第11話 みぎわと女子会
十一 女子会
美弥が朗らかに笑うのを聞くと、古びた部屋がぱあっと明るくなったように感じられる。彼女は新当組組頭三浦図書の室であり、大柄な夫とつりあいが取れるほどすらっと背が高く、翳りがない。
(いやみがなく、とても華がおありだ。三浦様が執心されたというのも無理からぬこと)もともと彼女に好意とあこがれを抱いている古田みぎわは、その思いをいっそう強くした。
夫と同じ組与力である宮部源次郎の妻である雪乃も、同じような気持ちなのだろう、隣で屈託なさそうに笑っている。話題は世慣れた風をよそおう夫たちの頼りなさ,くだらなさについてであり、おそらく夫たちは今ごろ、くしゃみがとまらず難儀しているだろう。
みぎわが美弥と打ち解けて話すのはこれが三度目である。前回までは三浦の屋敷にみぎわらが招かれる形だった。その折の緊張を見て取ったのか、今回は風邪見舞いへのお礼を理由に、彼女からみぎわの住む役宅を訪ねてきたのだった。
雪乃も子供らを親に預けてすぐ合流し、いまは美弥のお付きであるきわと四人で、菓子と茶を前に時間も忘れて話が続いている。
国元では指折りの名門である三浦家の妻女と親しく話すなどとは、せいぜい百石の中級藩士の家に生まれたみぎわにとって、よほどの機会に恵まれないと難しいことだった。夫たちが直属の部下として図書に選ばれ、仕えるようになって急速に距離が縮まった。
勘定方からの役目替となった夫の心境はともかく、みぎわは、
(三浦様にも、雪乃さんにも親しくしてもらえて、本当にありがたい)と、素直に感謝していた。明るさと思いやりを兼ね備えた二人と交流できることは、若い頃から家に閉じこもりがちだったみぎわにとって願ってもないことだった。また、二人にとっても、世間ずれしたところのないみぎわは、かまってやりたい妹のようだった。
盗賊討伐という現場仕事の長に、将来の藩政を担うとも目される図書がついたことは、内外で多少の憶測を呼んだが、現藩主が進める改革の一環という説明がなされた。
計画はかなり前から水面下で進められており、図書や中老の平野など主立った面々は、江戸在勤のおり、懇意の若年寄に図って当時の江戸町奉行や火付盗賊改方長官、あるいは彼らに付く与力などから直接任務の話を聞く機会を得ていた。
ただ、桁違いの規模を持つ大都市である江戸の話を、小国にとうていそのまま当てはめられるものではない。古田や宮部が与力に抜擢以来多忙な日々を送っているのは、短期間で江戸のための仕組みを規模十数万石の国に落とし込むという難題のためだった。だが、もっと困ったのがその妻たちである。
仕事の流れについては、三浦が決めた大筋に従い、犯罪捜査の経験豊富な宮部と事務管理能力に長けた親兵衛がやりとりしながら、徐々に形を見いだしつつあった。しかし男たちはあまりに大雑把過ぎる、と妻たちは不満だった。
彼女らの夫たちは批判する。町方が、事件の捜査を各地の番屋に任せ、実行力を伴わぬ書類のまとめ役となって久しいことを。一度既存の仕組みを解きほどき、組み立て直すことが必要なのだと。しかし、それはそうでも、実現には膨大な雑事の集積と見直しを要する。それをおろそかにして大事が成せようかと、妻たちは首をひねる。
たとえ家老や目付、他の組が納得しても男たちの見積もりは全く不十分であった。みぎわの記憶に残った例では、いまどきの町方では誰も野袴など穿かないが、新番組はどうするのか。あるいは頻繁に小者達に終夜番をさせるなら、その夜食は誰がどれほど用意するのか。さらにその家族への、節句の見舞いは現金の方が良いのか。
際限のない些事の波に根を上げた図書は、妻である美弥に泣きついた。名門の出身者は鷹揚だが些事は概して苦手である。美弥もまた、教えを請う相手もなく、ある日意を決して雪乃とみぎわに相談を持ちかけた。宮部はともかく、代々が勘定方の家に生まれたみぎわにとっても、畑違いの問いに上手な返答ができるわけではなかったが、遠くからあこがれを持って見ていた美弥に困った顔をされると、つい身分を忘れて相談に乗ってしまう。
古びた役宅に美弥を迎えるのは恐縮だったが、彼女自身、
「わたくしの実家は、奏者番の筆頭など承ってはおりましたが、いつも余裕がなくて。客間以外の畳など何年も変えられなかったものです」と笑い、むしろのびのびしているように見える。さらに、どこもかしこもまるまるとして、強面の夫とは大違いに見える雪乃が、実は腹の据わった、なかなかの見識を持つ人物だったのもありがたかった。
噂では汚職の疑いをかけられた夫の行動について、聞き合わせにきた目付の不用意な発言に抗い一歩も引かず、ついには謝罪させたという。年下のみぎわを見くびらず、美弥に対しても必要以上にへりくだらない。それでいて、問題を掻き回すこともなく、あくまで三人で考えるという姿勢を崩さない。
(江戸にまで名の知られたという宮部様の活躍は、この奥様があってこそだ)と、みぎわは雪乃を見るたび、かくあらねばという気持ちになる。
今日の議題は、妻たちにとっても大きな問題である勤務着についてだった。国では、町方は溝鼠のような地味な色の羽織に袴姿が不文律となっている。では、新当組こと盗賊方ではどうすべきか。
みぎわは、夫から聞いた江戸での話を伝えた。
「ご府内では黒い羽織に袴も着けず、小さなまげを結った侍が、中間を連れて悠々と歩いていたそうです。怪しんで近くの方に問うと、あれが町方役人だと」
「まあ袴は着けないのですね。毎日の手間が楽でしょう」と、美弥が町ものの妻のような感想を述べると、雪乃の方は、夫も江戸に行ったはずだが、
「あいつらは付け届けがすごいんだ。気に入らん」としか言わない、と嘆いた。
また雪乃は、汚れの目立たない暗い色が良いのは当然ながら、町方がそろって陰気な色を着させられるのは、実は気がふさいで嫌だったのだ、と漏らした。
すると美弥は、一度夫に銀鼠を勧めてみようかと思う、呉服屋を呼び本人に選ばせるとすぐ似合わない茶色や檜皮色で済ませるので不満である、と言った。きわが横で吹き出した。
さらに二人ともみぎわの方を向いて、古田様のような涼やかなお方だと、なにを着ても似合うことだろう、と声を合わせて彼の夫を褒めそやした。
しばらくすると当然話は脱線し、十手ひとつ決めるのに二ヶ月もかかった夫どもの悪口になった。町方役人たちは、ただの小さな丸棒である十手を、ふくさに入れるなどして持ち歩く。一方、重犯罪対象の新当組では、威圧感を与えるため江戸の盗賊改のようなカギ付きの大ぶりなものにすべきではないかとの議論が、兵具方を交え延々と続いたのだという。女たちはこれを馬鹿にして、実に気持ちよさげに笑ったのだった。
みぎわは、楽しげに話をする美弥の姿にまた見入った。彼女は、色は白いが間近で見ると決して絵に描いたような美貌ではなく、鼻など少し曲がっている。
だが品があって姿がよく、全体から明るい雰囲気が寄せてきて好感を抱かせる。聡明で人への観察眼があるのに、育ちの良さからか悪し様に言わない。このあたりが、茫洋とした雰囲気ながら、なみなみならぬ人物とも評される三浦に愛されているのだろう。
美弥と彼女の夫とは幼馴染みで、一度は他家への輿入れが内々に決まっていたのにもかかわらず、留学から帰国してそれを知った三浦の必死の懇願で一転、彼に嫁したとされる。
世の中のことはなんでも分かった顔をする男どもは、上士の家中でのこれらの話を実はほとんど知らない。一方、年の近い女たちは、誰もがひそかに耳にし憧れたものだった。
(もちろん、私の話もご存知だろう……)と、夫のしかめ面をまねしてみせる雪乃のしぐさに笑いながら、みぎわは考える。
篤実な勤務だけを家風に代々めだたず騒がず過ごしてきた古田の家も、三年ほど前には家中の女どもの関心をさらった。
それは長男だった弟の十郎が急な病に倒れ、ついには亡くなったことよりも、みぎわが川向こうに住む浪人を養子に迎えて家を継いだことにあった。
彼女はもう長い間人前に姿を見せていなかったし、夫は夫で他国者という言葉が似合うなぞめいたところのある人物だったからだ。なにより、やけど以来二十五にもなって嫁にもいかず、家に籠りきりだった彼女の話題は、とっくに噂好きの間の定番となっていたはずだった。
それでも十代のうちのみぎわは、外に出ようとしたこともあった。だがある日、「化物屋敷」と家が呼ばれているのを知り、以降すっかり外出の気が失せた。彼女の部屋には書き写した本ばかりが増えた。
夫となった親兵衛は、亡兄の知人だったという儒者の土居弘庵から、熱心な誘いを受けこの国にやってきたのだった。その直後に土居は倒れ、ろくに口もきけない有様となった。あまり仲が良くないという土居の家族には、はじめて会う他国者の世話をする気も余裕もなかった。
はしごを外された格好であったが、夫はどこが気に入ったのかこの国に足を留め、百姓町人の子供を相手に読み書きそろばんを教えていた。親の身分や収入で態度を変えたりせず、誰にでも懇切丁寧という姿勢は好かれていたらしい。ただ、それ以外に近くの話し好きな町人たちの間においての関心は、もっぱら彼の容姿に向いていた。
雛には希な、という言葉がぴったりの端正なたたずまいから、さる大店の家付き娘が付け文を渡したとか、粋筋の女性同士で恋のさや当てが行われたとの噂まで広がった。
親兵衛との話が持ち込まれた折は、突然でもあり己の姿も重々承知していたので、みぎわ自身に相手の容姿へのこだわりなどなかった。というより正直なところ関心がなかった。
(穏やかな人であれば良いが…)とだけ思っていた。
ただ、彼女の忠実な擁護者たるいしは、事情はともかく見合いがあまりに急すぎると、いたく不満げであった。得意とする噂の収集にあたる時間が無かったためであろう。
朝にきて夕べの顔合わせを望んだ水町の隠居に、せめて明日にと答えさせたのもまた、いしであった。
まだ沢村と名乗っていた親兵衛が訪れるころには、早々に家で待ち受けたうえ、まずこの目でお確かめいたします、と、密かに門前で張り込みまで行う始末。
厳しい顔つきで、
「薄汚い痩せ浪人なぞ…」との独り言を残し出て行った彼女に、みぎわはひどく不安を感じたものだった。
だが、ずいぶん経ってから戻ってきたいしは、なぜか魂の抜けたような表情をして、「無事お着きになられました」とだけ、ぽつりと言った。
そして、彼女を気遣わしげに見ていたみぎわに気づくと、なにを思ったかいきなり、
「お嬢様、お召し物を変えられませぬか」と言い出した。
「これ以上、お待たせできませぬ」みぎわが首を横に振ると、
「せめて紅などお付けになりませぬと…」と、今朝までとは全く逆のことを口走ってみぎわの化粧を直しはじめた。
そんな騒ぎの中で初めて会った親兵衛は、
(お寂しいのだろうか…)との印象をみぎわに与えた。
確かに、髪を結いあげ、借り着だろうが上等の羽織に身をつつんだ姿は堂々として、よどんだ家にひとしきり爽風が吹き込んだようだった。ぽかんと口をあけた父の横で水町老は、それ見たことかとでも言いたげな表情を浮かべていた。
しかしみぎわには、彼が秀麗な容姿にも関わらず、うちに多くの悲しみを抱え、懸命にそれに堪えているように思えてならなかった。
その印象が強かったせいか、
(あのようなお顔立ちに恵まれた方にとって、醜い私は受け入れがたいはずだ)
とも思えてきた。
それは、はじめてお互いが顔を合わせたとき、ずきんをかぶったままのみぎわを見た彼の目に、かすかな動揺の色が走ったように感じたからでもあった。
婚礼直前にみぎわは、思い切って自分の口と耳で確かめることにした。ずきんを外し彼に向かい合い、単刀直入に自分のやけどの跡をどう思うかと尋ねた。
親兵衛は鳶色の瞳でまっすぐに彼女を見ると、 「老女を救おうとされたと聞き申した。勲に存じまする」と、穏やかな口調で話した。
その表情にうろたえたみぎわが、 「それでも無理は長く続きませぬ。正直にお話しください。先だってはわたくしに驚かれたのでございましょう」そう言いつのると、今度はやや赤みの差した白い顔をうつむかせ、
「昔見知ったさる方に、とても似ておられたので」とつぶやくように言った。
このようないきさつを経て無事家督相続がまとまっても、弟と父に対する悲しみが胸をふさぎ、結婚生活に期待など抱けなかったみぎわだった。だが、夫となった親兵衛はすぐに彼女にとってかけがえのない存在となった。
勘定方での働きぶりについては、聞く所では文句の付けようがないそうだった。
父は死ぬ間際にようやく、年若い弟の死は、歴代藩主が使い散らした奥向き予算の帳尻合わせに苦しんだためだ、と悔しそうに娘に教えた。見習いとして出仕していた弟は新藩主の命に応じ、先輩と誰もが放置してきた過去の遺漏だらけの帳簿見直しに取り組んだが、一年半を経てもそれが少しも進まなかったことで胃の腑を破り、死を招き寄せた。
水町の隠居がもったいぶりながら教えてくれたところでは、親兵衛もまたその仕事を引き受け、半年ばかりでこれにめどをつけ、平然とその手柄を同僚や上司に譲り渡してしまったという。夫は、弟の努力があってこそ素早い解決がかなったと喜ばしてはくれても、自慢をしないのでそのすごさがわからなかった。
むしろ、夫の仕事をめぐってみぎわが嬉しく思ったのは、異動が決まってから、出入りの商人らが小宴を張ってくれたことである。
役所では不快な扱いを受けることの少なくない彼らが、日ごろの夫の思いやりある態度を徳として集まってくれたのが分かったからだ。宴は下戸の親兵衛に合わせ、昼間に開かれた。
また夫の転出に最後まで反対したのは、勘定方組頭その人であったという。自分の跡継ぎ息子の能力に不安を抱き、後ろ盾としての親兵衛を熱望していたのだ、と水町老はまた我がことのように彼女に自慢した。
一人暮らしが長かったためか、家での夫は手間がかからなかった。仕事が終わればまっすぐ家に帰ってくる。晩酌もせず食事に口うるさいことも言わない。まったくの下戸で、どちらかといえば甘党であった。
みぎわにとって忘れられないのは、例の女どもの鞘当てについての話である。
夫が心の中で大きな場所を占めるにつれ、気にも留めなかった噂話が頭を離れなくなった。悩んだ末、彼女はついに何気ない風を装い夫に問うた。冗談めかしたはずが、みぎわの声は震えていた。
しばらく長いまつげをぱちぱちさせていた夫は、
「近所の者に連れられ、音曲を教授するという女性と一度昼餉を共にした。京都で修行したとのことだった」と答えた。彼女はいつわりなく美しかった。ただ、せっかくの会食は、
「どうにも私の話が面白くなく、興ざめさせてしまった」そうだった。気候の話が終わると、すぐに話題に窮した。それで、「この国から出たさる算学者の偉業を、少し長く喋ったのが怒らせたらしい」とも言った。
いかにもな展開に安堵して、思わず声を出して笑った妻に親兵衛は、
「長屋の大家にも笑われたのだ」と、情けなそうな顔をした。
確かに夫は、粋やはやりものに対する趣味や理解は欠けているようだった。美的な感覚がないのではなく、世間の感覚と多少ずれている。
彼はたまに、面白い人だったという亡兄のことを話してくれる。その人は、粋どころか洋学に関心が深く、ついには家を継がずに医学を学んで医者になりたいとだだをこね、父親を困らせた。
兄を語る時の親兵衛は、いつも楽しそうだ。容姿と抑えたもの言いから、心がつめたいと見られがちな夫は、実は内に人よりも多くの情愛を隠し、それが溢れ出るのをいつも恐れているのではないだろうか。次第にみぎわはそう思いはじめていた。
ただ、夫には彼女だけが知るもう一つの面があった。毎朝払暁までには床を離れ、庭の隅で棒や槍、刀を手に一人稽古を繰り返す。それは実に激しく、念入りであった。まぎれもなく夫の本質は太平の世にひっそり暮らす武芸者であった。さらに、職務や剣術を人並み外れた集中力でこなす夫から、理屈ではなく感じることがあった。彼はどこかで心に深い傷を負ってこの国にたどり着いた。その傷と、何らかの罪の意識を、癒そうともがいている。それを思うと、出来過ぎともいえる日ごろの振る舞いについて、欠けた部分が補われる気がした。
「古田様、みぎわさま」
「はい」つい自分の考えにとらわれていたみぎわに、雪乃が話しかけていた。美弥もくすくす笑っている。
「一度、そろってお寺まで紅葉狩りにまいりませぬか」
「それは、ぜひ」
「西寺など季節になれば、さぞや綺麗になると思います」
「夫たちには、もちろん黙っておきましょう。焼きもちを焼くでしょうから」と雪乃が厳かに言った。女たちは声を合わせて笑いながらうなずき、またにぎやかに話し続けた。
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