第31話 親兵衛の告白
三十一 告白
いつもはうれしげに夕餉の膳に向かう夫が、今夜は沈んでいるようにみぎわは感じていた。いや、今夜だけでなく、ここ数日はずっとそうだった。
亡父のような不機嫌、理不尽な八つ当たりとはいっさい無縁な夫にも葛藤はあり、時にはつらい過去の記憶に苦しむ日のあるのを、ともに暮らすうちにみぎわは理解していた。それに、このところ遅くまで各地の番屋を回ることが少なくない。先日など寝付いてから夜中に呼び出しがあり、明けてからも遅くまで帰ってこなかった。ずいぶん疲れが溜まっているのだろう。
茶とともに、とっておきの羊羹を出してみた。親兵衛は笑顔を浮かべながらも、妻の心配に気がついたのか、口を開いた。
「柏屋の隠居が襲われる騒ぎがあったのは知っているだろう。賊にひどく打たれて、四肢を動かすのもままならぬ。組では例の火付け騒ぎとこれを同時に追っておるが、いずれも手がかりが少くてな。そうだ、柏屋の評判を聞いたことはあるかな」
「はい。前は国一番の分限者であった甚兵衛のことでございますね。あまり良い噂は聞きませんでした」
「そのようだ。いまは三代目になっているが、年貢米を一手にひきうけていたころは隠居が当主だった。ずいぶん幅をきかせていたらしいな」
「ええ、それはもう。ただ、久しく噂もありません。いまになって襲われるいわくでもあったのでしょうか。」
「わからぬ。隠居して八年は経っているそうだ」
親兵衛は大切そうに羊羹を一切れ口にした。
「とはいえ酒蔵まである隠居所は、本宅よりよほど立派だ。すぐ動かせる金もかなり置いてあると聞いた。隠居所とはいえないな、あれでは」
彼は、ゆっくりとつけ加えた。「それに、恨む者は先代がはるかに多いと聞いた。時とともに恨みの深まることもあるな」
「そういえば隠居所の庭は、いしの夫が木入れを手伝ったそうです。どこより立派な植木を集めてあって、ぜひお目にかけたいものだと前々から申しておりました」
「そうか」親兵衛は微笑んだ。植木を扱ういしの夫は、親兵衛とも顔なじみだった。
「もとは先の殿をお迎えする話があって建てたのだと、柏屋の当代はしきりに言い訳をしていた。なるほど、船町にある柏屋の本宅は、これだけかと思うほど質素なつくりだった。こちらは初代の意向らしいが」
「何人も怪我をされたのではございませぬか」
「みな気がつけば縛られていたといった風でな。手荒に扱われたのはいても、ひどい傷や骨を折られたのはいなかった。よほど手慣れているのだろう」
みぎわは良人の茶を入れ替えながら聞いた。
「そうでございますか。賊は大勢であったのでしょうか」
「うむ。あまりの手際に、宮部殿は煙一味ではないかともお疑いだ」
「かねてご執心の」妻女の雪乃は、夫の気になるものは火付けに夜盗に煙一味、その次がやっと家のことだと、ひんぱんにこぼすのを聞いていた。
「ただ、多分に趣が違うと首をひねってもおられる。宮部様によると、煙はすぐ銭と換えられるものを好み、証文には興が薄いのが常だったそうだ。なにより年寄りを故なく打つ振る舞いは無かった。隠居は、死んでもおかしくない傷を負った。息子によると、いくら金が大事でも、相手に空手で歯向かうなどしない男だったそうだ」
親兵衛は額に手をあてて話し続けた。
「今日はお頭が直々に三代目を呼ばれた。表には出せぬ話だが、隠居の寝所にはわけありの紙束がずいぶん隠してあったらしい」
「まあ」ここまで明かすのはまれなので、夫はずいぶんこの件を気にして、考えを整理しようとしているのだなとみぎわは感じていた。あまり聞いた風な意見は言わない方がいいだろうか。
「ただ、なにをどれほど抱え込んでいたかは、息子にもほとんど分からぬそうだ。昔から隠し事が好きなたちで、店を譲ろうがどうしようが、ひとりじめにしておきたいことは家族にも頑として教えなかったと、苦笑いしていた。それが気になるのか、あちこちからさっそく横槍が入って、さすがのお頭もお困りだ」
「お気の毒に」みぎわは下士にも思いやりの深い図書の妻を思い出していた。「隠居から話を聞くことはできませんの」
「もう途切れ途切れにしか話せぬようだな」
しばらく黙ったのち、目を伏せたまま親兵衛は言った。
「実は柏屋が襲われる前に、盗賊らしき連中の密談を見た者がいた。そして、ある男がわたしに代わって、その痕跡を追ってくれていた。だが先夜、正体の分からぬやつらの手にかかってしまった。わたしの失敗だ」
「……呼び出しのあった夜でございますか」
黙って夫はうなずいた。
「三平という男だ。前に少し話したことがあったかな、川向こうにいたころに知り合った。元は江戸の十手持ちで、これまでもたびたび役に立ってくれていた。それでわたしもつい頼りにしてしまった。わたしとさえ出会わなければ、いまも生きて、好きな酒を飲んでおれたのに」
「……」
「せっかくの手がかりも、糸が途切れた。わたしに手柄を立てさせたいと無理をしたのに、報いてやれぬ」
「旦那様…」
親兵衛は独り言のように言った。
「わたしのまわりには、死が多すぎる。この身が呼び寄せているのかもしれん」
「いいえ、それは違います」思わずみぎわは激しい口調になった。
「死は誰にもひとしなみに訪れるもの。その日、運悪くその者の天命が尽きただけではないでしょうか」さらに夫に訴えかけるように、
「人があなたさまのお側に集うのは、心根を慕ってに他なりませぬ。その者も決して無駄と思って死んだのではありませぬ」
妻の強い調子に親兵衛も驚いた顔になった。
「そのように申されては、その者も、わたくしも……」泣き出さんばかりのみぎわに、
「わかった、すまぬ。これこそわたしが悪い」と、夫は謝った。「言う通りだ。簡単に諦めては、ますます三平は成仏できんな」
みぎわは目に涙をためたまま、こっくりした。
機嫌を取るように親兵衛は重ねて言った。「なに、宮部殿も気にされ、近く頼りになる者を紹介して下さる。まさに地獄耳で、悪党のことは掌を指すように教えてくれるという」そして精一杯明るく、
「わたしについてもとっくに耳に入っているそうだ。悪党並みだな。噂とどう違うか、一度そのつらをじっくり見せに行こうと、笑っておられた」
ようやくみぎわも微笑み、いくどもうなずいた。
残った羊羹をそっと切り分けながら親兵衛がぽつりと言った。
「すまんな、うかうかと愚痴を聞かせてしまって」
懐紙で目を拭いながら、みぎわはかぶりを振った。
「何をおっしゃいます。わたくしは感謝しております。大切なお勤めの話をこのようなものにお話しいただいて。宮部どのや三浦のお殿様も、いざ困った時まで少しもお話しにはならないと聞いております。父など、知らせるべきことさえ話さず、それで自分が恥をかくと怒りだす始末でした。私は幸せでございます」
「わたしの生国はみなしゃべった、と言いたいところだが、父も口は重かった気がするな」
「まあ」
「せめて、家族にはあらかじめ、どこを向いて歩いているかぐらいは伝えておきたいと思っているのだが」
そう言って親兵衛は目を閉じた。
「それだけではないな。みぎわだからしゃべりたいのかも知れぬ。いや、そうだ」
今度は開いた目で妻を見つめた。
「すまぬが、もう少し聞いてくれぬか」
落ち着いた表情とはうらはらの、親兵衛の言葉にひそむ感情の高まりに、みぎわも夫を見つめ返した。
「わたしは少し前まで、たった一人だった」夫は、自分で自分の言葉を確かめるように話しはじめた。
「知っての通り、国元にいた時分に父も母も兄も亡くしたからな。しかし考えると、家族がいたころからずっと寂しさは感じていたようだ」
遠くを見るような目をした。
「鳥のように強くも自由にもなれず、人の中で生きるしかないわたしが、それに不平を言うのは筋違いであり傲慢なのかも知れぬ。ただ、誰かに気にかけて欲しくてたまらなかったのは本当だ。なのにそれは得られなかった。父も母も子に打ち解ける方ではなかったしな」
しばらく黙ってから、また続けた。
「剣術に励んだのも寂しさと、もしや気が触れるのではないかという恐れからだ。だがそれと同時に、人は誰しもそうなのだと思った。とりわけわたしは武士の家に生まれた。一人寂しさに耐えるのは当然と、おのれに言い聞かせてきた」
みぎわは、身じろぎもせず良人の顔を見つめ続けている。
「国ではいろいろなことがあった。たまさか人より少し剣が遣え、死すべきところで生き延びた。だが、それが故に寂しさはつのった。外からは平気に見えたかも知れぬが、いつも悲しかった。国を離れても、あらたな主君を得ても孤独の思いは一層この身にとりついた」
「いまなにをして、なにを感じているのかを誰かに話したくてたまらなかった。だからいつも心の中のもう一人のおのれに向かって話し、慰めを得ていた。だからいつも笑みを浮かべていられたのだ。しかし」
親兵衛は目を伏せた。みぎわもうつむいてしまった。
「それも次第につらくなった。坊主のように達観などできないものだ」いったん言葉を切って親兵衛は続けた。
「国では人も斬った、数多く。それが後悔の念となって私を取り巻いた。そして、ある山中を歩いている時に、ふいにそろそろ終わりが見えた気がした。生きるあてを探し疲れたのだ。これも因果なら、旅の終わりが近いのなら、自らかたを付けようとこの国までやってきた。同じ一人死ぬのなら、山で野ざらしになるより、人の声を聞きながら死にたいと思ったからだ。花の美しい国と聞いたからだ。ところが」
ふたりの眼があった。
「思いもかけず、みぎわに会えた」
「……」みぎわは息をのんだ。
「そなたがどう感じたかは、わたしには分からぬ。しかし、わたしとってはこれこそが旅の目的だった。遠い旅の果てに探し求めた相手に出会った。はじめて、生きているのが楽しいと思った」
親兵衛は、穏やかな顔で妻に微笑みかけた。
「いまは、みぎわと話し続けることだけが、わたしの望みだ。他にさほどの願いはないが、ともに日月の移り変わりを語りあうのがわたしの喜びだ。嫌でなければ、これからも話を聞いてくれ」
勿体ないと、言おうとしたみぎわだったが、喉に溢れ出たものがあって言葉にならなかった。
「……わたくしも、同じでございます」とだけ、ようやく言うことができた。
少女のころ自らの不注意でやけどを負い、一人でそれを背負って生きねばならなかった。人の目は冷たく、口にはいつも傷つけられた。寂しくて、辛くて、死を考えない日はなかったのに、このごろはまるで夢の中にいる心持ちがしている。あなた同様、わたくしもわかりあえる相手をずっと心の中に描いてきた。わたくしの望みも、二人でいつまでも語り合うことだ……。
そう口にしたつもりだったが、思うほど言葉にできなかった。ただ、良人はその気持ちを正しく理解してくれたと、確信していた。
みぎわは我しらず涙を流し続けていた。月の光が部屋に入りはじめていた。
しばらく庭に目をやっていた親兵衛が、つとめて明るい調子で言った。
「しかしこのところ、少しおしゃべりが過ぎるので困っている。これは宮部どののせいやも知れぬ。先日も口を滑らせた。ついうかうかと、妻が大事で剣が下手になったと、涌井に漏らしてしまった。あいつが口の堅い男で助かった」
「まあ」
「しかし、あの男もさるものだ。あのような奥方がおられるなら、それを守るために腕はもっと冴えるはずだと、ぬかしおった。やられたな」
「まあ」みぎわは泣き笑いを浮かべた。親兵衛も笑った。
月明かりの中で、虫の音がまた聞こえはじめた。
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