第37話 襲撃1
三十七 襲撃一
月が顔をあらわすと、街道は銀色の光に溢れた。
その中をかさのある荷駄を乗せた馬が五頭、ゆっくりと進んで行く。くつわを取るのは軽装の男たちであり、旅装の二人が続く。そして、前後左右に物々しい雰囲気の侍が歩いてゆく。
「月明かりにすすきは、なかなかの景色。この後に待ち受ける憂鬱な仕事がなければのう、石井殿」
難なく馬について歩く伊藤に比べ、歳が下のはずの石井はやや息が荒い。日ごろあまり歩く習慣がない彼には、ゆるやかとはいえ山道は少々きついようだった。
「馬にお乗せしましょうかい」先頭で馬の口を取っている男が尋ねた。五頭を調達してくれた馬主だった。残りの馬は彼の二人の息子と伊藤の郎党が引き連れている。
「いや、結構だ」
「もう、きつい坂はねえですよ。けど一面すすきだと思って油断しちゃならねぇ。ここはけっこうな高みにあって、ころころ転がったら両側は崖だ。上手く河に落ちりゃいいけどな」
彼らの会話にも、まわりを取り囲んだ男たちは特に反応を示さず、鋭い視線をあたりに投げかけるだけだった。
前から二番手の位置で自信ありげに歩く馬場に、最後列にいた副隊長の向井が近づいた。
「ようやくここまで参りましたな」
「まだ油断するな。私が襲うなら、これからの道だ」向井がうなずくと、馬場は機嫌よく言った。「そういえば目障りな田舎役人どもは上手く撒いたな。お主があいつらの小賢しい尾行を見抜き、一喝してくれてからはすっかり静かだ。それどころか山に入る頃には、気配すらすっかり失せた。どこの谷に落としたのだ」馬場の下手な冗談に向井は声をひそめた。
「ああ、それは拙者の手違いのせいにございましょう」
「なんだと」
「ご承知のように、秘密を守るため、地図は出発直前になって新当どもへとくれてやりました。われら本隊と囮を務める奴らそれぞれの二枚の地図です。恐れ多くも伊藤さまを通してですし、奴ら露ほども疑っていないようです。ところが」
向井は大げさに嘆いて見せた。
「拙者がそれをうっかり間違えて渡してしまったようです。もともと、喜楽様ご用の道筋を記した地図はこの地の商人に命じ、三種作らせました。そこから我らの道と囮用の道とを二枚、選んだわけです。ところが慌てたために取り違え、どうやら新当に渡った我らの地図は予備のものだった」
「そういうことか」馬場は満足げな顔をした。
「なに、山の先に追い払ったわけではございません。山というより丘を一つ隔てた少し見通しの悪い道に行ってもらっただけの話。たしか、盗人などが人目につくのを避けるのに使う道筋とか」向井は静かに笑った。
「我々がいま進むのは、裏道や抜け道ではない堂々たる表街道だな」
「はい。正真正銘、もののふの行くべき道をとっております。それに、国境が近づけばどうせ合流いたしますので、あっちの顔も立ちましょう」
うなずきながらも馬場は、「その前に新当組が襲われて散りじりになっているかも知れぬ。無事国境で会えれば良いがな」
ふたりは笑いをかみ殺した。
「しかし驚いたのは」馬場が思い出したように言った。「あの組の名だ。新当組とはなんのことだ。ああ得手勝手な名を名乗るとは、おこがましいにもほどがある。田舎者はこれだから困る」
「仰せの通り。馬場様、しかしなかなか客はきてくれぬものですな。おあつらえ向きのような大舞台にやってきたというのに」
向井はすすきの先の暗闇を見回していたが、ふと馬場に顔を寄せてささやいた。
「ときに、伊藤様のことです。あのお方は、何をあれほどご心配なさっておいでなのですか。拙者には理解しかねます。ここまで来ても、まるで我々がいないかのように、あたりに目を配っておられる。他の者どもも、ずいぶんと腹ただしいのを我慢しております。いくら御用人でも、着いたら一言申し上げたいと言うものまで」
馬場も小声になった。「うむ。すまぬな。あの方がなにをお考えかは、おれにもよくわからん。前にも言ったかもしれぬが、伊藤様は当初、この役目そのものの中止を強く望んでおられたらしい」
「では、はなから我々が気に食わぬと」
「まあ、そうだろう。いつもの心配ぐせが出ただけと言う者もおるしな。わけのわからぬ新当組などを巻き込んだのは、その言い訳かもしれん」
「ならば、ことわざ通りですな。老いては麒麟も……」
「そこまでは言い過ぎだ。しかし、連れてきたのが新当組ではな。はずれもいいところだ。人が一目置くあの方の見識というのも、疑わざるを得ぬ」
「あの方が恐れるこの土地の盗っ人どもにしても」向井が笑みを含んで言った。「あんな盗賊方ばかりが相手では、楽な仕事に慣れきって我々を襲う気持ちすら浮かばぬのかもしれません。どこかで我々を垣間見て、気迫に驚いて逃げてしまったとも考えられますが」
「それで悔し紛れに、新当組を襲っておるかもしれぬぞ」
二人はついに堪え切れなくなり、のけぞって哄笑した。
「笑ってやがるぜ」左よしが言った。
「ほっといてやれよ。すぐびっくりするからさ」右よしが返した。
伊藤一行の周囲に、すでにそれを上回る人数が忍んでいる。間道にいる別働隊も、すぐにやってくる。
吉左はすすき野の一角で、得物がちょうどいい場所にくるのを待っていた。
「頭、どうします、先に襲っちまいますか」佐吉が聞いた。
「嬉しそうだな、佐吉」
「おかげさまで。でもこれだけ人を集めたら、たんまり運んできてもらわないと、割に合いませんな」と、くすくす笑った。
「半さんたちはこちらに向かっているな」
「間もなくのはずです。間抜けどもが逃げようとしたら挟み撃ちです」
「そうだな。あまり間延びもできないな」吉左は左右に目をやりながら言った。「囮がいたようだが無視すればいい。気づかれる前に終わってしまうさ。さっさと済ませて、さっさと消えよう」
佐吉は、妙な感触を覚えた。いままでお頭の口から聞いた覚えのない言葉だ。お頭は、どっか焦っておいでじゃないか。ふいに怪しむ心がもたげる。
だが、得物を前にした高揚がすぐさま、佐吉の胸にきざした不安を打ち消した。
(もうすぐ、思うだけ、侍を殺れる)
吉左と一緒の仕事の時にだけ感じられる、しびれるような快感を前に佐吉は震えた。
「ずいぶんとごぶさただな」宮部が言った。伊藤一行に対してである。「まあ、静かなのはいいけれどな」
新当組の護衛の旅は、遠くに一行の姿を認めることからはじまった。
しかし間もなく、あちら側から言いがかりがついた。
むろん伊藤ではなく、馬場率いる護送隊からである。運悪く、図書たちと別行動をとって伊藤一行を見守らせていた大野と近藤の存在が見つかってしまったのだ。二人は連絡しやすいよう馬で一行を追っていた。近藤は馬の扱いが巧みで、十分距離は置いていたはずなのに、さすが剣客どもの勘は鋭かった。
とりわけ副隊長の向井による抗議は激しく、寝静まった道沿いの家々が起き出しかねない騒ぎとなった。
目的からすれば言いがかりのようなものだったが、かさにかかった向井は、なかなか非を認めない理屈屋の大野と近藤の二人を獲物にした。目立たぬよう徒士を選んだこちらを、あえて騎馬姿で見下ろすのは失礼この上ない、などと屁理屈を持ち出し、いつまでもしつこく責める。最後には護衛全員が口を揃え、「新番組が自ら信頼をなくしたのだから自主的に囮役を外れてもらいたい」との主張を、腰のものに手をかけながら行った。
宮部など「朝までやってろ」と冷たくあしらったが、仲介に入った伊藤のとりなしによって、最終的に書役の二人を悪者にして手打ちとなった。
隣国まで櫛田が同道し二人を国境に留め置いてから、到着した新当組と一緒に戻るという形である。どうにも理解しがたい反発と収拾案だったが、名より実を取ろうと、図書は仕方なく受け入れた。
その結果、大野、近藤、櫛田の三人は騎馬で国境に先行し、残った新当組は馬上の図書と手綱を取る先助、与力、同心に多兵太、勘吉の十人で地図上の指示通りに国境を目指すことになった。
だが、農村部に入ると地図の示す道は一挙に狭くなった。山間部に入るとさらに見通しは悪く、そう遠くないはずの道を進んでいるはずの先発隊の気配が少しも感じられない。本来なら、どこかの交差で足音ぐらい聞こえておかしくないはずなのに。
先頭で歩く郡方出身の鵜飼も、山ぞい生まれの島も徐々に不安げな顔つきになりはじめた。ついに鵜飼が、
「もう一度、地図をあらためさせて下さい。誤りはないはずなのに、どうにもおかしい」と心細げに言った。山道というより谷底がずっと続いているような状態で、視界が悪く気分も落ち着かない。
「申し訳ございません、見つかりませんでした」
頭を集めて相談しているところに、汗をかいた勘吉が戻ってきた。さっきから先発隊のいるはずの道を探りに行ってきたのだ。
「月明かりがあって道は結構先まで見えるんですが、姿はありません」
「地図が違っているんじゃないか」
「伊藤様から渡されたものだぞ」一宮が鵜飼の持つ地図を月明かりにさらした。
貸してみろ、と宮部がまたそれを奪った。
「おかしいところはないな。でもな、変だな」と親兵衛を振り返った。彼も表情が堅い。すると親兵衛は多兵太をさし招いた。口数は少ないが歳の割にしっかりしていると、親兵衛は彼を買っていた。
「遠慮するな。お前もおかしいと感じているのだろう。思うところを言ってくれ」
多兵太はおずおずと話しはじめた。
「親戚がこの近くで鍛冶をしておりまして、たまに参ります。皆さんのたどっているのは、おそらく地元じゃイタチ道と呼んでいる道です」
「なんだそりゃ。土地勘があるなんて先に言えよ」
「宮部、怒るな」図書が言った。「気にせず申してみよ。何か意味があるのか」
「はい。イタチ道は人目につくのを嫌うときに使います。夜逃げとか駆け落ちとか。だからわざとこの道を選ばれたのだろうと思っていました。けど、この先を進んでいけば、道幅は細くなるし、だんだん両脇が小高くなるしで、越えるとすればけっこう手間がかかります」
「じゃあ、こっちはどうなんだ」宮部は伊藤一行のものとして渡された地図を出した。
「これは女街道って言って、飛脚なんかが使う道だと思います。地図で見るほどややこしくないし、起伏が少なく国境まで案外早くつけるんです。早馬とかも使ったりします。だから伊藤様たちの目的には合ってます。でも……」
「なんだ?」
「あっちの道に大きな荷物を抱えた行列がいたら、イタチ道からでも、すぐにわかるはずです」
「おい」宮部が同心らに声をかけた。「ほかに道はなかったか。あったよな」
「はい、あります」鵜飼が認めた。「有名なのが」
「はい」島もうなずいた。「えー、ここいらで昼間一番にぎわうのが曽根街道の本道でして、真っすぐで見晴らしが良くって、ただし姿は丸出しになります。襲って下さいって感じ。あ、そうだ」
「島、なんだ。早く言え」
「いまの季節だと、道の両脇はすすきで一杯です。もしかしたら、意外に身を隠せるかな」
「古田」三浦が親兵衛に声をかけた。「なにか感じるか」
「実は先ほどから、人がこちらを探るような気配を感じております。ただそれは」親兵衛が上方を見た。
「さほど盛んではない。せいぜい一人」
「あっ」目のいい涌井が声を上げた。
「人らしいのが、向こうに」
急斜面の茂みの中がわずかにうごめいた。獣にしては大きいかもしれない。
「賊がこっちを見張っていたのではないですか」
「おそらく、伊藤様も馬場にたばかられたのであろう。そして敵はこちらより準備がよい」
図書が宮部らを見た。「つまり、伊藤様は広く見晴らしのよい本道にいらっしゃるということだな」
島、鵜飼と話し合っていた宮部が左手の斜面を指差した。
「はい。すぐに後を追いましょう。なに、さほどのことはありません。このちゃちな丘を越えれば、海のようなすすきが迎えてくれます。街道筋は国境まで少しばかり遠回りですが、浅知恵の馬場たちには、見晴らしが良くかえって襲撃が少ないと見えたのでしょう。それとも相手をするに都合良いと思ったか」
「ここから表街道までは馬では遠いか」図書が多兵太に聞いた。
「いいえ、さっき通り過ぎた地道に入るのが一番早いと思います。小山をぐるりと回ることになりますが、地面はしっかりしていて馬を早駆けさせても大丈夫のはずです。昼間は地元の馬丁連中があそこで駆け比べして遊んでいます」
「よし、誰か先に馬で行って様子を見てこい」図書がとっさに下馬した。
「涌井」宮部が鋭く言った。「お前、馬は下手か」
「いえ、一応宗像様の所にも通っておりました。五年ばかり」と馬術師範の名を挙げた。
「よし、馬をお借りしてひとっ走り先に行け。束収の元をとるのだ。お前なら夜目が効くし、馬ならこの先をぐるりとめぐっても時はかからん。わしらは」
彼と残りの一行は横の斜面を見上げた。「急ぎこれを這い上る。汗はかくだろうな。ずいぶん着込んでるからな」と、自分の小手を叩いた。
「涌井」図書も声をかけた。「焦るな。そして必要とあらば遠慮せず矢を放て」。
「気をつけろ。ひとところに居着かぬようにな」親兵衛も声をかけると、宮部が笑って言った。
「頼むから仲間は射るなよ」
涌井が馬で駆け出すと、
「よし」と宮部が両手でほほを叩いだ。
「そら行くぞ。高さはしれている。ちょっと急だけどな」
宮部を先頭に残った全員が山肌に取り付いた。
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