第14話 盗賊改、初の大捕物
十四 出動
東須磨寺という寺は、四代ほど前の藩主の側室の肝いりで建ったと伝わる。寺の多いこの国ではとりたてて古刹ではない。手入れが悪くて古びて見えるだけだ。近在の大商人の娘だったというその女性は、夢のお告げと称して本堂とは別に湖沼に面したお堂を作らせた。
いま、宮部源次郎が月明かりを頼りに歩くのは、そこに向かう小さな道である。
あたりは見事に葦で覆われていて、見通しはよくない。
「気をつけられよ」と宮部は先を行く古田親兵衛に言った。「踏み外せば足が水漬かりですぞ。野袴が濡れれば、重たくなって後が大変だ」
「お気遣いなく」六尺棒を持った親兵衛がくすぐったそうに返事した。年下のうえ、荒事には無縁そうな彼のことが、宮部は気になってならないようだった。
「宮部殿こそ、町方ではこのような手入れはずいぶんと」
「いや、賭場の手入れなど同心どもにまかしておりましたな。ましてや芦原を水漬かりになりながら歩くとは。はは、お頭のお心遣いにはいたみいります」
夜の中に本堂が小さく見えている。窓は閉め切られているが、光が漏れている。察するに、内側は相当に明るいに違いない。
「盛況のようですな」
「さすが寺方、こちらがはずれ側とよっく分かっておったのだな。寺社の作りには詳しいからな」と、宮部は寺社方の今回の責任者である武田の青白い顔を思い浮かべた。
主な仕事が各種の調整である寺社奉行には、故実や手続きに詳しいのはいても強制捜査を実行できる戦力は持っていない。
ここ最近の取締強化の流れに乗ろうと、奉行が目に余る賭博場の手入れを決断したものの、彼も部下も高張り提灯を掲げて突入した経験などない。なにより捜査に挑む覚悟だってあいまいだった。寺の関係者も含め片っぱしから捕まえるのか、ただの客なら説諭にとどめるのか、奉行自身にすら答えはなかった。
さすがに無責任すぎる奉行の態度は執政たちから問題視され、とりあえず目についた者は全員捕縛することと決まった。しかしそうなると人手がいる。当てにされた町奉行所はいち早く多忙による手不足を言い立てたので、新設の新当組にまわってきたというのが実情のようだった。
「はは、町方の連中も上手く押し付けましたな」宮部は言った。「とはいえ、うちの若い奴らには良い経験になりましょう。木場の五郎八が来ておれば、なお良いのだが」
今夜の手入れは、若手に経験を積ませるのが目的のため、表口からの突入は外回り同心たちに任せ、二人は裏手からの支援を受け持つことにしていた。
五郎八というのは、十年ほど前まで付近を荒し回った盗賊の通り名である。すでに六十近いはずだが、間違いなく重犯罪者である。この一年ばかり、ここの寺をはじめ二、三の賭場で似た顔を見るという情報が寄せられたのが、取り締まり決行に踏み切った大きな理由である。
「気をつけられよ。思わぬところに深みがあるやもしれぬ」
「ありがとうございます。気をつけます」
宮部のお節介に、闇のなかで親兵衛の白い歯が光った。
「なにか先にあるようだが」宮部が立ち止まると、
「葦に舟が隠してあります。それも二はい」親兵衛が闇を透かして言った。
「おうおう、悪党どもの船着き場か。手入れがはじまれば逃げてくるかもしれぬ。五郎八もな。そうなれば拙者と離れないようになされよ。見栄をはることはござらぬ」
「分かり申した」
二人は並んだまま、しばらく本堂の方の様子をうかがった。
「涌井が張り切っておりましたな」
「まさに。手甲鉢金も物々しく、あれでは博打打ちどもは驚き大急ぎで逃げましょう」
声を潜めて二人は笑った。
「かの男は、長く武者人形のごとき扱いを受けておりましたからな」と、宮部が言った。
長身の涌井は、立ち姿が美しいという理由だけで新当組に配され、ついこの前まで祭礼や葬儀などの行事に藩主のうしろを付いて回る役ばかり命ぜられてきたのだった。
「島は、あまり心根を表に出さない男ではございますが、あれもあれなりに期すところがあるようで」
今度は親兵衛が言った。島もまた相撲取りのように大柄で、涌井と同様に五年ばかり護衛とも飾りともつかない中途半端な役回りに甘んじていた。
「あいつらを、上手くのせるのも、わしらのこれからの努めでござるな」
「いかにも」
しばらくの間、じっとふたりは闇に本堂を透かし見ていた。そのうち、どこからか音が聞こえた。
「さっそくはじまったかな」「そのようで」
古田が声をかけた。
「拙者は舟の近くに身を潜めておりましょう」
「お願いする。わしは」と、宮部はきた道を戻り出した。「ちと、見てくる」
遠くからの轟きは、ふいに止んだ。宮部は近道をしようと一歩踏み出して、
(ちっ、しまった)足先を泥に突っ込んでしまった。
踏み固められた道を求めて足元を探る。
その時、爆ぜたような音を聞いて動きをとめた。しばらく耳をすませて様子をうかがう。
月が隠れて周りがよく見えない。宮部は急ぎ膝をつき、腰からぶら下げた龕灯に火をつけようとした。
また音がして、鼻の先に何か突然あらわれたのを感じた。
ぼんやりわかるのは、眼前に黒くて大きな塊があって、その後ろに小さな影があることだった。どちらも呼吸をしている。
月が出た。するとさっそく影の正体が分かった。
無精ひげを生やした大兵の侍だった。あまり夜に会いたくない面構えである。
「何者か」
誰何する宮部の顔を、ひげ面は月明かりでじっくり眺めた。
そして不意に笑いを浮かべると、剣を抜いた。ちらっと後ろを向き、隠れていた小柄な老人にうなずくと、剣を八相に構え威圧しはじめる。自信に満ちて、とてつもない凄みがあった。
剣の腕前はいまひとつの宮部にも、押し寄せてくるものすごい殺気はわかった。(こいつ、松竹梅なら間違いなく松だ)
剣術は竹以下かもしれないが、悪党慣れしている宮部にはっきり感じられることがあった。相手は命のやり取りになれていて、人殺しにも抵抗はない。
脂汗ばかり出て、刀を抜こうにも指がこわばってしまっている。
(しまった。さっそく運の付きか)
やけくそで、手に持ったままだった龕灯を投げつけた。だが腕に力が入りすぎていたのか、地べたに落ちてしまった。龕灯の転がる派手な音だけが響いた。
「フン」ひげ面が馬鹿にしたような鼻音を鳴らした。
(万事窮したな)
あまりの腕の差に、そばにあるはずの沼へ飛び込もうにも膝はがくがく震えるばかりだった。
なぜか、日ごろあまり大切にした覚えのない妻子の顔が浮かんだ。
(くる前に顔を見ておけば良かった。古田どのが無事逃れられると良いが)
すでに負けたつもりの宮部の心が分かったのか、ひげ面は口元を楽しそうに歪め、大また距離をつめてきた。
そのとき、やさしい声がした。
「助太刀つかまつる」
二人の間に影が割って入った。親兵衛だった。
彼は持っていた六尺棒を足下に投げ捨ててしまい、ひげ面に向き合った。
ひげ面は八相構え、親兵衛はまだ腰の刀に手をかけたまま。抜き合わせてすらいない。
(いかん、斬られるぞ)
宮部は汗に濡れた目で二人を見たが、状況は予想とは逆であった。
親兵衛が居合い腰となり、相手の間合いに一歩踏み込むと、ひげ面は三歩しりぞいた。
剣客同士の勝負は、にらみ合った瞬間すでに決していたようで、今度は浪人が脂汗をたらたらと流すのが夜目にも分かった。さっきの余裕たっぷりの笑顔など、どこにもなかった。
(これは……)
その直後、ばちばちと弾ける音がした。どすん、ぼちゃんと派手な音が続く。
そして、いっせいに罵声が湧き、それとともに大勢の捕り手が葦を押し分けて殺到し、あっという間にあたりは騒然となった。
人が逃げる人を追い、あちこちで葦に引っかかってこけた。のっぽの涌井も、なぜかその大勢の中から頭をのぞかせ、「ああっ、宮部様」と叫んだ。
隙をとらえてひげ面は一人水面に飛び込んだ。大きな水しぶきが上がった。
小柄な老人が、慌てて後を追いかけようとしたが、捨ててあった六尺棒を宮部が投げつけると、足をもつれさせて素っ転んだ。
「お見事」親兵衛が嬉しそうに言った。
後には口汚く役人たちをののしる小柄な老人だけが残された。
老人は、町方の牢屋に護送されてからも、「高い銭を払ったのに」と、用心棒の役立たずぶりをののしり、まわりを辟易させた。
古い人相書きに似た顔があったので詳しく調べると、鳥越の九兵衛という半ば引退状態にあった盗賊の頭目だったのは人々を驚かせた。昔は関八州一帯を荒らし回り、それと知られた凶盗だったという。
盗賊としての格?は五郎八ごときよりよほど上で、後に遠路はるばる江戸から役人が引き取りにきて、寺社方も新当組も大いに面目を施した。
宮部はのちのち、捕り方たちの灯りに浮かび上がったひげ面の最後の表情を思い出していた。彼を威圧した時の自信などどこにも見当たらず、さながら猛禽類に目をつけられた小動物のように怯えていた。
九兵衛によるとひげ面は、元は江戸の大きな道場で師範代までつとめた名うての剣客であり、身を持ち崩してあちこちで用心棒稼業を重ねていたということだった。
伝え聞いた宮部が、「やくざ者であれ役人であれ、歯向かったものは皆ひどい目に遭わされていたそうですぞ」と親兵衛に感心してみせても、相役はいつもの控えめな口調のまま、
「左様でしたか」と言っただけだった。
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