第24話 涌井、親兵衛に指南を求める
二十四 指南
世間はヒマではない。寺での一件など数日経てば忘れられるだろう。新当組同心、涌井・一宮の淡い期待は、残念ながら大きく裏切られた。
寺から盗んだ犯人と思しき連中が、その金をこれ見よがしにあちこちへばら撒いたためだ。
朝起きると長屋の井戸に、小さな稲荷のほこらの上に、あるいはとりわけ貧乏そうな家の戸の前に、いくばくかの銭が置かれてあった。そのうえ丁寧なことに、寺で頒布される札を模した紙や木の皮で包んであり、ごく簡単な趣意書もあった。
生臭坊主がぼろ儲けした金の一部を還流する。気にせず使え、云々。
「置いた銭はごくわずかなのに、どれだけ手間を掛けるんだ。バカじゃないのか」と叫んだ一宮同心の意見には、誰も耳を傾けてくれなかった。
当然この銭については、あいつは貰っておれは手に入れ損なったとか、早起きした誰かが他人の分まで盗った、等々の人々の心をざわつかせる問題が多発した。銭を置いた連中には、そこまでは面倒を見る気はなかったのは言うまでもない。
それより、運良く金を貰った人々と、貰わなかったが銭を恵まれるほど貧乏ではないと思うことのできた人々の中から、義賊と褒めそやす声が起こった。
また、貰いたくても貰えなかった人々も当然、今度同じことがあったら絶対に金を手に入れたいと願い、続きを期待して犯人の行為を支持した。これら一連の騒ぎの中で出所が詮議され、寺での一件は広く知れ渡ってしまった。
ついでに、なぜか役人がそれを見落とし、ご丁寧に盗まれるのを手伝いさえした噂も囁かれるようになった。不幸なことに、一部の詳細な噂の中には、間抜けな役人の所属は新たに設けられた盗賊方だったらしい、との注釈がついていた。
一宮同心はまたしても、「盗んだ金は千を超えるはず、撒いたのはほんのごく一部の鼻紙銭ほどではないか」との正論を大声で唱えたものの、同僚たち以外には少しも顧みられることはなかった。
それどころか、井戸端で、商家の店先で、河川の荷物寄せ場で、白昼堂々大金を盗み出した快挙とそれに手を貸したどじな役人の話が、目新しい話題が生まれるまで繰り返された。これこそ本当の富札だ、などというどこか不自然な台詞が一緒だったのは、噂の出所たる煙一味のやり過ぎだったのかもしれない。
当の新当組には初日のうちに噂が届いた。
ただし、組頭たる三浦図書も二人の与力も、話の内容より広がり方を怪しんだ。明らかに誰かの悪意が働いている。そして、手を貸した同心二人の失敗については、宮部が苦笑しながら注意しただけに終わった。ただ、その温情が涌井にとっては針のむしろのように感じた。
暗い顔をして、床入りするまでため息をつき続ける涌井に、父母は心配そうに声をかけるが、何か返事する余裕は、彼にはなかった。
あれほど熱心に取り組んでいた外回りも、いまでは、
(だれかがうわさをしている)と、びくびくするための舞台でしかなかった。
涌井は長い猫背をさらにかがめ、歩くようになった。ため息ばかりが出る。
「おお、これは涌井殿ではないか」
夕暮れ時だった。堀端をうつむきながら帰途についていた涌井は、突然の声に顔を上げた。
太って顎のまるい顔と狐のような細長い顔が、にやにやこちらを見ていた。どちらも涌井よりも随分背が低い。先手組にいた頃の先輩でたしか菅原と室田といった。
組に涌井がいたのはごく短い期間であり、この二人に親しく指導された経験などはなかった。彼らの武芸の腕前についても聞いたことはない。
もしかすると五年ほど前、新設された新当組へと異動する際、張り切った口調で挨拶したかも知れないが、涌井はまだ十代の見習いであった。その少年らしくほほえましい行為に対し、当時抱いた気持ちをいまだに腹中であたためていたとは、涌井自身には考えもつかないことだった
かつての先輩がわざわざ声をかけてきたのは、もしかすると父親同士に彼の知らない縁があったのかもしれない。とっさにそう思った涌井が丁寧に頭を下げると、菅原が彼へにじり寄った。
「貴公も大変だな、せっかく背たけを買われてすばらしい組に選ばれ、温泉に浸かっっているかのようにゆったり日々を過ごしていたかと思えば、この忙しさ」
すると室田が、涌井を見上げながら言葉を引き取った。
「聞いたぞ、聞いたぞ。張り切りすぎて、賊に手を貸したとか」
菅原はすかさず「これ、なんということを」と諌め、それより山での大捕り物は、ずいぶん働かれたそうではないかと早口で言った。そのまま涌井の返事も聞かず、
「そうか、山に行かずこちらで留守番でもしていたのか、そうか、そうか」と、自分の脂ぎった額をぴしゃりと叩いてみせた。
「せめて、あまりに立派な上役様の顔を潰さんよう、努めに励んでくれよ。かつての先輩からの頼みだ」
「いやいや、その通り。そうそう、あの碁石みたいは与力様お二人にもよろしく」
ひとしきり下手な掛け合いを見せたら気が済んだのか、「お勤め、ご苦労にござる」と言うや二人は、笑い声を響かせて去っていった。
「なんのこった」 取り残された涌井はそう呟いてから、「しかし、うまく言うな」と微笑んだ。碁石とは、日焼けした宮部と色白の古田を評したらしい。
なるほど、二人はよく一緒に行動し、飽きずにいつもおしゃべりをしている。
「新当組を面白くないと感じているものは、多いようだな。それは抜擢されたおれも同じだ。気をつけよう」と自分に言い聞かせ、また歩き出した。
ただ、内心の感情の波立ちは抑えられなかった。
泣こうとしても、思うように涙すら出てくれない。
喉の奥からおかしな声だけが出た。
彼はいったん、家の近くまで戻った。そしてふたたび取って返し、中士身分の家々が多く集まる轡町へと向かった。
「剣の腕を磨きたいということだが」
着替えを終えて客間に入ってきた古田親兵衛は、穏やかな表情で涌井の顔を見た。
「貴公は日夜だれよりも修練に励んでいると、つねづね宮部殿から聞き及んでおる。わたしにできることはあまりないように思うが」
(しかし毎日お会いしてはいるが、あらためてじっくり見ると、あの奥様と、まさにひな人形のようだ)用件と自分が男であることを忘れ、しばし涌井は見入った。
涌井が訪れたとき、親兵衛は所用のためにまだ帰宅していなかった。出てきた妻女は、やけどの跡があるとかで小さな頭巾で額を隠していたが、彼を客間に通すと、突然の訪問にも嫌な顔ひとつせず待たせるのを詫びた。
思いやり深そうな声音のみぎわに菓子を勧められるまま、涌井はつい訪問の理由を説明してしまった。戻って顔を出した親兵衛には、すでにその始終が届いていた。
座に着くと親兵衛は、出された芋菓子が残っているのを目をやった。
「わたしは酒があまり得意ではなくてな。おぬしは辛いものの方がいいか」
「いえ、お気遣いなく」
すぐに食事の用意ができると、優しい声が奥から響いた。みぎわ夫人のことは、ときどき宮部が人柄を褒めるのを聞いてはいた。だが実際に会うと、柔らかな笑みをたたえた口元は形良く、目は賢げに生き生きとして、若い涌井にはずきんさえ神秘的に感じられた。
ずいぶん前、彼の妹がまだ幼かったころ、どこで聞いたのか「轡町のお化け屋敷」という怪談話を持ち帰ったことがあった。その家には昔、やけどで苦しみもがいて死んだ娘がいて、ときおり二目と見られぬ恐ろしい顔で外を恨めしげに眺めているのだという。
話の中身より、妹の話を聞いた母親が、それまでの記憶にないほど激しい口調で叱責していたのをよく覚えている。その気の毒な娘というのは、もしかするとみぎわ夫人のことだったのかもしれないが、噂というのはまったく、信じられないほどあてにならないというのを涌井は実感した。
二目と見られぬどころか、これまでに会ったどの女性より、好ましく思えたからだった。
(俺にも、こんなお方がきてくれないかな……)
生きるか死ぬかの剣の道を尋ねにきたのに、そっちが気にかかる。
正式にではないが軽く打診のあった縁談について、先方が引っ込めたと聞いたのはおとついの晩だった。例の失敗が噂となって、相手方にまで届いたとは、彼にも容易に見当がついた。
先に粕漬けの鮎と、酒が出てきた。
「今日は正月みたいに豪華だね」上機嫌な親兵衛が言うと、
「お人聞きの悪いことを」みぎわは涌井の方を見て笑った。彼より歳上のはずだが、笑顔はまことに愛らしかった。
その気になればさぞもてるだろうに、女遊びとは見事に無縁で毎夕なにやら土産だけは持っていそいそと家に帰る古田の日ごろの愛妻家ぶりも、無理からぬことと納得した。
「粗末なものしかないが、折角まいったのだから少しつきあってくれ」
親兵衛は微笑んだ。そして涌井に酒を勧めながら、
「先手組にいたなら、どなたか師についたのではないのか」と尋ねた。
「はい、幼少のころより溝口木斎先生の門に」
「ほう、お名前は存じておる。たしか、先年みまかれたのではなかったか」
もとは他国者の彼も、組太刀中心の品格ある稽古で知られた溝口道場のことは、聞いたことがあるようだった。
「二年前、先生が亡くなられてからは自分なりに稽古を続けてまいりました」
師のいないところで自分をいじめた息子が後継者になったので、道場に顔を出すのはやめた、とまでは正直に話せなかった。
「木剣を振ったりはしておるのか」
「はい、槍、振棒をそれぞれ三百ほど遣ったあとは、藁で作った人形を左右からうち……」と、涌井は毎朝の稽古内容を説明した。
だが、心気を錬ると称して、ときどき狭い庭に掘った穴の中で寝て、妹から嫌がられていることは省略した。
「それだけで十分ではないか。筋でもいためたら、やすやすとは治らんぞ」
親兵衛の方はそう答えながら、あれがいつもぼんやりしてるのは、稽古のし過ぎのせいだ、と話す宮部のしぶい顔を思い出していた。
「しかし」涌井は一番言いたかったことを伝えた。
「この間、拙者は少しも賊に気づくことなく、あまつさえ手伝ってしまいました。私のせいで組の評判さえ落として」
「まあ、向こうも気配を隠すのが仕事だからな」親兵衛は軽くあしらった。
「それに、不審を感じ追いかけようとしても、今度は足が上手く前に出てくれません」と、涌井は食い下がった。「なぜなのだか自分でも判りませぬ。あの折に、弓さえあればと、思うばかり」
「弓」そう聞くと、親兵衛は眉をあげた。
弓なら四つのころから稽古しておりましたと、涌井は説明した。彼の家は元来、初代藩主によって置かれた先手弓組という独立した組に属していた。太平の世へと変わり、祖父の時代にはついに整理対象となって、技の稽古を条件に先手組と馬廻に分散収容されてしまった。
父の時代はまだ鷹狩りなどに動員されたりもしたようだが、このところはすっかり忘れられてしまった、と涌井は自分の口調が父の愚痴に似てきたのを自覚しつつ説明した。
「いや、夜伽のおり森村老から聞いたことがある」親兵衛は勘定方の古手の名を挙げた。
「軽装で半弓を手に勇ましく駆け回り、幾度も初代の窮地を救ったとか」
「そうです、そうです」涌井は大声を上げたのに気づき、面を伏せた。
みぎわと年配の女性が持ってきてくれた膳を前に、親兵衛はしばらく考えているようだった。
「しかし」涌井は言った。「今の職務では弓など持ち歩く訳には参らぬのは、私にも判っております」
「ふむ」
「いえ、正直に申しますと、弓も父祖に比べると子供のような技量にございます。刀も弓も、どうも拙者を嫌っているようです。稽古をすればするほど、遠くへ行ってしまいます」彼の告白を聞いた親兵衛は、意外にも笑い出した。
「そのようなことはない、刀はあくまで道具。あちらがお主を嫌ったりはせぬ」
「そうでしょうか」
「とはいえ、つりの上手が竿をあつかうように、考えず遣えるまでには多少の時間がかかる。向き不向きもあるな」
とまで言って、悲しそうな顔の涌井を気の毒に思ったか、
「わしにうたを吟ぜよと命じたら、大変なことになるのと同じだ」と変な慰め方をした。どこかで女性の吹き出したような音がした。
「古田様はいったい、いかなる修行を積まれたのでございましょうか。竹刀打ちが足らぬのでございましょうか、それとも喧嘩でもしたら肝が据わるのでしょうか。この間の夜盗退治は、たとえ死んでも先発隊に入れていただくべきだったと、いまになって後悔して眠れませぬ」
親兵衛は、必死の面持ちの涌井を見つめ、
「そうだな。いろいろと、やったな」とつぶやいた。
そして、急に膳に気がついたように、
「まあ、食え。決して悪くはないぞ。わたしなど毎日夕餉が楽しみでならぬ。楽しみがあれば稽古も精が出る」と言った。
「はあ」と元気のない返事に、
「宮部どのには話をしておく。明日、昼からわたしについてこい。見せたいものがある」
そして、ようやく目を輝かせた涌井に、
「刀を振り回すのではないぞ。必要なのは、別のことのようだ」と、釘を刺した。
翌日、日課の修練を少し抑えめにして出勤した涌井は、はやる気持ちを抑えられないまま親兵衛の後ろをついて回った。
しかし期待とは裏腹に、昨晩の予告通り昼までの彼はひたすら事務仕事をこなすだけだった。
役所での親兵衛はいつも忙しそうだ。着席したとたん書類に目を通し続ける彼に、朝のうちから古巣の勘定方からの客があった。あちらの仕事の助言をもらいにきたらしい。その後本務に戻ったと思ったら、昼前には神妙な顔をした組の多兵太を座らせて話を聞いていたので少し驚く。
国では足軽身分とされる多兵太は、組では「付廻り」と呼ぶ役目についている。簡単に言えばお頭や与力など役付きの従者である。なんだろうと耳をそばだてていると、義理の弟とのもめ事の相談なのがわかった。少し前に亡くなった彼の父親は金網細工の内職で知られ、小金を残したのがいけなかったようだ。親兵衛は遺産の分割について助言しているようだ。
それが終わるとまた本務だ。なるほど、書役の二人よりさらに仕事がはやい。これは集中力が桁外れなのだと感じた。
ようやく、昼も遅くなってから親兵衛は、
「供をせよ」と命じた。外に出ると、どんどん歩き続ける。宿場町を抜け、寂しい道にきた。これは人目の届かぬ所で指南かと緊張する涌井に、親兵衛はくるっと振り向き、のんびりした口調で、
「そういえば、涌井はまだ嫁をとらんのか」と、尋ねた。
「先日の失敗で、話が一つ、なくなり申した」
「それは、思いやりのないことを聞いたな」
またしばらく黙って歩き続けた。
「ここだ」と、指差したのは古い寺で、先日の大侑寺とは似ても似つかぬ寂れた風情だった。慣れているのか、出てきた若い僧が親しげに通してくれた。
本堂の脇にある部屋は、薄暗かった。目が慣れてくると壁や扉、そして天井にも一面風景画が描かれてあった。竜虎や寒山拾得といったものではなく、ほとんどが季節の花と木々で、ところどころ兎や鹿、鳥がいた。
「まあ、膝をくずせ」親兵衛は言って、あぐらをかいた。
「これは…」涌井が見上げると、
「たまたま、知ったのだ。いまのご住職も、誰がどのようなきっかけで描かせたのか、ご存じないそうだ」
そして、あぐらをかいた腿に手を置くと、
「ときどきこうやって絵を見ている。このごろは外回りになったので増えた。わたしは国でも絵を見せてもらうのが好きで、正直言うと仏の姿より花や鳥、森や海の方がいい。あの兎などかわいい。家内もそう申していた」
とにっこりした。
「奥様も来られたのですか」
「うむ。あまりに気に入ったので見せたくてな。しかしここらでは妻と同道して寺に参ることなどないのだな。驚かれた」
「お国ではよくあることですか」
「うん、女の強い国でな」と、言ってから、「しかし父がそんなことをした覚えはないな。一族ではわたしだけか」と、首をひねっている。
「ここで座禅をせよということでしょうか」と涌井が尋ねると、
「いや、座禅も良いが、座ってても、寝てても構わぬ。心気を鎮める呼吸をしながら、己の中をのぞき見るような気持ちでいればいい」
「それで、強くなれるのでしょうか」
「強くなれるかは分からんな。ただ、こうしていれば、時に気持ちと身体が、一本のように繋がることもあるということだ」
「はあ」
「実際の山野に入るのも良いが、人の描いた絵もまた、すばらしい。このようなすばらしいもののうちに身を置くことは、頭で思う以上におのが五体に影響がある」
「はあ」
「人の心はな、涌井。おのれが気づいているより、もっと広く深い。阿頼耶識という言葉は知っておろうが」とまで言って彼の顔を見た親兵衛は、「まあ、いいか」
「はあ」
「とにかく、広大な心のそのすべてをうまく操るのはまことに難しい」
「はあ」
「見ている己、聞いている己は、ただの船頭に過ぎない。五体を惜しみなく使おうとすることは、いわば大きな舟に一人で乗り、荒れる海を渡ろうとするようなもの。稽古で数をこなせば、舟は勝手に動くようになるが、肝心の船頭がおびえたり怒ったりすれば、すぐあさっての方へ行く。悪くすれば舟はひっくり返る」とまで言い、涌井がますます混乱したのに気づいたようだった。
「すまん。言いたいのは、考えすぎずにときどき頭を空にしてやるのも大切だということだ」
「わたくしに、できるでしょうか」
「誰でもできる。昨日、わたしの昔の修行について聞いたな」
「はい」と涌井が身を乗り出すと、それには直接触れず、
「いまのお前よりもっと若かったわたしは、相手がいつ自分を斬ってくれてもいい、その方が良いとさえ思っておった。そういう時はなかなかやられないもので、手足も自在に動いてくれる」
だがな、と続けた。「いまのわたしは、常に家に帰りたいと思う。帰ればつまらない話でも真剣に聞き、心配をしてくれる者もいる。さっき嫁取りのことを聞いたのはそのせいだ。わたしもこの歳になって、変わってしまった。これは幸せなことだが、弱みでもある」
「そうでしょうか」
「昔のわたしと、いまのわたしが斬り合えば、まずいまがやられるだろう。死にたくないからな。それで、ここへきて余計な考えを頭から取り払おうとしているわけだ」
「しかし」と涌井は叫ぶように聞いた。「先日、山で瞬く間に野武士四人を切り伏せられたと一宮から聞きました。まさしく鬼神のようだったと」
「あれは、昔の名残で身体が勝手に動いただけだ。他にもっとやり方はなかったのかと、いまも悩んでいるのさ」
「身体が勝手に動くようなりたいのです。せめて笑われないよう、働いてから死にたい」
涌井の決死の顔を見、ふふ、と親兵衛は声に出して笑った。
「死にたいと騒ぐやつほど長生きする。まあ、ご住職には話をしておく。たまにここへきて座っていればいい。身体は十分以上に動かしているのだからな。心気の落ち着く場所で心のさざ波を、おとなしくさせることも大切だぞ」
「はあ」まだ気のない返事をする涌井に、
「もちろん、身体を痛めつけるのは稽古の過程として大事だが、疲れさせるばかりでも、悪い癖がつくだけだ。いずれにしろ王道はない。騙されたと思って、しばらく試してみてはどうだ」
「わかりました。しかし、さきほど今が弱いとおっしゃいましたが」
「うん、なんだ」
「それでももし、あのおやさしい奥様に狼藉を働くものがいれば、たとえ古の宮本武蔵でも、ちゅうちょせず古田様はお斬りになるのではないでしょうか。きっと昔より強い」
しばらく親兵衛は真面目な顔をしていたが、すぐまた笑い出した。
「そうだな。二天公に歯が立つとは少しも思わんが、その意味ではいまの方が必死になるだろうな。一本とられた。お前の勝ちだ」
そして親兵衛は、天井の一角を指差し「あそこに鳥が描いてある」と言った。一羽の鳥が、羽をたたんで風の中にいるような絵だった。
「ああなりたい、と思って気に入っていたのだ。だが家内は、あの鳥は寒いのでうつらうつらしている怠け者だろうと言う」と、腕を床に着けた崩れた格好のまま、じっと天井を見上げている。涌井も(そうだ、一番強いのは奥方様だ)と思いながら、同じようにその姿を見ていた。
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