第38話  襲撃2

 表街道では、すっかり汗をかいた石井がしつこく尋ねていた。

「もう、そろそろでしょうか」

「なあに、あと半刻も歩けば、そろそろ見えてくるよ」馬主の親父が言った。

「やっと国境か」

「いや、この先国境っちゅう印だよ」

「なんだ、まだそんなところか」

 月の光が雲の間から落ち、辺りを幻のように映し出していた。

(唐天竺に教典を求める旅も、このような風景を見ることがあるのだろうか。あまりに暑く夜砂漠を渡ると聞くぞ)などと伊藤は考えていた。

 

 新当組の姿が消えて久しいが、図書なら決して裏切らないだろう。伊藤は主君の弟に目通りしたときのことに意識を集中した。

 面長で上品な宣昭の顔を伊藤は思い浮かべた。とりたてて強烈な個性があるわけではなく、病的に好色だとか残虐といったわかりやすい欠点もない。

 ごく小さいころは利発で姿も愛らしく、両親の愛情を思う存分享受した。現在の伊藤の主が、幼いうちは茫洋として、賢愚定かならずと必ずしも評判が良くなかったのとは対照的だった。

(しかし、いまは)伊藤は心の中で声をあげた。(これほどの差がついた。我が殿こそが比類なき駿馬であるとは、とっくにわかっていたことなのに。甘やかした周りの大人たちも悪い)

 伊藤からすれば、兄弟における器の違いは当初から如何ともしがたいほどだったのに、下にばかり甘かった藩主夫妻に媚びようとした家臣たちが、欠点を助長させてしまった。

 だが、あのお方は決して暗愚などではない。今度の荷が意味する所は、すぐご理解なさるはずだ。そうであって欲しい。伊藤は胸のうちで繰り返した。

 

 風がゆるやかに吹いている。

「もう少し後なら、寒くてたまらなかったろうな」先頭にいる平井が言った。江戸での修行経験もある遣い手で、三尺近い長い太刀を佩いている。隣の宮村もまた彼と同じ道場の出身で、隙のない姿勢を崩さなかった。 

「なにか感じるか」

「いや。まだない。さっきの金魚のふん二人はすぐわかったがな。だが、こっちは海の上みたいに丸見えのはずだから油断はするまい」 

「きたらすぐ二つにしてやろう。夜盗ごときなんのためらいがあるか」

 

 平井と宮村の笑い声に被さって、風切り音がした。さらに固いものが当るような音が二回続いた。笑い声を失った平井は、頭からなにかを飛び散らせながら仰向けに倒れた。

 平井の名を叫ぶ間もなく、宮村も顔面を朱に染め、よろよろと崩れた。足下の茂みに拳ほどもある石が転がった。

「馬場様」やっと宮村が声を挙げた。

「賊だ」中ほどを歩いていた馬場が叫んだ。残った男たちは一斉に抜刀し、荷と伊藤を囲むように陣形を整えた。

 するとまた風切り音がして、最後尾にいた護衛が身体をよじって膝をついた。頭に当らず、胸や腕をしたたかに打たれたようだった。

「どこにいる」身を隠そうにも一面すすきの群れで、遮蔽物がなかった。

「印地打ちだ、気をつけろ」そう叫ぶ声に、

「いまごろ遅いよ」革で作った袋のようなものを手からぶら下げた男が三人、すすきの影に隠れながら一行に並走している。馬場は大声を出して円陣を組むよう指示するが、すでにけが人が多く命令が即座には反映されない。馬子が逃げようとしたのを、素手で殴りつけ昏倒させたのだけが、馬場のしたことだった。

 

 しばらく間が空いた。すすきの波の中から擦るような音が聞こえてくる。刀を構えて立つ護衛の一人の腕に、すすきを破って鎖のようなものが叩き付けられた。とっさに手甲で防いだが、鎖を編んだだけのものなので、打撃で腕がしびれる。

「卑怯な、出てこい」

 叫ぶ侍たちの声を聞き、

「ばーか、ばーか」と、右よしが嘲笑った。少し離れた地蔵の前に、吉左が姿を現した。

 手に手に得物を持った男たちが彼の方を見ると、吉左はうなずいた。

 ふたたび攻撃がはじまった。

 武士の美学に則り正面から一対一の勝負を挑むという考えは、当然ながら彼らにはない。目的を一人にさだめ、集団でかるがると襲いかかる。

 狙った相手に助太刀がきて戦闘力が増すと、こだわらずに雪のようにはらはらと離れ、機をみてまた接近し攻撃する。その繰り返しだ。

 シャチの群れに襲われる鯨のように、揃って体格のいい武士たちの防御力が徐々に奪われていく。

 荷馬に隠れるように、石井が震えていた。

(どうもいかんようだ)伊藤は唇を引き結んだ。(せめて井戸だけは守らぬとな。図書殿はまだか)周囲を見回すと、すすきばかりだった。

(馬場の小細工が原因だろう。なぜそこまで見栄にこだわる)ひどく腹が立ったが、遅すぎた。伊藤はおびえる馬の首をなでながら、図書を待った。

 

 また風切り音がして、馬場の目に火花が富んだ。右目の視界が赤くなる。

 額を切ってしまったようだった。それでも刀を構えると、向井がやってきて前に立った。彼も二の腕あたりに血がにじんでいる。

「向井」

「大事ありません。それより、荷をお守りください」

 彼らの手前に、夜目にも荒んだ顔つきの男が二人、姿を現した。

 ゆったりと一行の護衛たちの品定めをしているようだったが、話がまとまったようだ。馬場と向井にするすると近づいていく。

 気が付いた向井もまた、近い方の男に剣を構えて接近する。男はにやっとすると、はねるような足取りで一旦後ろに下がり、そして突っ込んできた。柄に手ぬぐいをまいた短い刀を持っている。同時に後ろからもう一人の男も突っ込んでくる。見事に息があっていた。

 対処しかね、動きの止まった向井の刀をかいくぐった前の男が彼の腹を刺し、ほぼ同時に後ろの男も背中を刺した。すすき野に向井の絶叫が響き渡った。

 

「いかん、遅かった」馬上の涌井は、前方に三頭と離れてまた二頭、荷馬がおびえた様子で立ちすくんでいるのを確認した。周囲に人影が交差している。近くまでくると動悸を抑えながら涌井は下馬した。そして半弓を構え、連射できるよう箙を付け直し、矢をつがえたまま駈けに駈けた。


 馬の横にいた伊藤の足下から、幽霊のように影がわき上がった。月明かりで、凶相だがまだ若い男なのが分かった。逆手に匕首を持ち、荷に手を伸ばそうとする。伊藤も刀をぬいたが、こわばった腕は上手く動かなかった。

(ここで終わりか)伊藤が観念したとき、

「大丈夫、年寄りだから命まで取らねえよ。お頭が嫌いなんだ」賊が言葉をかけた。

「なんと」伊藤が震える手で刀を突き出そうとした時、急に賊の動きがとまった。その場で後ろを振り返る。背中に細い矢が刺さっているのが見えた。


「がっ」さっきの賊にまた矢が刺さった。匕首を落とし、その場にへたり込んだ。

「図書殿」伊藤が叫ぶと意外に近いところから、

「ご無事でございましょうか」と、涌井の声がした。

「頭はすぐまいります。いましばらくお待ちを」涌井はそう声をかけるや、伊藤に石を投げようとした男に、素早く矢を打ち込んだ。

 意外な伏兵に盗賊たちの動きが乱れた。涌井は捕まらないよう駆け回りながら、応援を待った。恐怖はあったが、それ以上に高揚があった。

(父上)心の中で呼びかけた。

(ついに弓が役に立ちました。わたくしはいま、賊を討ち果たしましたぞ)

 長い間の鬱が少しずつ晴れようとしていた。涌井は目の前に揺れる影を見ると、遠慮せず矢を放った。

(父上)心中で叫ぶ涌井の前に、突然分銅のついた棒が振り下ろされた。間一髪でかわしたが姿勢が崩れ、すぐには矢を放てない。ついで左肩を分銅がかすめた。がくっと力が抜けた。他の同心とは違い、弓を扱いやすいよう最小限の装甲だったのが災いした。

 だが懐に飛び込まれた際の対策を、子供のころから叩き込まれた涌井の身体は、半ば無意識に反応した。

 ひもにかけてある弓を、ぐるっと身体の後ろに回すなり、一挙動で腰の刀を抜く。それでも敵の再度の攻撃には遅れ、刃筋を立てられなかった。しかしかまわず力任せに刀を叩き付ける。

 乱暴だったが、涌井の刀は折れずに棒の上から賊の身体を打った。のけぞった相手に、涌井は突きの形のまま大声を上げて突っ込んだ。

 

 賊はそれを恐れるように、くるりと振り返り、逃げた。涌井は駈けながら、今度は胸の内で母を呼んだ。

(母上、母上、刀をありがとうございます)

 母親がへそくりで購ってくれた刀が、命を救ってくれた。涙と鼻水を流しているのに気づかないまま、涌井はすすきの中を走り続けた。


「いかん」吉左が出ようとすると、佐吉が止めた。

「半次さんが着きました」

 合流した別働隊は、すみやかに本来の目的である挟撃に移り、慎重に護衛たちを追いつめはじめた。

(まずい、増えた)伊藤は、敵方に人が増えたのを見てうなった。そのとき、腕組みした男が一人,群れを外れて立ち、じっとこちらに視線を注いでいるのに気がついた。

(あれが、頭目か)

 影になって顔や装束はよく見えないが、背が高く精悍な身体付きであるのは分かった。口元を覆っているらしい頭巾の余り布が、風にたなびいていた。

 

 右腕とも思う向井を惨殺され、馬場は呆然としながらも刀を構え直した。片目しか開かず、距離が測れない。その前に特大の影が立ちふさがった。

「ホウ、ホウ、ホウ」脅しなのだろう、おかしな声をあげた。

 穴をあけた袋を顔にかぶり、手に七尺はある長い棒を握っている。太さも並の手では掴めないほどだ。馬場は気合いとともに斬りつけるが、意外にも大男は身軽によけ、すぐに巨大な棒を叩き付けてきた。いったんは受けたが、想像を超える怪力に馬場は刀ごと吹き飛ばされた。

 草むらの中に尻餅をついた馬場に、大男が大きく棒を振り上げた。とっさに足を刈ろうとしても、しびれた手は言うことを聞かない。

(こんなところで)

 ほぞを噛みつつ後ずさりする馬場に、両手で棒を振りかぶったままの大きな影がのっしのっしと近づく。とどめを刺そうとしているのがわかった。

 

 ふいに馬場は、末娘のことを思い出した。

 四つになったばかりの娘は、誇らしげな顔をする家族の中でただ一人、馬場が今度の旅に出ることを嫌がった。一緒に行くとだだをこねた。

(うめ…)馬場は胸のうちで娘の名をつぶやいた。

 剣術の腕を買われ、格上の家の養子となった彼に、養父母は遠い存在だった。彼の家名をあげるための懸命の努力も、口で褒めるほどありがたく思ってないに違いない。妻もおそらく夫を家に加わった価値以上には見てはいないだろう。彼が死んでも長男と次男がいる。義父にはそこそこ政治力もあり、婿の急死後に家督を継がせるのも特段困りはしまい。

 みな彼が戻らなくとも、そう困りはしないはずだった。

 ただ、末娘のうめだけが、父親を一直線に求めてくれる。

 頭の隅で、声がするのを馬場は聞いた。

 (会いたいな、会いたいな)

 自分の声だった。

 上手く理由を見つけ、娘と二人だけでどこか旅にでも行けば良かった。欲しがるだけおもちゃを買ってやればよかった。生きているうちに。

 腕はもとより長年鍛えたはずの全身が、しびれたように動かない。身体まで馬場を見限った。

 草むらに尻を下ろしたまま、必死で刀を突き出す。勢いに乗った相手の大男は、そんな抵抗など意に介さないようだった。

 

 短く風を切る音がした。

 それととともに横殴りの槍が突然迫り、大男がのけぞった。さらに繰り返し、穂先が突き出される。執拗な攻撃に、ついに槍を受けた大男は草むらの中に転がっていった。手槍をつかんだ大柄な影が叫んだ。

「伊藤様、ご無事か。お待たせした」次は目の覚めるような大音声で、

「新当組組頭三浦図書、役目によってその方どもを召し捕る。神妙にいたせ」と、言い放った。

 その後ろで、荒い息をした宮部が、 

「いよっ、日のもといち」と小さくかけ声をかけた。こんな時でもそんな冗談を言うのか、と同じく息も絶え絶えの島は、目を丸くした。

 

 融通無碍に出入りを繰り返していた煙一味の動きに乱れが生じた。

 散発的に印地が放たれるが、新当組は親兵衛の指示によって鉢金や革製の甲をきちんと身につけており、致命傷には至らない。図書は逸れようとした馬をまとめ、隊列を囲む円陣を作らせた。そのまま国境にふたたび向かう。

「涌井、涌井、どこいった。死んだか、それとも矢は品切れか」宮部が大声をあげた。

 遠くで「はーい」という声がした。

 ふっと顔をほころばせた図書の近くで、すすきがざわめいた。

 

 座り込んだままの馬場は、さっきの禍々しい二人組が、ふたたびひっそりと戦線に戻ったのに気づいた。彼らは全体の流れなど考えず、気に入った獲物に手をかけるのを楽しんでいるようだった。

(いかん)刀を持ち替え、なんとか立ちあがろうとした。

 ここで図書が討たれれば、一行はそれこそ壊滅しかねない。二人組は楽しげに品定めし、指揮官である図書を狙うのに決めたようだった。

 警告しようにも、うめき声しかあがらない。

 すると大柄な図書の前に、それより小柄な影がかばうように現れたのが見えた。月がまた雲から出てその姿を照らした。

 

 二人組は、不敵な笑みを浮かべた。もの馴れた様子で、刀を構える親兵衛に標的を変え、二人の間に挟んだ。そして軽い足取りで距離を測り、さっきと同じようにいったん下がると、急に前に進んだ。

 すると親兵衛も、なにげない動きで前に滑り出た。いつもの調子で刀を突き出す権六だったが、目の前に突然、冷たく整った顔が現れたのに慌てた。一瞬で間合いをつめられたのだ。

 権六は驚愕した表情のまま、逆太刀で股を切り割られ、刀はそのまま肩口に抜けた。その時にはすでに親兵衛は前後に体を入れ替え終わり、後ろにいた虎の間合いに踏み込んで刀を振り下ろしていた。数十人もの人を手にかけてきたはずの虎は、自分から引き寄せられるように袈裟懸けに斬られた。親兵衛と二人組に流れる時間は、早さが違うようだった。

 

 馬場が見ていると、血しぶきはほとんどあがらなかった。そのまま親兵衛は肩に刀を担いだ姿勢となって、名を呼ばれた方向に駈けて行ってしまった。

 煮売り虎は、親兵衛が離れてからようやく派手に血を吹き出し、左右二つに別れて崩れた。月明かりを浴びるすすきの上に、血がほとばしって赤く染めた。

 馬場は口をぽっかり開けて、その凄惨な有様を見ていた。

 あれはなに者だ。なぜあんなことができる。

 すすきの中でうめいたが、誰も聞いてはいなかった。 

 

 逸れようとする馬を、石井と伊藤付きの九作が必死にとめようとする。涌井も加わったが、いつの間にか影に囲まれている。棒を持った先助が、教えられた通り、

「古田様」と声をかぎりに叫んだ。

 先助らを取り囲んだ賊に、地を這うような低い姿勢のまま恐ろしい早さで親兵衛が襲いかかった。

 手に得物を持ったままの賊の腕が次々と斬り飛ばされ、宙に飛んだ。印地打ちがひとり、正面から彼に石を投げつけたが、避けたとも見えぬまま石は親兵衛の身体をすり抜けた。すれ違いざま印地打ちは血脈を断たれた。

 向こうに怒号を耳にし、親兵衛はまた刀を担いで滑るように走り去った。

 

 遠目にそれをじっと見ていた馬場は、不思議な安堵感に包まれていた。 

(あれは人ではない。血の池の上を自在に飛び廻るという、地獄の鳥だ)

 親兵衛は馬たちを大きく横切り、列の前方に走って行った。

 馬場は草むらのうえで、一行が小さくなるのを見送った。

 

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