第21話 みぎわ、宮部家を見舞う

 二十一 見舞

 

 宮部家の台所の脇に、小さな部屋があった。

 長年にわたり家の主みたいな存在だったおかつ婆さんが使っていた部屋だったそうで、婆さんが亡くなってからは、もっぱら雪乃が占有しているのだという。

 みぎわはそこで彼女と、持参した菓子を前に話し込んでいた。

「そうそう、弘庵先生の跡目はようやく、ようやくよ、ご長男に決まったそうなの」

 と、雪乃が教えてくれた。

「これで落ち着かれますね」

「ううん」雪乃は渋い顔をして首を横に振った。「まだ油断しちゃだめ」

 弘庵とは土居という姓の学者で、諸国を遊学したのち中年を過ぎてから名を成し、ここ十五年あまり藩校の責任者を勤めていた。親兵衛をこの国に呼び寄せた張本人でもあった。中気で倒れ長く患っていたが、ついに半年ほど前に亡くなった。

 彼の家族の協力が得られず、結果的に親兵衛の仕官には役立たなかったものの、その善意に感謝した夫婦は見舞いや葬儀には過ぎるほどの品を送っていた。


「今度は、お嫁さんと奥様がまたおかしくなったようなの」と、雪乃はしぶい顔をし続けた。土居家は弘庵が倒れた後、家督を継いだ長男と学者として売り出しつつあった次男の間に後継者の座をめぐるごたごたが続いていた。

 先ごろ、ようやく次男に他国の世嗣の侍講としての口がかかり、なんとか格好がついたようだった。しかし今度は、いったんは次男の嫁憎さで手を結んだ長男の嫁と未亡人である母親との間で諍いが再燃し、離縁するのしないのという話になっているという。ただし事態は嫁に有利となりつつあるらしかった。

「みぎわさんも、しばらく近づいちゃだめよ」雪乃は首を振りながら言った。昨日、履物屋の前で未亡人に捕まってしまったのだと言う。

「逃げよう、逃げようとした私ですら半刻の刑よ。貴方だともっと長いわよ、間違いなく」

 夫同様、雪乃はさまざまな噂を正確につかんでいたが、独特の見識があり不必要なことは口にしなかった。人を批評するに際しても実感に基づいており、みぎわは信を置いていた。みぎわ夫婦と土居家との微妙な関係もちゃんと理解していて、相手に余計な情報は与えないようにしてくれているのが、分かっていた。

 廊下から子供の咳が聞こえた。

「ごめんなさい、長居してしまって。坊ちゃん、寂しいのではありませんの」

「とーんでもない。厠に行っただけよ。昨日からまたご飯をもりもり食べ出したわ」

 

 宮部家を訪問した本来の目的は、宮部の息子の風邪見舞いだった。八歳になるその子は喉が弱く、よく熱を出して寝込んでいた。

 今回は四日ほども寝たままと聞き、気になって様子を見にくると、話相手の欲しかった雪乃に大喜びされ、彼女の隠し部屋に引き入れられたのだった。

「そうそう、これを」みぎわは包みからいくつかの品を取り出した。みぎわの用意した飴や果物とは別に、あす見舞いに行くと伝えると夫の親兵衛が、

「子供は、こんなものは気に入らないかな」と、どこからか取り出してきたものである。宮部との会話にいつも登場する息子の病気は、彼も気になるようだった。


 ひとつは、小さめの絵双紙であった。人ではなく子狐があちこちを旅して回るといった内容で、彼が寺子屋の師匠をしていたおりに手に入れたものらしい。

「まあ、息子が大喜びするわ」雪乃は満面に笑みを浮かべた。そして、

「でも、ご主人はお優しい方よ」と、褒めてくれた。

「見た目は涼やかで人の泣き笑いなど気になさらない風だけど、実は男には珍しいほど情のある方じゃないかしら」

 それを聞いて、みぎわは少し俯いたまま、うなずいた。彼女も内心そうだと思っていたからだ。

「うちの主人など、ありえないわ、こんなものを見繕って下さるなんて」

「それと、お嬢様にも」みぎわは別の包みを取り出した。弟にだけ土産があったら、二つ上の姉が悔しがるだろうと、渡されたものだった。

「まあ、ますますもってそうよ。でも、面白い物ね。良いかしら、触らせてもらって」

 雪乃は興味津々といった感じで、中から出てきたふたつの人形を手に取った。


「もちろん、どうぞ。古い物のようですけど」

 人形は、土を素焼きにした上に、鮮やかな彩色が施されている。一つは赤い着物を着た、なにか包みのようなものを持った幼い女の子の姿だった。もう一つは髪が茶色く、青い不思議な服が描いてあった。

「いいえ、まったく汚れてないわ。よほど大切にされてたのね」

 雪乃は大事そうになでたり、裏返して見たりした。

「でも、良いのかしら。こんな珍しいものいただいて。娘より、私が欲しいわ」と、人形を丸い自分の頬に寄せにっこりした。

 それを見たみぎわも微笑むと、

「かなえさんにも、気に入ってもらえると、うれしいのですけれど。昔、主人の兄が留学先から持ち帰ったそうです」

「あら、お兄さんがいらしたの。やっぱり、男前なんでしょうね」

「それが」親兵衛の兄は、秀才として将来を嘱望されていたが、生まれ故郷の御家騒動に巻き込まれ、若くして命を落としてしまっていた。

「まあ、そうなの。お気の毒に。ご兄弟並ばれたら、さぞ華やかだったでしょうね。でも、お兄さんの思い出の品ではありませんの」

「いえ、亡兄もずいぶん子供好きだったようで、供養にもなるから、ぜひかなえさんに貰っていただくよう押し付けて参れと命じられましたわ」

 二人は声を合わせて笑った。


「でも、本当にご主人は優しいわ。それで宮部もずいぶん変わりました。あの歳で」雪乃は可笑しさを堪えるように言った。

「そうなのですか」みぎわが驚いた顔をすると、「うん。このごろぽつりぽつりと仕事の話をするようになって。前は人の悪口しか聞かせてくれなかったのに。主人の片言から察するに」雪乃はいたずらっぽく声をひそめた。

「古田様に危ないところを助けていただいて、その折にもっと妻子を大事にしておけばよかったと、後悔したらしいの」「まあ」

「人は四十を過ぎても変わるものよ」雪乃はみぎわに大きくうなずいてみせた。


「でも、主人も少し変わったみたいです。役替え以来」

 今度はみぎわから言った。

「あらそうなの、どのように」

「先だって、夜盗を追って山向こうの村に出向いたらしいのですけど」

「うん、うん、宮部も同道したようね」

「そこで、庄屋の息子さんと村の後家さまの逢い引きを見てしまったそうで」

「ええっ」

「どちらも見目良きご様子で、それが人目を忍んで深刻な顔をして苦しんでおられたとか」

 雪乃は思わず吹き出した。「そうなの」

「古田もまた、腕を組んで『どうすればいいのか、わたしには分からなかった』と、悩んでおりました。主人の口からそのような話を聞くのは初めてで、わたし驚いてしまって」

「それは、絶対」雪乃は断言した。

「宮部の悪影響よ。そういう話、大好きだもの」

 二人はまた顔を見合わせて、今度は大笑いした。

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