第29話 「柏屋」を襲う煙たち

 二十九 実行


「舟は揃ったか」

「ああ、いつでも出られるって、伝えてくれていい。今夜はどこだい。急な話だな」

 夕暮れ時に、二人の男が小声で話していた。人気の少ない寂れた船着き場で、つないである舟も遠目には傷んでいるように思える。ただ、じっくり見ると船体はぱりっとしていて、表面を汚してあるだけなのが分かった。

「どこやらの立派な隠居らしいよ、相手は」「へへ、金持ちのじじいから、ひったくるんだな」

「それよりさ」片われが心配そうに聞いた。「長の奴、大丈夫かな」

「ああ。あの長い腕をすっぱり落とされて、血が足りねえらしい」

「あいつにしちゃ、油断だな」

 

 二人は手分けして船底を点検した。そのうち二艘は普通の舟とは違って上げ底になっていた。小さな舟でありながら人に気づかれず荷を運べる。

「傷がひどいんで他所の医者に送ったらしいけど、まあ、帰ってこないだろうとさ」

「ああ、俺が連れてったんだ。かわいそうだったな。ほかに誰かいたのかい」

「草太と、ほれ、烏って奴、あいつもいたらしい。それがさ、草太も斬られたって」

「えっ」

 相手はかなり驚いた様子だった。

「草太と長で、どれだけの相手を始末したことか。それが二人まとめてだよ。草太はこっちの医者に見せてるけど、あいつもだめだ。動けないとさ」

「誰にやられたんだ」

「嗅ぎ回ってたじじいを、始末しようとしたそうだ。そいつの連れじゃないかって話だよ。役人の手先だろうと、ただのじじいの腕が立つとも思えないからさ。おびき寄せるついでに余計なのを呼び込んじまったんだろうか」

「あのおっかない、竿竹みたいな得物は使わなかったのか」

「ああ、肝心のあれを落としてきたそうだぜ、腕と一緒に。鼻をつままれても分からないほど真っ暗だったというけど、気づくやつもいるんだな」

「半次さんは、どうしてなさる」

「遊びすぎたとお怒りだ。お頭もさ、あったことを聞くとなんにもお話しにならなくなったってよ」

「怖いな」

「怖いよ」

 二人は、囁きあいながら他の者が来るのを待った。


 暗闇の中で、老人はふと目を開いた。人の呼気が聞こえた気がしたからだ。月の光も射さない堯暗のなかで、目が慣れるまでじっと見開いていた。

 もちろん誰もいないのはわかっていた。本宅の天井とは異なる美しい木目が、次第に見えてきた。長年暮らした質素な本宅なら、夜に目覚めると妻の寝息が聞こえた。三年前に先立たれて以来、女を間近に感じたことはなかった。


(寝息すら惜しむような女だったな)と、柏屋の隠居は播磨の遠縁から迎えた妻を思いだした。よく言えば控えめ、悪く言えばやや吝嗇のきらいがあり、しきたりを守るのに汲々としていた。死ぬ前は随分苦しかったはずだが、それすら隠そうとしていた。それを思うと、お互いあまり心根を明かさないまま過ごした夫婦であっても、胸に小さな痛みを感じる。

(あいつは余計なところばかり似た)すぐ、手堅いばかりで「家の存続」を第一に考える長男の角張った顔を思い浮かべ、痛みを消そうとした。

 

 一時は藩政の中枢にまで食い込み、彼の店が年貢米の大半の扱いを任されるほどだった。だが執政の交代など大きな逆風にあおられ、その特権も手放さざるをえなくなった。それをきっかけにほかの商売も陰りが見えはじめた。家督と甚左衛門の名を譲ろうと決めた頃には、彼もひどく自信をなくしていて、息子の堅実さが心強かった。

 いま、あの時代より国の経済はずいぶん勢いづいている。人も、物も、ついでに盗人まで増えていると聞く。

(ここで何か思いつかないのはばかだ)と、隠居は考える。失敗は失敗。父の跡は継いだものの、いまの事業の多くは彼の代になって築き上げたものだ。いわば彼の努力が生み出したものであり、一度落ち目になったからといって、ただ縮めてよしとするのは、愚か者としか思えなかった。


(なのに、息子は俺のせいで家産が傾き、その尻拭いをさせられていると、思っている)闇の中で老人の薄いほおに赤みが差してきた。

(ついには公然と俺にたてつくようになってきた)おのれ、おのれ、おのれ。

(だから、一から始めて、めどをつけるのにあれほど苦労した酒は、あいつには、あのような小賢しい男にはゆずってやれん)と、孫兵衛は頭の中で吠える。(酒を人脈作りに活かすのは俺の発想だ。親父ではない)

 彼は決して好きではなかった父を思い出し、そのできなかったことを数え上げた。

 そして、表にはとても出せないひみつの証文について思いをはせる。

(まだまだ武器として十分使える)


 だが彼は、血を分けた息子にも、証文の中身はおろか存在すら教える気にはなれなかった。

(ああ、そうだ。確かにおれは、調子に乗りすぎたかもしれん。だが、まだなにかに挑む気力と能力は残っている。ひとつ、目にものみせてやろうか)

 闇夜の中で、目を開いた。

(この五体に力がまだ残っていると思っているのは、俺一人ではない)

 親戚で、かつての商売仲間でもあった呉服問屋の千住屋が言ってよこした話が、いまの孫兵衛にとって、自分の力を証明する手がかりに思える。

「後添えを迎えないなら、若い妾でも置いたらどうだね。気分が変わるよ。あなたなら、だれも後ろ指を指さん」

 現役の頃は商売第一。女遊びも、ほぼ商売相手や無能な役人どもの機嫌取りと割り切っていた。外に女をつくろうと真剣に考えるのは、この歳になってはじめての経験だった。ただ、わずかな時間に横顔だけかいま見た候補の娘は、すぐ彼の気に入った。

(しろく、みずみずしく膨らんだほお。まだ胸の小さいのがいい。あのような娘を近くに置けば、さらに力も出ようというものだ)

 孫兵衛は闇の中に娘の初々しい面影を描いた。

(そのうち、息子に歳の離れた弟でもつくって、こちらに家督を譲り直したいとでも言ってやれば、あの小心な男はどんな顔をするだろう)

 自然と、ほおが緩んだ。


「楽しそうなところを邪魔して悪いが、ちょっと話を聞かせてくれないか」

 驚いて寝間から起き直った老人に、静かな吉左の声がかぶさった。

「どうしても知りたいことがあるのだ、ご隠居」

 部屋の反対側に黒い影がわだかまっている。柏屋の隠居は凍り付いた。

「なに者だ…誰かいるか」声が上手く出ない。

「みんな、ぐっすり寝ているさ」闇の中から別の声がいった。部屋の隅に数人が立っているのに隠居はようやく気づいた。

「時間は取らせない。あんたが素直にしゃべってくれさえすればな」

「金か」

「ほかに、なにがあるというんだ。なにかあるのかな」


 吉左は闇に浮かぶ隠居の顔をじっくりみた。表情こそ恐怖にこわばっているが、やせた面長の顔、意志の強そうなほお。きっと頭もいいのだろう。若い妾を置きたがる狒狒爺には見えんな、と思った。

「あっちの倉は、もう見せてもらったよ。まあ、酒蔵がついてるとはいえ、隠居所とはとても思えない金があったよな」と、半次がすごみのある声でいった。

「それは適当にいただくとして、肝心な物は他に隠してあると、聞いている」 

 いきなり殺されることはないとふんでやや落ち着いたのか、隠居は口をひき結んで黒い覆面の男たちを睨みつけた。

「おそらく、この部屋のどこかじゃないかと思うが、俺たちだって忙しい。素直に教えてくれたら殺すのはやめにしておく」半次は細身だが青ずんだ刀身を老人の顔に突きつけた。今夜は半次も吉左さえも、刀を持ってきていた。脅すことになると見ていたからである。

 しかし、脂汗を流しながら、隠居はまだ黙っている。


(大したもんだ、ちびりそうなはずなのに)堪え続ける老人を見ていると、その気力に感心する気持ちさえ浮かんでくる。

 隠居がついにあきらめたのは、半次に目も止まらぬ早業で着物の胸元を断ち割られ、血がにじみ出たときだった。目星をつけた通り、居室には小ぶりな仏壇があった。それを押し込むと上に隠し扉が出てくるしかけだった。

「こんなめんどうな仕組みにしといたら、もう少し歳寄ったら出せなくなっちまうぞ」そうからかわれると、隠居はすごい目で吉左らを見た。

 中の手箱から小判の束がいくつかと、証文のようなものがたくさん出てきた。

「いや、まだだ。その奥も出しな」

 吉左がいうと隠居は一瞬ためらった。

 半次に刀で手箱を叩かれ、仕方なくその奥に会った螺鈿で飾られた箱を出してきた。


 中には、いくつも綴りが入っていた。かなり古い物もある。

「これが、いざとなったときにあんたを守ってくれるんだろう」

「お前らには意味のないものだ」震える声で隠居は言った。「どうせ、分かりはすまい」

「そうかな。そうでもないぜ」半次が言った。

 刀の先でいくつかを広げ、闇に透かして読む。

「この国ばかりじゃなくて、隣の国にも随分上得意を持っていたようだな。ほほう、この花押はあれだ、噂の馬鹿殿さまの補佐役でいらっしゃるお方のだ。まだあんたみたいに家督を譲ってねえから、当分は脅せる。新しい商売の許可なんてするっと貰えそうだ」

「お前、何者だ」老人の目玉が飛び出しそうに見開かれた。「まさか、摂津守様に雇われたか」

「いんや、道において賢し、って奴だ。あんたほどじゃないが、これでも長いからな」

「そうだろうな」隠居は落ち着こうと数度呼吸した。「あの方たちにこんな思い切ったことはできぬ」

「おっと」古い証文とは異なる真新しい文が畳にこぼれ落ちた。螺鈿の箱の蓋からのようだ。

 隠居の顔が一挙に緊張した。

 

 半次が手に取った。「こりゃ、おもしれえ」一読してからだまって吉左に手渡した。「お隣とは、よっぽど仲がいいんだな」

 さっきの証文と同様、隣国の重職からの文だった。それも届いたばかり。

 「これは…」吉左も驚きを隠せなかったが、すぐにとぼけた。「花鳥風月は、おれにはよくわからん」

 実際、書かれてあるのは、時候のあいさつをもってまわった言い回しでだらだら記したのと、大昔の公家の作を写したとおぼしき体裁の、くずし文字だけだった。

 だが、吉左には文の目的がすぐに理解できた。まさしく暗号文に違いない。

 半次もまた、吉左の態度にピンときたのだろう。すぐ一緒にとぼけてみせた。老人を殺すつもりはなかったからだ。

「仲良しを、脅しちゃだめだよ。こんな風雅なご機嫌伺いを送ってくれているのにさ」

 そういって、わざと雑に手紙をあつかった。

 「じゃ、みんなもらっていくぜ」

 手紙をひらめかせた半次が証文とひとまとめに背後へまわそうとした。すると突然、隠居が白刃も気にならないかのようにしがみついてきた。

「まて、それだけはやめてくれ。金になるわけじゃない」 

 半次は隠居を蹴り飛ばし、「それは、俺たちが決める」と言い放った。右よしらは、一応部屋のほかも見て回ったようだったが、すぐに隠し金と書類を包み、背負ってしまった。


「畜生、こん畜生」つぶやき続ける老人に気づいた右よしは、

「大店のご隠居が、品のない言葉を使うもんじゃねえ」と、声をかけた。

 吉左が首を振ると、男たちはすぐさま脱出にかかった。

 「せっかくのところを邪魔したな」

 吉左が声をかけても、まだ隠居は「畜生…」とつぶやいていた。そして歯噛みしながら「お前らのような下衆に、俺の苦労が分かるか。どれほどの思いをしてきたか」などと言い募る。

「聞き捨てならねえな」大股で出て行こうとした吉左が唐突に足を止めた。

「お前だけが苦労しているのではない。お前に踏みつぶされ、泣いてるのはいくらでもいる」

 いつも冷静な頭から聞いたことのない口調に、

「ほっときましょう。用件はすんだ」半次は彼の肩を叩いたが、恐ろしいほど力が入っているのに気づいた。

 右よしが無責任な声をかけた。

「また、稼ぎゃいいじゃねえか。それで若い女でも囲ったらどう。寂しい独り寝なんてやめてさ。楽しいのじゃないかなあ。ま、じじいに付き合ってくれるのが見つかればの話だけど」

 隠居は憎しみを込めた目つきで、吉左に向かって言い返す。

「ああ、もっと儲けてやる。そしてぜったいお前たちの手の届かないような、きれいな若い女をたくさん囲ってやる」

 

 吉左は突然、怒りを爆発させた。長脇差を抜き隠居の細首に叩き付けようとする。

「お頭」半次の悲鳴のような声に、瞬間吉左は刃を反転させて、峰の方で老人の首を殴りつけた。寝間に座ったままだった隠居はその場に昏倒し、ぴくりとも動かなくなった。

 滅多に見ない吉左の激情に、たいていのことでは驚かない右よしが、おびえたような顔をしていた。

「いくぞ」

 半次の声に、男たちは黙ってきた道を通って出ていた。布団に突っ伏した柏屋の隠居は、一味が消えても動かないままだった。

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