第36話 偽善と偽悪 新当組の出動前

  三十六 信念 


 夕暮れの近づいた盗賊改の役宅には、組のほぼ全員がそろっていた。

 伊藤らは今夜出発する。一晩歩き詰めてのち、夜明け前に隣国との国境にたどりつく予定である。

 人目は惹かなくても夜間活動になれた盗賊ならかえって危険が増すとの指摘は、当然のように馬場らに無視された。

 彼らの言い草は、我々は夜稽古も十分積んでいる、とのことであった。

 多兵太らと手際よく準備を進める親兵衛や宮部と違い、外回りの四人は浮かぬ顔が続いていた。

(一発かまさなければならんか…)

 宮部もその理由は分かっていた。もともと、下士出身で大した禄を得ていない彼らは、それぞれが日々の生活に追われている。そのため、困苦から犯罪に手を染める人間にも、どこか同情心を寄せるところがあるのは、無理からぬことだった。

 それでも、物悲しい軽犯罪を主に扱う町方とは異なり、もっぱら重犯罪を追いかける新番組は心の苦しみが少なく済むはずである。

 だが今回の任務は、彼らにせっかく芽生え始めた矜持を、突き崩す毒を含んでいると宮部にもようやく飲み込めた。理想家肌の涌井なぞ、おとりと軽んじられたのをいたく気にしているようだった。


(ばかな、あんな侮辱をいつまでも気にするなんて)宮部は心の中でののしった。(素人じゃあるまいし。ぱっと怒ってからっと忘れりゃいい。好き嫌いやみっともないかどうかで仕事は選べぬのが役人だ)

 長くこの仕事を続けてきた宮部には、とうに甘い気持ちはない。しかし若く純粋で役人としての悪い癖が付いていないのを基準に選ばれた同心たちは、手抜きや汚職には縁が薄い一方、ひ弱さを持っていた。それに、この間のクジの上がりを奪われた件以来、同心全員に世間の評判をくよくよ気にやむ癖がつきつつある。


 ため息をつきながら目釘を改める涌井を、宮部がどやしつけようとしたそのとき、組頭の三浦が溜まりに顔を出した。

「そのままでよい」

 平伏した一同に図書は声をかけ、そのまま腰を下ろした。慌てて先助が座布団を持ってきた。

「先ほど伊藤様から前触れがあった。一同は今夜宿を立ち、街道を北西に抜けて国境に向かわれる。おおよその経路も警護の方々よりお教えいただいた。わしも、出役する」

「は」宮部と古田が頭を下げた。

「まだ時間がある。奥が夜食を作っておる。それを持っていってくれい」

「もったいのうございます」

 大きな返事を返すのは二人の与力と書役のみ。同心たちの威勢は上がらないままだった。 

 宮部の顔が徐々に赤黒くなるのを横目に、図書はいつもとかわらぬ、ゆったりした口調で言った。

「飯を待つまでの間、少しばかりわしの話を聞いて見ぬか。新当組はなんのためにあるのか、という話じゃ」

 不思議そうな顔で同心たちが彼を見た。図書は彼らに微笑みかけ、

 「そう、わしはこの国では良く知られた家に生まれた」と、話し始めた。「大国の大身に比べればささやかながら、それでもこの国では大切にしてもらえる。それが故に、なぜ人は生まれで苦労するのか、ということを悩んだりもした」

 

 図書には若くして亡くなった怜悧な兄がいて、成人するまで家督は彼が継ぐことになっていた。それで少年だったうちはさほど束縛を受けなかったと言った。

 成長しても丈夫で身体を動かすのが好きだったので、剣術修行を理由に機会を見つけては他国に出た。

「親と、よく知る裕福な百姓に金を出させての」お頭はくすりと笑った。

 繰り返し諸国を旅するうち、剣術よりもその土地土地の人々を見て回るのがずっと面白く感じるようになった。路銀を節約するため、川さらいを手伝ったり、漁師と網を引いたり、いわゆる鉄火場にも顔を出したりした。

「そっちの方は才がなく、あちらから遠慮してくれと申したな」図書は愉快そうに言った。また、とある国では農民一揆に火を注ごうとする浪人とも仲良くなった。

「一時はそれに身を投じようかと、真剣に考えたこともあった」親兵衛も宮部も、身じろぎもせず図書の方を見ている。

「もちろん、悪事ばかりではない。ある土地の番屋で働く者の家に世話になり、捕物を手伝ったこともあったぞ。もし、兄が亡くならなければ、その後のわしがどのような道を歩んでいたか、わし自身にもわからぬ」


 図書はしばらく、暗くなってきた庭に目を向けた。

「そう、新当組が何をすべきかであったな」そして、また続けた。

「そのうち、わしは思うようになった。確かに苦しい生まれに頭を押さえつけられた人は多い。盗んだ金を貧しいものたちに撒くことに、意味はあるのかもしれない」

 うつむいていた涌井が、図書の顔を見た。

「しかしそのような、自らが底と称する人々の中に入ってしばらく経つと、彼らのうちにも声の大小があるのに気づき、大声に打ち消されている人々のか細いうめきがあるのに気づいた」

 「底とされる人々の中でも上下はできる。下というのは、運命にあらがえず、大きな声もだせず、悲しい思いをして毎日を過ごす者たちのことだ」

 たとえ義賊であっても、と図書は言った。「彼らを救えるわけではない。ではだれがこの者たちを、少しでも楽にさせてやるのか、生きることのつらさを、わかってやれるのか」

 実はわしにはいまでも分からぬ、と図書は悲しそうに言った。

「ただ人の世には、目に見えぬ大きな道があるのではないかと、思うことにした。それは目先の小さな善悪の判断とはまた違う。人を飲み込もうとする運命の波を、時に受け入れ時にあらがい、為すべきことを為そうともがき続けるうち、いつの間にか流れてゆく河のようなものではないかとも考える」

 

 いったん外を見た図書は、若い同心たちに視線を戻し、続けた。

「たしかに、われわれが守ろうとする荷は、下々の暮らしに明るいとは思えぬある方を助けるための、愚行かも知れぬ。愚行を止めれば、気持ちは晴れるであろうか。しかしそれが、どこかで悲しむたくさんの人を救うものではない。そしてこれで道を正そうとした人の思いを助けるものでも」ここまで言って図書は、なにを言おうとしたか、分からなくなってきたぞと照れくさそうに笑った。

「しかしこれから話すのはしんじつだ。義賊とは、胸のすく振る舞いをしてくれるかもしれぬ。だがそれで悲しむ人のいることは、平気で忘れられる者どもだ。わが組がこの役目につく前、佐野屋の土蔵が破られた。周知のように佐野屋は貶されこそすれ、褒められることの少ない商人であった。そのためか、左前になって近々店を畳むそうだ。佐野屋で働く者どもの先行きについては、ざまあ見ろと、喜ぶ者も多いのはわしも知っている」いったん言葉を切って、今度は隣の部屋に集まった中間たちの方を見た。


「だが、こんなことがあった。土蔵の番をしていた男が、賊にしたたかに殴られた。たまたま、そのふた月足らず前に雇われたばかりの男で、それがもとで病みついてしまった。佐野屋は左前で見舞いも出ず、この前ついに彼岸に渡ってしまった。男はやもめでな、小さな娘が一人残された」

 何人かが顔を上げた。

「それをどこで聞きつけたのか、わしのところの庄助夫婦が、面倒を見ると言い出しおった。あそこは子供がもう大きい。それで捨て置けなくなったのだろう。常日ごろ憎々しげな口を叩くばかりで意外かも知れぬが、あれは結構優しいところがあってな」と、にっこりした。

「小さな娘は、このごろようやく懐いて、昨晩はわしに寝る前の挨拶をしにきてくれた」

 家の娘など、妹ができたかのように大張り切りじゃ、と図書は苦笑した。


「そう。新当組だ。われらの組は一つの流れの中にある小さな洲に過ぎない。そこで為せることは、たかが知れているかもしれぬ。ただ」今度は一同を見回した。いつの間にか準備に追われていた付廻りたちもきて、話を聞いていた。

「人は善も為し、悪も為す。われわれは、正しさと間違いの間を行き来する。常に、だ。しかしなにかの縁で新当組という関わりができ、そこでともに役目に精進することになった。小さな我らのできることは、声なき者どもの声に耳を傾け、偏らぬよう大きな道に身を捧げることではあるまいか。役立たず、飾りとの悪口をわしも聞く。だが、その一方で先日、新当組の真似をする子供を見た。ごっこ遊びだな」先助が大きくうなずいた。

「ひとまず、善い方の役柄のようであった」図書はまた微笑んだ。


「われわれの為すことはなんだ。法と心に照らし、役目を果たすことであろうか。とすれば、まず盗賊がおればそれを捕らえることだ。盗人にも三分の利かもしれん。盗られる方も阿呆かも知れぬ。だが、やつらは一体なにに許され人の物を盗むのか。そして彼らが曲がった使い方をしないと誰が言えるのか。やつらの天職が盗みなら、我らもまた、盗人を退治するのが天からの使命である」

 少し厳しい表情になっていた図書は、いったん話をとめ、優しいまなざしで集まった人々をながめ、そしてまたゆっくりとした口調で語った。

「これはただの勘に過ぎない。だが、言っておく。今宵伊藤様一行は襲われるだろう、おそらく。それに命をかけるのが嫌ならば、強いてはと言わん。本務ではないのだからな。ただ、道を守ろうとする者の邪魔はするな。そしてそれが救おうとする声を持たぬ人々を。善人ぶるのが偽善でいかぬのなら、悪人ぶるのもまた偽悪である。どちらも道から外れて平気なのには変わらぬ」

 図書の声には不思議な響きがあった。怒りよりも静かな祈りのように宮部には聞こえた。

「我らは、偏らぬよう外れぬよう努めつつ、身に備わる力を使い尽くし、また道を行かねばならぬ。それが生きるための責務ではないかと、わしは思う」

 ひとまず、図書の言葉は終わった。誰も口を開かなかったし、なにも起こらなかったが、ほんのわずかだが空気が変わったようにも、宮部には感じられた。

(これが、小さな我らのできることかな)

 鵜飼は両手で左右の膝をつかみ、一宮はもじもじとうつむいていた。涌井は自慢の刀を握りしめている。島はなにか思い出したのか、目尻が赤くなっていた。付廻りたちには頭を下げたままのものもいた。どう感じたかはわからないが、馬鹿にしているのではなさそうだった。 

 話し終わると図書はどこか潤んだような目で親兵衛を見た。親兵衛がうなずき、宮部の顔を見ると、宮部もうなずいた。

 「おい、奥方様が夜食をお持ち下されたようだ。存分にお礼して、今夜に備えよ」

 にぎやかな気配とともに、三浦夫人と供の女たちが、握り飯や焼き魚などを持ち込んできた。

 「つまらないものしかございませぬが、まず、お食べになってくださいまし。残りは持ち歩けるようにいたします」

 とたんに座が華やかになった。


「酒は飲むなよ」宮部が同心たちに言った。庄助が、寝間着の上に半纏を羽織った小さな女の子と顔を出した。宮部が相手をしようとすると、女の子は親兵衛に挨拶をしに行ってしまった。

「ちえっ。あの歳でも男前が好きか」憮然とする宮部に、

「そりゃ女ですからな。無理もありませぬ」と、庄助があざけりとも慰めともつかない口調で言った。

 みなが弁当を持つ算段をするころになって、櫛田が姿を見せた。

「うむ」三浦が素早く立ち上がった。

「いくぞ」宮部が声をかけると、座の全員が立ち上がった。今夜は、いつもは役宅に居る書役の二人も、連絡係として受け持ちを持っていた。

 米粒を付けたまま刀を差し直す涌井に、宮部が声をかけた。

「おい、弓を忘れるな。いっぱい持ってこい」

 顔を紅潮させてうなずく涌井に、

「頼むぞ」と親兵衛も言った。全員が持ち場に向かって動き出した。

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