第33話 船が着いた、しかし。
三十三 到着
「待たせるな」新当組同心の一宮が空中に不満をぶつけた。「せっかくのやる気が失せてしまうぞ」傍らの涌井を見上げると、彼はまだぶつぶつぼやいていた。
吉津の船着き場はにぎわっていて、その向かいにある茶店もまた思ったより人の出入りが多かった。数少ない座敷を一刻近く侍が占有していることに、なにか言いたそうな客もいる。一宮は目を合わせないようにしていた。
同僚の涌井は涌井で、くれぐれも目立たぬようとのやり取りがあったため、自慢の半弓一式を持ってこなかったことを、まだ悔やんでいるのだった。なんでこれほど賑わう港に弓が必要なのか。一宮には理解できなかった。
昼過ぎに着いた船をまたじっと見た。江戸から回ってきたはずのこの船は、立派な大きさで、一宮の家などそのまま乗っけられそうである。
そろそろ外の風が肌寒い。綿入れを着てこなかったことをうっすら後悔した。家を出るとき、母親の説教がまた始まりそうになったので、急いで逃げてきたのだ。母親は、もともと一宮のお役目替えにはいい顔をしていない。というより、ほとんど憎んでさえいた。
「当家は代々公事方としてお奉行様にお仕えしてきた家柄。それが供も連れず犬ころのように外を歩き回るなどとは」と、言うのがここ最近の彼女の主張だった。嘘である。嘘でなければ大いなる誇張だった。
別に初代藩主以来だとか、そんな家柄なのではない。祖父の代に手蹟の美しさを認められ、増員を要した町方の公事部門へ移らされただけだった。それまではお兵具方の薄暗い倉で、古い鎧の埃を払っていたはずだった。
だいたい、一宮の生まれた国で、都市部の行政を担当する町方が大きな顔をするようになったのは、そうそう古い話ではない。水路整備などが成功し商業が急発展を遂げるまでは、山間部を含む農政全般を司る郡方の方がずっと規模が大きかった。いまも格は上とされている。また、独立した存在としての勘定方もあり、最終的な数字上の決定権、すなわち帳尻合わせは彼らに任されていた。実際に働いていると、町方は彼らに雇われた人足のような気がしていた。
だが、一宮のような下士身分に生まれても、血の巡りがよく勉学に熱心なら勘定方や郡方の経理部門に一本釣りされることがあり、中士待遇への出世も夢ではなかった。
先年亡くなった父は、時にそういう事もあるから向学の志だけは失うな、とだけ息子に言い、当人は平々凡々と役人生活をこなしていた。
しかし家付き娘であった母は、祖父以来の役目に大いなる誇りを持ち —— 恐らく他の役目についての理解が乏しいだけと思われるが —— それと同時に、小心翼々と家禄の維持に努めた父の生涯を食い足らなく感じていたようである。一宮が成人し町方に出仕する際には、彼の家としては精一杯の品々や金子を当時の上司に届けたらしかった。
しかし彼女の努力も、息子が急に海のものとも山のものともつかぬ組に移らされたことで、徒労に終わった。
一宮自身は、なにごとにも真剣味の薄い先輩同僚に嫌気がさしはじめていたのと、奉行所内でも評価の別れた宮部の、すべてを事件捜査に懸けた姿に、ひそかに憧れてもいたので、異動は決して嫌ではなかった。
しかし母は違った。盗人に火付け、おまけに殺人犯が相手の新しい職務は、彼女の美学に大いに反しているようであった。
のちに知ったのだが母は当初、ひそかに奉行所上層部の奥方連中に辞令撤回を働きかけていた。結果、一宮の異動が彼女の想像より遥かに高みにいる人々の意思なのを知ると、今度は一転して、お頭のお屋敷によしなにと何やら持ち込んだらしかった。恥ずかしかった。
もちろん、そのへんの奉行や組頭連中とは出自の違うお頭は、丁重なお礼とともに受け取りを固辞された。そればかりか、今後一切そのような気遣いはご無用というお言葉に加えて、これも何かの縁、以降ご家族もよろしくご支援されたいと、季節の果物や砂糖、あまつさえ女物の反物までお送り下さったのだった。
ちなみに一宮は最初、家には三浦家の家臣の誰かがきたのだろうと思い込んでいた。ところが隠れて見ていた妹の紀伊から、年寄りの中間を連れて訪いを入れたのは、
「上等なお召し物の女の方とそのお供で、二人とも、とてもお背が高かった」という情報を聞くと、すうっと自分の顔から血の気が引くのを感じた。奥方様だ。
翌朝一番にお頭の執務部屋に伺候し平伏した一宮だったが、図書は彼の顔を見るなり破顔して、どれも到来物で悪かったが、ぜひもらってやってくれ、と快活に頼んだのだった。
しかし、三浦家のそれは、下手をすると出所がお上周辺からの恐れもある。恐懼した一宮に図書は、大切な息子を危険な任務に貰い受けたからには、わし自身が母上にお目通り願わねばならんな、とますます恐ろしい追い打ちをかけた。
さらに、なんなら古田も同道させよう、その方が妹ごも喜ぶやも知れぬと、また明るく笑って下さったのだった。間もなく十六になろうかという紀伊が、はしたなくも古田与力の容姿に多大な関心を寄せ、用もないのに役宅まで訪ねてくるのも、とっくにご存じのようだった。
この一件ののち、しばらく沈黙していた母は、寺での失態についての無責任な噂を耳にするやまた活動を開始した。自分の息子が主役の一人だったことも知らずに、役目替えを願い出るよう、毎日ねちねちと言い募った。ついには、嫁の来手がないのも不浄のお役目が嫌われたからだ、とかき口説く始末。
客観的に見るなら、彼の職務より母の存在そのものが障害となっているのだが、「世間」をあれほど気にする当人にして、それには気づかないのだった。
一方、兄の上司に岡惚れする紀伊も、中身の幼稚さは別にして、みばは決して悪くない。むしろ自分の妹にしては上出来だと、一宮自身思っていた。涌井など紀伊が姿を見せると、決まって長い身体を強ばらせ押し黙る。そして彼女が帰ると、深い吐息を漏らすのだった。
なのに縁談の前触れすら、やってくる気配がないのは、母の空回りの成果だろうとは想像がついた。
大きなため息をついてから、「寒くなったな」と一宮は身体を震わせた。二人だけならさっさと移動するのだが、座敷の奥にはお頭が泰然と座っている。
何度目かの「まだかな」の独り言を口にすると、今度は右前方の小さな神社の方を見た。意識して探さないと分からなかったが、木に隠れた置き石のあたりには、島を連れた古田が行儀よく腰掛けている。虫も殺さぬ優しい顔をして、つい先日目の当たりにした剣鬼としか表現しようのない迫力が、夢ではないかと思える。船内でがんばっている警護団は、そろって凄腕の剣士だと聞いた。やはり、いざとなれば古田の顔色なからしめる活躍を見せるのだろうか。正直、あまり近寄りたくはなかった。
宮部も一度きていた。手際よく旧知の川奉行の配下とやり取りを済ませたものの、本国からつきそってきた荷の警護責任者が目通りさせず頑張っているのを知るや、
「ちょっと見てくる」と、一行の宿泊予定地へ行ってしまった。相変わらずのせっかちである。
問題の荷は、婿養子である隣国の殿様へ、その本国からのお見舞いというか贈り物である。表向きの送り主は叔父になっていても、殿様の実兄である本国現藩主の用人が付き添ってきている。あらかじめ同心たちは、伊藤さまという御用人はお頭の古い知人であると教えられた。さらに、荷を警護する部隊の責任者がどうしようもない武張った人間だとも知らされている。
しかし、小なりとも一国の藩主につながる出自の人間を、さらに一行で最高位にある自分たちの国の用人の意向に反して、ただの馬廻りがこんなに待たせてもいいのかと、一宮は首をひねった。
「早く来ぬかな」また口にした一宮の前に、先助が皿を突き出した。味噌をぬった餅が乗っている。
「殿様が、これを」奥に礼を言うと、一宮はまだ暖かいそれを口に入れた。
話は三日ほど前にさかのぼる。
役宅で皆が顔を揃えたばかりのまだ朝早い時間、組頭の三浦が一人の初老の男を紹介した。櫛田と名乗る四角い顔の律儀そうな男は、北にあるさる大藩の用人に仕えているということだった。
「昨晩遅くの到着でもありお疲れではあったが、ご本人のたっての願いで皆に紹介することにした。ぜひ合力を頼む」とお頭は言った。櫛田もその言葉に合わせてふたたび頭を下げた。
彼の主人は順調に行けば三日後に舟でこの国に入る。目的は隣国を治める現藩主の末の弟に時候見舞いとして茶器、書物などを渡すことだという。むろん、ただの見舞いではないのは明らかだった。
「櫛田どのの主は伊藤大膳さまといい、わしも昔から懇意にしていただいている方だ。こたびの見舞いは、異例のことながらご用人自らが同道されておいでである」
見舞いは、二人の藩主の母親で前藩主の未亡人である常法院からの依頼であることから特別に用人が責任者となっているのだと説明があった。
一行は、用人とお蔵奉行の添え役、そして護衛十人に足軽身分が幾人か、といった構成だと伝えられた。港からいったん宿に入り、その後陸路を半日ばかりかけて隣国の国境に到着する計画だという。宿も本陣ではなく、あえて規模のやや小さい脇本陣に取ることになっていた。
「時候見舞いには物々しく、大金を運ぶには少ないですな」と、遠慮せず宮部が口にした。
櫛田はその率直な物言いが気に入ったのか、お国なまりのある口調のまま、主人が気がかりとしているのは道中の襲撃と護衛の責任者の両方であると言った。
「一行にご用人より上位の方がおられるのですか」宮部が問うと櫛田は、
「常法院様のご意向につき」と、情けなそうな顔をしてみせた。
護衛の責任者は三百石取りの馬廻り副組頭に過ぎないが、国ではよく名の知られた剣豪で、かねて常法院の気に入りである。今回の任務も彼女直々の声がかりだった。
残りの護衛もその男が選んだ剣客ばかりでそれぞれ自信満々、人目を引くからこの人数で十分と勝手に決めてしまった。近年、国境付近に頻繁に出没する盗賊の状況も伝えたとされるが、野盗ごときなどなますにしてやるので援護ご無用と広言していると櫛田は言う。もちろん、用人の意向とは全く異なる。
「主は若年の頃、陸路を使った同様の御用で九死に一生を得たことがござった。それで旧知の三浦様におすがりした次第。なにとぞ新当組の方々に合力あられたい」とふたたび櫛田は平伏したのだった。
「つまりは宝物の世話と世間知らずの間抜けな剣客のお守りの両方をやれということか」ふーっと、宮部は大きなため息をついたのだった。
そろそろ空が赤みを帯び始めたころ、図書のもとに急ぎ足の櫛田がきて頭を下げた。出て行く図書と先助、そして一宮と涌井を店の親父のひときわ大きい礼が追いかけた。たっぷりと置かせた金が効いたようだった。
ようやく舟に上がると、二人の男が待っていた。中年の男と小柄で品のいい年配の男だった。年配の方が図書に歩み寄り、二人は手を取り合った。
「よほど親しいんだな」一宮がつぶやくと、「江戸でお知り合いだったそうですよ」
と涌井が言った。
「よく知ってるな」むっとした口調の一宮に、
「直にお聞きしました、お頭から」涌井が自慢げに言った。
その年配の男、用人の伊藤が古田親兵衛と礼を交わした。一宮と涌井を見つけると彼らにも会釈したので、二人は慌てて頭を下げた。伊藤は先助にもねぎらいの声をかけ、恐縮させた。しかし、出てきているのは伊藤とお蔵奉行添え役の石井と、その従者らしい二人だけだった。
櫛田が近寄ってきた。
「暗くなるまで待つ、と奥でまだがんばっております」と伝えた。船の乗員たちも仕事が進まず迷惑そうな顔をしていた。荷揚げの責任者らしいのが、「馬も待たせておるのやが」と、困った顔をしていた。
仕方なく、図書と伊藤らは先に宿に向かった。護衛一行が物々しげに船倉から出てきて、荷物を馬に背負わせ、ようやく宿についたのは、日がとっぷり暮れてからだった。
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