ出した雑多ながらくたを示しては、驚かせた。

 孤独癖のある弟を心から愛してくれた兄はまた、国を愛し、百姓たちを愛し、明るい未来を信じていた。しかし、彼は同じ国の仲間によって、無惨にもなぶり殺しにされてしまった。

 

 原因となったのは、昔からよくある話だった。藩主の跡取りを凡庸で病気がちの兄にするか、愛妾の生んだ小賢しい弟にするかで大のおとなが互いを憎み合い、ついには別家を立てていた藩主の叔父や有力な大庄屋まで巻き込み、影に日向に争い続けた。

 困ったことに、争いは年を重ねると、収まるどころかますます激化した。ついには武装集団同士が殺し合う、取り返しのつかない事態となった。

 人のしがらみや感情のもつれにはかなり無頓着だった兄は、その状況を嘆いた。どちらを選ぶか迫られても、なぜ小さな意見の差異にそれほどむきになるのか、という姿勢を崩さなかった。そしてある日、双方の言い分への疑義とそれぞれの持つ論理的な誤謬を、信頼していた高位者を含む数人につい漏らしてしまった。

 一時は国の期待の星でもあった兄を殺すにあたっては、丁寧に斬奸状が用意されたが、煎じ詰めると幾人かが、兄に面子を潰されたと感じただけだった。

 

「兄上」半四郎に戻った親兵衛は、幾千回繰り返した後悔をまた重ねた。あの日、私がそばに付いていれば。嫌な予感を信じていれば。お出かけを無理にでもお止めしていれば。 

 兄を直接手にかけたのは、他国まで名の轟いた藩の剣術指南役とその高弟だった。彼らの威を恐れ、兄の友人はもとより誰もが知らん振りをした。


 事実を知り、お城近くの道場に独り乗り込んだ少年を見て、指南役と弟子たちはおかしそうに嗤ったものだった。

 弟子二人など、半四郎に据え物を斬るように胴を両断されても、まだ口元に笑みを残していた。

 二人分の上半身と刀が、床にがちゃんと音を立てた。

 さすがに指南役は、ひどく驚きながらも、すぐに得意とした牽制から続く連環技を少年に繰り出してきた。だが、半四郎が無造作に彼の両腕を根元から斬り落とすと、殺してくれと頼んだ。半四郎は、

「兄もそう申しましたか?」とだけ言い、血だらけになった道場を後にした。


 長く記憶をたどり過ぎた。決死の顔をした賊が二人、刃を結わえつけた棒を持って突っ込み、彼をおびやかせた。その横から誰かの脇差を手にした先助が飛び込み邪魔をした。

「かたじけない、先助」

 電光のような速さで賊二人を返り討ちにすると、親兵衛はまた化鳥のようにすすきの中を駈けた。


 ひとたび斬り合いに入ると、いつもゆるやかに時間が流れる気がする。同時に相手もゆっくり動くように見える。また、その時身体を動かしているのは、自分とは別の意思のようにも感じる。

 涌井には言わなかったが、親兵衛にとって絵を見たり美しい光景に感じ入る行為は、そのなにかが普段の意識までしみ出てくるのに蓋をするためでもあった。けもののようなその意思は、冷酷で貪欲な捕食者というより、むしろ正義に似た猛烈な感情の持ち主だった。

 それをいなし、利用しながらも彼は恐れた。念仏を唱えるのは、必要以上それに支配されないためでもあった。だが、今宵はいいと思った。もう、唱えなくても大丈夫だ。武器を振りかざした盗賊たちの中を駆け回りながら、自分でも理由を考えた。

 なぜだろう。仲間と一緒にいるためか。それもある。

 

 新当組の面々は、命のやり取りの経験に乏しく、明らかに親兵衛より技量が劣るにもかかわらず、常に彼を気にかけ、頼りつつも機会あれば助けようとする。

 後ろにいる多兵太がそうだ。いつ、恐怖で逃げ出しても不思議はないのに、いまも必死で親兵衛の後方に近づく敵を追い払おうとしている。大声をあげ過ぎて喉が枯れても、咳ばらいと一緒にさすまたを振り回す。いったいどこから、こんな勇気が出てくるのだろう。

 怯える馬をなだめながら、六尺棒を片手に襲撃者を威嚇する宮部と目があった。額に血をにじませた彼は、にやっと笑ってみせた。親兵衛も微笑んだ。斬り合いの最中に笑うとは、ずいぶん経験を積んだ彼にもはじめてだった。

 

 それに今夜は、どこかで誰かが彼のために祈ってくれているのを感じていた。その祈りは、自らのそれより遥かに純粋で強かった。親兵衛の中に潜むけもののような意思も、一も二もなく祈りに従った。

 それが誰なのか、彼には分かっていた。たとえ地獄の淵を歩もうとも、あの人がいる。どこかで彼女は、親兵衛を守ろうとしてくれている。

(観音様かな。いや違う)

 暴れた馬のせいで列から遅れた伊藤が集中攻撃を受けた。茶器を抱えているので武器が振るえない。とっさにかばって身体を投げ出した勘吉に銛のような道具が迫る。親兵衛は神速で駆け寄り、そのけら首を切り落とした。

「古田様」嬉しそうな震え声が聞こえた。

 

 だれにも言わなかったが、秀でた額にやや彫りの深い目鼻を持つみぎわの表情は、これまでに見たどの仏像より、少年のころ目にした異国の絵像を親兵衛に思い出させた。あの変わり者だった兄が、こっそり見せてくれた絵に描かれた女性は、ゆったりしたずきんのようなものをかぶっていた。


 風切り音がして、伊藤と勘吉を目がけ分銅が振り下ろされた。親兵衛は弓手で脇差を抜き分銅を払うと、そのまま馬手の刀で賊を斬り倒した。


 ご禁制の品だぞ、黙ってろよ。

 兄は秘密めいた口調で囁いた。本当なのかは、いまとなっては分からない。

 ただ、高貴と見えながら尋ねれば優しく答えを返してくれそうなその姿を、親兵衛は心の奥底に大切にしまい、孤独な日々の支えとした。

 しかしある日、彼はみぎわに出会ってしまった。はじめて彼女を目にした時の動悸を、まざまざと思い出す。そこには、澄んだ目でこちらを見返すあの像がいた。いや、彼女は絵ではなく、暖かな血の通った賢く気高い女性だった。

(兄上は、なんと呼んでいたかな)絵像の名を記憶から呼び起こそうとして、まあよい、と思い直した。

 どんなに美しい絵姿よりも、生きているみぎわがいい。いや、この世のどんなものよりも、笑い、泣き、喜び、怒りながら懸命に生きているみぎわがいい。朗らかに話し、楽しげに食べ、時に目を閉じて風の音に耳を傾けるみぎわがいい。

(また会うために、いまは生きよう)親兵衛は二刀を手に、ふたたび駆け出した。

 道の先は両端が谷になっていた。それがたとえ死の谷であっても、恐れはなかった。

「おーい、古田殿。やるねえ、今宵は二刀流だな」宮部が声をかけた。「見られよ、あれ頭目じゃねえか」

 

 島と涌井も走ってきた。親兵衛は前を見た。男が四人ほどいる。

「荷物はなんとか無事だ。護衛の旦那たちは見事に全滅だけどな。変な笛の音がしたろう。そしたら切れた手足を残して、皆きれいに消えちまった。やっぱり煙だろう。て、ことは」

 

「逃げてくださいお頭」

 左よしが言って駆け出した。

「任せてくだせえ」戻ってきた佐吉が言った。どこか楽しそうだ。左よしは懐から鉛玉を出し、追っ手に投げつけた。意外なほど威力があるが、しかし致命傷には至らない。

 今度は匕首を出し、わざとゆっくり攻め始めた。時間を稼ごうとしている。

 にや、と佐吉がくしゃくしゃの笑顔を吉左と半次に向けた。

「ああ、楽しかった。生まれてからこんなに楽しかったのは、はじめてだ」

「佐吉」吉左が彼の名を呼ぶと、

「お頭と半さんだけが、こんなあたしを人がましく扱ってくれた。一緒にいた間だけが、あたしのほんとうの時間だ」と言った。そして、

「ぜったいまた生まれ変わりますぜ。そしたら、今度も楽しくやりましょう」

 言い置いて、佐吉は接近する新当組に向かって突っ込んだ。特製の刃物をひらめかせ、彼らを襲う。

 いちばん大きな島に小さな身体が取り付いた。

「ぎゃ、なんだこいつは」宮部が叫んだ。

 後ろから涌井が刀で叩くが、佐吉は落ちない。堪らずひっくり返った島に馬乗りになり、佐吉は得物をひらめかせたが、動きが止まった。島が脇差しで突き刺したのだった。

 左よしが絶叫して彼らにかかっていったが、親兵衛が足を払った。そのまま転がると、左よしは崖から落ちて行った。 


 半次は無理やり吉左の腕をとり、すすきに隠れた崖下へとつながる道に引きずった。

「項羽のまねなんざ、やめときましょう」 

「半さん、すまねえ。俺のせいだ。みんな死んじまった。俺が、焦ったんだ。女になぞ心を奪われたのが、けちの付きはじめだ。判断が狂った」

「いや」半次は強い口調で言った。

「俺たちは、嬉しかったんだ」

「何だって」

「いつも俺たちは、いい歳をしてお頭の子供みたいなつもりだった。考えるのはみんなお頭に頼りっきりだったんで、お頭はだんだんしかめっ面で悩むばっかりになっちまった。俺たちのせいだ」彼は続けた。「しかし、こないだの柏屋も、今度の仕事も、久しぶりにいい気分だった。お頭が俺たちと同じように、心のままに動いていなさるのを見るのが、楽しかった。女ができて、迷ってくれて、嬉しかった。お頭が間違ったと言うならば、つまらない恨みにこだわったのは、俺自身の大失敗だったさ」

「そんなことはない」

「もう力むのは止めにしましょう。そして、生き延びてやり直しましょう。今度は、手のかかる仲間は少なめに、ね」そう言って半次は笑った。

「あのかよって人も呼んでさ。好きなことを好きなだけ、のんびりやりましょう。きっと、楽しいよ。そういえば、堅気になるってのも、案外刺激があって面白いかもしれねえ」

「半さん」

 

 だが、吉左は立ち止まって、身体を起こした。

 闇の向こう側に、人が立っている。

「やつだ」吉左は言った。「俺には分かる」

 親兵衛にも、彼が分かった。お互い、刀を手にしたまま、吸い寄せられるように近づいて行く。


「あんた、なんて名だったかな」

「新当組与力古田親兵衛。おぬしは」

「おれか。おれはな」吉左が刀を構え直そうとした。 

「すまねえお頭、また次な」

 半次は姿勢を低くして吉左の腰を抱え、そのまま一緒に崖から飛び降りた。

 

 親兵衛が崖の縁に駆け寄ったときには、すでに眼下に流れる急流に、小さな水しぶきが見えただけだった。

 あちこち傷だらけの宮部が傍らからのぞき込んだ。

「逃げたかな、死んだかな?」

「分かりませぬな」

「まあ、流れのすぐ先は隣国、あっちに任せようか。今夜はもう疲れた」

 正直な物言いに、親兵衛も笑った。

「そうしましょう」と言って、懐紙で拭った刀を鞘に納めた。

 

 国境には、二十人ほどの迎えが出ていて、図書たちともったいぶった礼を交わした。一行が例外なくぼろぼろなのに気づいて、あわてて手当ての準備をはじめた。待っていた大野と近藤も驚いた顔になって仲間に駆け寄った。

 親兵衛は少し離れたところからそれを見ていた。

(また生き延びた)

 沈んだ灰色の空は、端からうっすらと明るくなり始めていた。風はまだ冷たく、すすきの上をわたって行く。

 傍らにあった大石に腰掛け、しばらく親兵衛は物思いにふけっているようだった。近寄ろうとした涌井や島たちを、宮部が制した。

 人々が争い、死んだ後も変わらず、すすきはさらさらとなびき続けている。

 親兵衛は、自分の衣服が血で汚れているのに気づいた。

(みぎわに叱られるだろうか。ふのりで取れるかな。少なくともいしとむつには大目玉を食らいそうだ)

 

 伊藤と図書は、手を取り合い、別れを惜しんだ。そして伊藤は石井、櫛田とともに、新当組に対し深々と頭を下げた。

「これからがあのお方の、真のお役目だ」

 図書も礼を返しながら、周囲に言った。

 馬場は生きて発見されたが傷がひどく、そのまま車に乗せて運ばれることになった。図書に気づくと、起きあがって礼を言おうとした。図書はそれを制し、

「よく働かれた。養生されよ」と、言った。

 だが、馬場はまだしゃべりたそうだった。そして不自由な手を使い、ようやく半身を起こすと、

「あの遣い手はいずこのお方か」と聞いた。「貴国ではさぞ名高いことでござろう」

 それを聞いて図書は、

「かの者も新当組である。我が組は多士多彩であってな」

 とだけ言うと、車を出すよう命じた。


 宮部が横にきて、からかうように、

「いつも鷹揚なお頭にしては、少々けち臭い言い様でしたな」と、言った。

「古田殿の名を知らしめれば、組の名も上がりましたでしょうに」

 図書はなにを愚かな、という顔をした。

「お前、本気でそう思うか」

「いけませんか」

「うかうか古田の名を教えてみよ」図書はすました表情になって言った。

「剣術指南役に迎えたいという話でもきたらどうする。それを悲しむのは、当人よりもお前ではないか」

「指南役」傷だらけの宮部の顔が青くなったり、赤くなったりした。

「それは、いかん」うめくように言った。「そんなことになったら、俺は何を楽しみにすればいい?」

 集まってきた新当組がそれを聞いてにやにやした。同心も中間も付廻りも傷だらけだが、だれも表情は明るかった。遅れて親兵衛がやってきて、みなが笑っているのを見、理由を知らぬままにこにこした。


「先助、大事ないか。勘吉はどうだ」ぐるりと見回して、図書が中間二人に声をかけた。「はい、なんともございません」

「十分歩いて帰れます」

「多兵太はいかがした」

 声の出なくなった多兵太は、先端の折れたさすまたを持って、上下してみせた。

「うむ、与力同心らはどうだ」

「無論です」

「鵜飼、乗るか」図書が尋ねた。鵜飼は足に傷を負い、小柄な一宮の肩を借りていた。

「もちろん、歩けます。こうしてるのは、こいつが寂しがるからです」

「馬鹿言うな。変な噂が立って、いっそう縁遠くなったらどうする」

「俺の姉に会わせてやるよ」すかさず近藤が言った。

「弟が言うのもなんだが、美人だ。大野も知ってるぞ」

 大野が真面目な顔でうなずいた。

「そりゃ、ほんとかい」

「このあいだ出戻ってきたんだ。気が強くてな。お前の母上にもひけはとらないさ」

「……ちょっと考えてみる」

 図書が笑顔でうなずいた。

「先ほどかの国から、宿を調えるので休まれよとの申し出があったが、わしの一存で断った。許せ」これ以上ややこしい話に巻き込まれるのは、ご免だった。

「家の者も心配しているであろう。戻るとしよう」

 組全員がうなずき、馬上の図書を取り囲むと、きた道をゆっくり戻りはじめた。


「ああ、疲れたな。家に戻ったらすぐ湯浴みしよう。どうせなんの用意もないだろうがな」宮部は肩をぐるぐるまわした。「いてて。しかしな、これもおぬしのおかげだ、古田殿。なんとか皆、命を落とさず済んだ」

 本格的な礼を言おうと向かい合った所に、涌井が長い身体を割り込ませた。

「古田様」

「おお、今宵はよくやってくれたな。見事な弓だった。父祖の名に恥じぬ戦いぶりだった」

「勿体ないお言葉でございます」

 邪魔をされた宮部は露骨に嫌そうな顔をした。

「無くした矢を探して帰らんで、いいのか。小遣いが減るぞ」

 涌井は無視をした。

「おかげ様で手足の奴も、どうにか言うことを聞いてくれました」

 親兵衛は、彼の腰に目をやると顔をほころばせた。

「刀も役に立ったな」

「はい。折れず曲がらず、私を守ってくれました。傷を負いはしましたが、この刀のおかげで五体は無事です」

「その刀より、込められた母上のお心がお前を助けたのだろう。戻ったらくれぐれも礼を言うのだぞ」

「古田様」また涌井が言った。「古田様は、今日も傷一つ負っておられません」

「そうかな。危ない所を先助に助けてもらったが」

 とんでもございませーんと、図書の手前から先助が言って寄越した。

「古田様は、なにが守っておられるのですか。いずこの神仏の加護にございましょうや」

 紅潮した涌井の顔をしばらく眺めたあと、いつも謙虚な彼にしては珍しく、当然だという顔で親兵衛は答えた。

「お前も、すでに会っているだろう」

「わたくしが?」

「そうだ。おれには山の神がついている」

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