第28話 暗夜の決闘
二十八 暗夜
「無理はならん」との親兵衛の言葉を思い出して、三平はかすかに笑った。
(あのお方らしい言いぐさだ)優しいのは分かるが、時に手荒いことや汚いこともやらねば、人が隠したいことを暴くなんて真似はできないと、彼は信じている。
今日は、ぼうふらがいっぱい湧いているような、汚い長屋ばかり回った。江戸でご用の筋についていた時から二十、いや三十近く老いた身体はくたびれてはいたが、あの頃の気分が戻ってきたようにも感じていた。
(はて、なんで辞めたのだったか)
長く各地を回りすぎた結果、もういまでは、ぼんやりとしか思い出せない。確か手札をもらっていた同心が息子に代替わりして、そいつの、あまりの吝嗇さに嫌気がさしたのだった。いや、それより…。
心の底にしまい込んでいる昔のことに触れてみて、まだ鈍い痛みを感じるのにとまどった。ある事件で恨みを買い、妻子が無惨に殺された。なのに犯人も満足に探してもらえず、その葬儀に旦那の持ってきたのは、貰い物であろう風呂敷一枚きりだった。
(あのころ、古田様のような方が旦那だったらどうだったかな)
少なくとも、一緒には悲しんで下さったろう。
もしかしたら、妻子の死も防げたかも知れないが、もうそれは考えないことにした。
「今日は、一度戻るか」と、自分に声をかけ、いったん探索を中止することにした。そうでないと一晩中探してしまいそうだった。
一人暮らしのねぐらは、このところ調べて回っている長屋と大差ない。立て付けの悪い戸を開けると、暗い部屋の中に易者が待っていた。
「おや。どうしたね」
「悪いね。勝手に入らせてもらって」少しも悪いと思っていない顔で易者は言った。
「こちらこそすまなかったな。ここんとこ、あんたの手伝いができなくて」三平が詫びると、
「いや、そんなことはいいんだ。それよりな」においのひどい油に灯をつけると、こころなしか易者の顔が青ざめて見えた。
「そなたの入れ込みようが心配になってな。このところ顔相も良くないので、占ってみた」
「へえ、悪党たちがどう動くかなんて、占いでは読めないのじゃなかったかね」
「そなた一人の行く末について占ったんだ」
「へへ、お代は払わないぜ。それで金でも拾うって、出たのかい。ちょっとなら融通するよ」
「いや、待ち人に会うと出た」
「そりゃいいじゃねえか」
「待っているのは、やつらだ。そなたに感づいて、仇なすために待っている」
二人ともしばらく口をつぐんだ。
先に口を開いたのは易者だった。
「危ないことをすっぱり止めれば、運気も変わる。それに、先だっての与力様がおられる。おすがりすれば、きっと悪いようにはなさるまい」
「あんなお優しい方に、ご迷惑はかけられないよ」
「いや」易者は首を振った。「あんたは気づいてないかもしれないがね、あの人は並のお侍ではない」
「そりゃ、わかるよ。俺だって元は十手持ちだ。人の値踏みは慣れてる。だからあの方のお役に立ちたいのさ。もっと偉くなってもらわねえとな」
「違う。あの人は、そこいらの悪党なんか比べものにならない……」と言いかけて、
「いや、止めておこう。すまんね」
「いいんだ。別に。それより、いつになるのかね。待ち伏せは」
「近々としか」
「なら今夜は酒でも喰らって、寝てしまおうぜ」
「そう、そうだな、それがいい」
好きな割に強くない易者は、水っぽい酒を数杯あおるとすぐ赤くなって寝てしまった。
「待ち人に会うんなら、探す方向が誤っていないというこった。悪いが出てくるよ。明日また、顔を見れたらいいな」と三平は口をだらしなく開けた寝顔にささやいた。
まだ深夜までは間があった。三平は、あす出かける予定だった船着き場の一角に足を伸ばした。その場所は、二昔前なら活気があったが、船の接岸場所が変更されて以降すっかりにぎわいを失っていた。今では薬種商や唐物屋、海産物問屋といった業者が予備の倉庫を置くほかは、壊すまでもないが手入れもされていない建物が、くすんだ姿で建ち続けていた。
遅くまで商売をする店はなく、当然ながら人の歩く姿も少ない。三平は酔っぱらいがふらふらしている体を装って、あたりの監視を続けた。人が住み暮らしている家は、すぐ感じ取れる。住んでいないところも同様だ。探すのは空虚で生活感がなく、なおかつ人の居る家だ。
数日前、ここらをねぐらにする乞食に小遣いをやったら、「時々夜中に変なのが飛んでくる」と、教えてくれた。むろん空を飛ぶわけではなく、烏の二つ名のまま身のこなしがやたら軽いのが出入りしているのではないか。そして尾行を警戒しているに違いない。三平はそう目処をつけていた。
(待っているかい、烏さんや。おれもあんたが出てくるのを待ってるぜ)
親兵衛にはまだ詳しく話していなかったが、烏たちの酒場でのあの語らいは、間違いなく盗みの相談だと三平は感じた。もし煙なら、評判の割に不用意な奴らだと思いながらも、
(なに、盗人なんて所詮その程度だ)と納得する気持ちもある。
いくら上がしっかりしていようと、下の奴はすぐたがが緩む。まあ、三平の見るところ緩みかげんは盗人も侍も同じことかも知れない。
それはさておき、あの夜にかいま見た奴らの表情には、高揚があった。
(まっとうな仕事の話しなら、あんな楽しそうな顔はしねえ。岡場所に繰り込むのでなければ、あれは悪さを思いついた顔だ。ずいぶん古ぼけたが、まだ俺の勘は死んじゃいない)
易者によると、あのときの異相の男・烏には単独行動するほどの知恵はない。ただ、難しい仕事に喜びを感じるクチではあるらしい。
やつが犯罪計画を実行するのなら、必ず背後に頭目がいるはずだ。しかも烏を見出し、使いこなすとはかなりの悪党だろう。もし烏が牛太を見捨て、この国の新しい頭についたとすれば、その一味は相当のやり手と思われる。もしかすると、例の牛太を始末したほどかも知れない。
(あいつらをもういっぺん見つけたい。そしてたぐって行けば、必ず大物にたどりつく。そうすれば)
商店のひっそり並ぶあたりを通り抜け、三平は干物でも作っていたらしい廃屋の前にたどり着いた。大きな板が何枚も放置してあり、人の気配はなかった。
そこが、三平の気をひいた。
(妙に片付けられているな)
適当に荒らしてあるが、肝心の雨風をしのげる屋根の下は、踏んだり躓いたりするようなものがなかった。
(なんか引っかかる。よく分からねえが、このあたりかもしれない)
「ぶるっ、気にかかるが、また明日きてもいいな」闇に聞こえるように三平は言った。
あたりの様子をうかがう。腰を落とし、懐から変わった形のカギ縄を取り出した。
彼のカギ縄は犯人を縛る道具としてだけでなく、殴ったり突き刺したり、武器として使える。江戸に居た昔に作らせた特製品だ。カギはこの間サビを落とした。縄は前より細いが、新しいものに換えた。ただ、肝心の腕と脚はあのころより肉が落ち、一回りも二回りも貧弱になってしまっている。
とりあえず不吉な気配から離れようと、外に向かって後ずさりをはじめた三平の耳に、ついにいやな声が届いた。
「おや。もう、お帰りかい」
「誰だ」三平は低くすごんだ。月が陰ってしまい、鼻をつままれても分からないほどの暗さになっている。闇が囁いた。
「そっちこそ、誰を探してるんだい」
(しまったな)まさかここまで大胆な奴らとは考えもしなかった。
「おれはただ、迷っただけだ」
「いいや、いぬはすぐわかる。あちこちで俺たちを、探していたろう」
別の声がした。「本当だ、いぬだ。そんなおっかないカギ縄、このあたりの番屋のじじいじゃありえねえ」
「うるせえ」相手に夜目が効くのはわかった。
「一緒に楽しもうぜ」さらに別の声がした。
(しくじったな)三平は再び後悔した。(囲まれた。さっさと帰ればよかった)
だが三平は、自分が不敵に笑っているのに気が付いた。
「ふん、ガキども。下手な冗談はやめておけ」
(どうして、おれはこんなに落ち着いている。死ぬぞ)
「どうせ汚ねえ間抜け面だろう。唐橋の利平さまがおがんでやるから、とっとと出てきやがれ」
(そうだ。昔はそんな通り名だった)
目の前を覆った闇の奥から、かすかになにか動く気配がした。そして冷たい鉄のにおい。
(古田さま)
心の中で一声呼びかけ、三平は暗闇に向かってカギ縄を構えた。
「神妙にしろ」
さっきまで騒がしく奏でられていた虫の音が、ふいにやんだ。表でほとほとと戸を叩く音がする。すばやく着替えた夫に気づいたみぎわは、寝間から跳ね起きて詫びた。
「申し訳ありませぬ、気が付きませんで」
「いや、いい」優しく夫が制した。「私を呼んでいるようだ」
住み込みの下女であるむつは、床に入るとそばに雷が落ちても目を覚まさない。親兵衛が外に出ると、役宅で今宵の泊まり番をつとめていた勘吉が誰かを連れてきていた。
「夜分申し訳ございません。どうしても古田様にお伝えしたいと、聞かなくて」
「おお、易者どのではないか。いかがされた」
易者は親兵衛の顔を見るや、彼の腕にすがるようにして言った。
「三平が、おらんのだ」
「だから、口直しにでも行ったんだろう、と言い聞かせたんですがね。十五六の娘ならまだしも」勘吉が渋い顔で言った。
「向こうにお前は待ち伏せされていると、伝えた。それが余計だったらしい」
「このあいだの異相の男を捜し続けていたのだな」
「そう、そうです。絶対大物につながっているといって聞かなくてな」
そして易者は親兵衛に手を合わせ、拝みはじめた。
「あの男、新当組が笑いものになったのをえらく気にしていた。それで貴殿にどうしても手柄を立てさせたいといつも話しておった。今夜も絶対探しに行ったに違いない。相手が待ち伏せしている所に。どうにか、見つけて助けてやってくだされ」
「行き先に心当たりは」
「ない。ないが」易者は懐から袋を取り出した。「明かりはないか。とりあえず占ってみる」
あきれたような顔をした勘吉に親兵衛は、「三平という男の顔を、存じているか」と尋ねた。
「ええ。髪の毛の真っ白い、がっしりしたじいさんでしょう」
「そうだ。すまないが、昨日は紺屋町の向こうの長屋を歩いていたはずだ。あのあたりをぐるっと見てきてくれんか。いなければ役宅に戻っておいてくれ」そう言って古田が小遣いを渡そうとすると、
「めっそうもない。それより、うらぶれた長屋を回ればいいんでしょう。心当たりをいくつか見てきます」と、勘吉は夜道を軽快に駆けていった。
親兵衛が持ってきた提灯を頼りに、易者は線の描かれた小さな茶托のようなものを出して、米粒のようなものをその上でつまんでぶつぶつやっている。
「いかん、心気が落ち着かん」
「易者どの、焦らずに」
「分かっております」ようやく汗びっしょりの顔の前に茶托を掲げ、「東南」と言った。
駆け出そうとした親兵衛を「ちょっとお待ちを」と制すると、今度は多角形をした白く短い棒を何本か持ち出した。
「これはわしの師匠が編み出した、急ぐ折りの占いでな」と、手の中で振ってみせた。
うやうやしく手を開き、「水」と言った。
「この国はどこも水路ばかりだが」親兵衛の言葉に「それもそうだ」もう一度こね回す。「灯り。水の中に灯り。船町の灯台かな。そういえば古いほうの荷揚げ場をくさいとか言っていた。寂れたままの建物がいっぱいある。あれは確か」易者と親兵衛は顔を見合わせた。
「東南の方角だ」夜道を飛び出した親兵衛を易者は必死で追いかける。
船着場の付近にたどり着き、名を呼びながら三平を捜していると、髭もじゃの顔がちら、とのぞいて目配せした。あたりを伺いながら親兵衛はその顔の近くに身体を寄せた。
「なにか、知っておるな」
乞食の老人は、「探してるのは、あの白髪のじいさまかね」と小声で尋ねた。「そうだ」
「あっちに行ったけど、変な奴らも見かけたような気がする」そう答えて老人はすぐ引っ込んだ。しかし、指だけを出して行き先を教えてくれた。その方向には古い商家や倉庫あとなどが並んでいる。親兵衛は草むらに小銭を投げ入れると、駆け出した。
易者がようやく廃屋にたどり着くと、親兵衛は地面に膝をついて三平を抱きかかえていた。暗くてよく分からないが、白髪頭はぴくりとも動かなかった。
「遅かったか」はやくも泣き出した易者に、親兵衛も悲しみをこらえる顔でうなずいた。
「襲ったのはひとりではない」
着物はところどころ切り裂かれていた。暗いので血がどのぐらい出ているのかはわからない。それでもあたりに血のにおいが漂っていた。
「苦しんだでしょうな」
「うむ。ただ、死んだのは胸をひと付きされたためだろう。手慣れた相手だ」
地面に三平の亡骸を降ろし、親兵衛は手でまぶたを閉じた。易者は近寄り、手探りで三平の手をとると、また泣き始めた。
親兵衛は立ち上がり、瞑目すると彫像のように動かなくなった。灯りのない廃屋に易者の泣き声だけが聞こえる。
墨のような闇が二人を取り囲んでいる。
その闇の中で、白光を放つかのように親兵衛の目が開かれた。
ふいに振り返り、躓いたかのように身体を低くしたまま滑り出ると、闇に向かって刀を振った。
「ぎゃっ」
獣のような叫び声がして、なにかが落ちる音がした。彼は追撃し、ふたたび刀で闇を斬った。今度は堪えるようなうめき声が数秒続いた。しかし易者が派手な悲鳴をあげ手前に転び出たので、親兵衛はいったん動きを止めた。
さっきまでの気配は一散した。
「逃げたか」彼はつぶやいた。
怯えた顔の易者が、首からさげた道具袋からちびたろうそくと火打道具の一式とを取り出し、震える手で火を付けた。やがて草むらの中に腕が一本、落ちているのがわかった。細長い刃に木製の柄をすげたものを握りしめている。
「これで、三平を刺したのかな」
「かもしれぬ」
親兵衛はまだ、抜刀したまま厳しい表情であたりをうかがっていた。
「少しは供養になるでしょう」易者は三平の亡骸と、切り落とされた腕を交互に見ると、どちらにも丁重に手を合わせた。
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