第10話 盗賊、盗賊改にはじめて会う

 十 感応


「川に坊主に、馬のくそ」--これはその昔、ツキに見放されたようなこの国で我が物顔をする存在を総称して、当時の重職が腹立ち紛れに吐いた言葉とされる。河川の氾濫はやまず、街道は荒れ放題。寺と坊主ばかり栄えている-- 。

 百年が過ぎたいまでは、河川は念入りに整備され、馬の落とし物は速やかに回収後百姓へと送られ再利用される。ただ、寺が大きな顔なのはそのままだ。

 

  藩祖の霊廟へ向かう通りは、昔もいまも藩主が公私ともによく使う道として、専用の散歩道のようなものだった。その一角にある長徳寺は、五代ほど前の藩主の声がかりで建てられ、この国の寺の中でも際立った存在である。

 武家好みの質実で力強い印象の建物は、長い石畳の先にあり、行き着くにはフジツボのようにはりついた小さな店を超えて行かねばならない。創建当時はいざしらず、いまの寺全体が醸し出す雰囲気は、ひどく俗であった。

 境内にもお守りなどのほか菓子や茶、竹細工、甘酒を出す店まで並んでいる。これほどの店の数の割に客引きが控えめなのは、裏で寺が細かく口を出しているから、というのはだれでも知っていた。当然ながら地割りや場所代なども、寺の人間が差配している。

 景気が上向いてからはずいぶんと強気な額を割り当てているらしいが、役所側で寺を管轄する寺社方は、しぶい顔をするにとどまっている。それは寺の最高責任者が、現藩主でさえ軽々しく批判できない僧であるせいだった。その人物は狷介でも気難しくもなく、むしろその逆、娑婆っ気がたっぷりのおしゃべり坊主だった。


 その日は一の日の祭礼にあたり、昼過ぎの門前はいつもにも増して人が歩き、埃っぽかった。ひとびとが楽しげに歩く中にうつむき加減の男がいた。

 堅気風の身なりだが、すでに五十に近い顔の眉間にはしわが寄り、ときどき不機嫌そうにあたりに目をやる。巾着切りにしても目つきが悪すぎる。彼に気づいた多くの参拝客は目を合わせないようした。

 しかし宿場町でもあるため人波には田舎侍も大勢混じっている。そのうち、鼻の頭を赤くした男が一人厳しい顔をした男に、

「おお、今日は良い日和であるな」と、馴れ馴れしく声を掛けて、この男から返った視線の鋭さに黙って歩き去った。

「ちっ、田舎者」

 その男、中野の金兵衛は小さく舌を鳴らすと、寺の境内の中に入りあたりを見回した。

 最も空いている茶店を選び、店の前に置かれた縁台に座り込む。

 待ち人は、それほど経たずに現れた。

 三人のお供を連れ、身なりのよい侍が境内のすみを歩んでいる。ゆったりと大柄な骨格の侍は、頬は丸みを帯び、眉は太いが柔和な印象の顔をしている。歳はどう見ても四十には間がある。

 金兵衛は、気づかれないよう注意しながら観察し、ひとり感想を述べた。

「なんだ、まるきり世間知らずのお殿様だよ。心配して損した」

 

 お殿様の連れの一人は五十を過ぎて見える中間風の男で、もう一人はずっと若く二十歳そこそこだろう。侍もいた。こちらは先ほどの立派な侍に比べるとほっそりして見える。衣服も刀のこしらえも簡素で、顔立ちは笠に隠れ、よくは見えない。

 それでも金兵衛は、せっかく来たからと四人が建物に消えるまで見ていた。

 ただ、お付きの侍もまた、笠の中から彼をじっと観察していたことには気づかなかった。


「やあ、お役目のこと、驚きましたぞ」

 挨拶もそこそこに、この寺の住職、雲山は大仰な身振りで言った。

「新当組とは、確か大通院様がなにかの折に作られたままの組だったような」

「さすがご住職。森羅万象に通じておられる。物覚えもまた、すばらしい」と、三浦図書は大げさなお世辞を言ったが、口調がゆったりしていていやみには聞こえない。

 正式な着任の前に、かつては政策にまで口を出していたこの事情通の僧に挨拶をするのは、欠かせないことだった。

「まことに大儀。あなたほどの人物の望みに応えるには、まだ人が少ないようじゃが。なあに世間の評判があがれば、すぐにでも増やせましょう」

 城中での動きを、いらぬことまで実に正確に把握し、あまり隠す気がない。

 盗人どもの消息にこれほど通じたのがいれば、どれほど助けになるだろうと、図書は頭の中で考えた。


「かの大通院様も」雲山はかまわず先代藩主の話を続けた。

「民の楽しみを先に我はあとに、との思いは強い方であったが、なにせ落ち着きがない。朝に命じられたのを昼にはもう改められて、おまけに走り回ったご家来を罰せられることまであった。幾度かお諫めはしたが、あやうく髪を生やす羽目になるところ」と、禿頭をつるりとなでた。

「俊寛僧都になりたいかと脅して下さった。我が国に離れ島がなくてよかった。中州はたくさんあるが」

 図書は冗談をいなしながら、

「目下の任務はまず盗賊退治。賊どもの跋扈、目に余るものがございます。誰かがこれをたださねばなりませぬ」と姿勢を正した。

 対策に本腰を入れるからには、国の宗教界にも周知を図り協力を得たい、そのために真っ先にこの寺に向かったとふたたびお世辞を言った。雲山はそれを聞くとにこやかに微笑み、また図書の個人的な話題に戻った。


「しかし家名を継がれたあとは、まこと立派になられた。昔はほれ、時々神隠しにおうたように姿を隠されたな。一度、二年ばかり消えてしまわれて、少々ご親族方が慌てておられたのは、先代の在府のおりの話であったかな」

「その頃は、亡くなった兄が跡を継ぐものと思い、手前も親も気楽でござった」

「まあ、父上もずいぶん頭を悩ませておいでであったが、立派になられ、さぞや誇りに思っておられることでしょう。だが」と、雲山は首を少し突き出すような格好で言った。

「わざわざ組頭になられるとは。また、思い切られた」

 やはり職務の内容よりも、名門を継いだ図書が、一時にせよいわば格落ちの役につくことに、関心が集中しているようだった。

「左様でしょうか」図書はとぼけた。彼が盗賊取締に就くことは、かなり以前から現藩主を含む少数の人間で検討してきたことだった。さすがにそこまでは知らないようだと、彼はすまし顔を続けた。

 

 茶店の、外を見渡せる席に、怖い顔の男が腕を組んでじっと外をにらんでいる。人待ち顔に見えないこともないが、

「あれじゃ誰が声をかけるかよ。怖がって他の客が入れねえし」

 物陰から見ていた男が苦笑した。

 吉左だった。

 彼にははなから金兵衛に合図するつもりはない。あきれるのは金兵衛が、吉左の子分衆の誰かが顔を出さないか待っているような態度である。

 あんな絵に描いたような悪党づらに目配せでもされたら、それだけでもうこのあたりには来られない。

 ばかじゃなかろうか。いや、ばかだった。

 一方の吉左は、特に誰の目も引かない。寺とその周囲の雑然とした雰囲気に、自然と溶け込んでいる。背の高さを感じさせないよう軽く腰を落とし背中を曲げ、まさに衆に埋もれている。それに、男らしい顔立ちに下品さはなく、変な翳りや険もない。十分堅気に見えた。

 ただ、当人は腰ひくく目立たぬ使用人として見てもらいたくて、わざわざ配下の古着屋に命じて地味でややくたびれた着物を持ってこさせたのだが、独特の風格は隠せなかった。

 彼を知らぬ相手が見ると、まず使われる側より使う側と認識するだろう。それは仕方のないことだった。


(しかし、いやに大きくて立派な男だったな)

 これは、三浦図書への感想である。

 金兵衛はともかく、うわさの盗賊改の組頭の人相風体を自分で確かめるのが目的なのに、最接近してじっくり観察することはできなかった。気づかれることを嫌うあまり、図書一行との距離がつめられなかった。

 周囲から浮いて見えるほど風格のある武家なので探す人物はすぐ見つかったが、それだけだった。

 仕方ない。出てくるまで待って、もう一度近くで拝んでやろう。

 監視の素人ではないはずの自分が、なぜ失敗したかを吉左は考えた。

 明確には認識していなかったが、例のお殿様は、知らずに人を身構えるさせる風格だか剣気だかを発していたのかもしれない。

 ずっと前に、似た経験をしたのを思い出した。

 それも、ひどく恐ろしい経験だ。若い彼は、目をそむけたのだった。


 怖い顔のまま金兵衛が立ち去るのを待って、吉左は同じ茶店に入った。金兵衛の性格からすれば、二度とここへは立ち寄らないだろうし、悪相の男が消えると急に立て込んできたのでちょうどいい。それにここなら一行が出てくるのがすぐにわかる。

 出てきた小女に、先に多めの心付けを渡した。気前のよい渋い二枚目に、女は風のあたらない静かな場所へ案内しなおしてくれた。

 さっき寺の賄い方をこっそりのぞいたら、結構にぎやかだった。上客への準備が佳境に入ったのだろう。おそらく、お殿様はすぐには出てくるまい。

 持久戦の腹が決まると、吉左はさっき思い出しかけたひどい過去の記憶に、もう一度触れる覚悟ができた。


「紀六あにい。ここで、じっとしていてくださいよ、動いちゃだめだ」

 竹がそう言い、姿勢を低くして闇に消えた。紀六、すなわち若い吉左は仕方なく、言われるままに材木置き場の中に身を沈めた。置き場といってもごくささやかだが、闇に木の匂いがただよっている。

 とっさに避けたつもりだったが、伸びてきた相手の刀にひどく打たれ、うまく左足が動かない。幸い当てられた時に刃筋は立っていなかった。肉も骨も断たれてはいないが、かえって痛みは激しい。筋とか腱とか、内側がやられたようだ。

 (しまったな……)

 まさか、相手の手に持つ棒が仕込み杖であり、なおかつ剣の使い手とはわからなかった。


 彼はまだ十八で、竹は同い年だった。仕事は……まあ、盗っ人というのが一番近い。

 今夜は、因業な金貸しをしていると評判の座頭から、常に持ち歩いている金を奪い取ろうとして見事に失敗した。

 盲人である座頭 ―― ちゃんと最高位である検校の株は持っているらしい。よほど金を使ったのだろう ―― は、彦一といい、針医者としての腕そのものは悪くないとも聞く。とはいえ剣術が使えるわけではない。

 今夜、彼を先導していた護衛の男がやたら強かったのだ。

(竹のやつ、無理しやがって。大丈夫かな)


 竹は、彼のことを慕ってくっついてきた、いわばちんぴらである。ワルの大仕事、すなわち大掛かりな盗みにあこがれているが、別に腕っ節や度胸があるわけではない。

 たまたま、喧嘩を得意分野とする紀六が助けてやったことがあった。それ以来、彼のそばを離れようとしない。

 まだ人望厚い吉左になりきっていない若造の紀六は、せっかくの子分をかなり邪険に扱っているのだが、あにい、あにいとまとわりつく。

 それでいい気になって視野が狭くなり、油断したのかもしれない。

「てっ」そっと足を地面につけると、激痛が走った。

 引ったくりであっても、いちおう下準備はした。

 彦一は勤勉ではあるようだった。自宅に設けた治療所にいるだけではなく、不定期だが昼間と夜に外に出かける。多い時は一日二回出る。鍼を打つのか金を貸すのか、そのどちらでもあるらしい。だからいつも百両は持っているはずとされる。それを奪えばいい。


 しかし、しんそこ金がほしいのではなかった。業突く張りの金貸しを、悔しがらせてやるだけでいい。金は貧乏長屋に撒くのはどうだろう。そんなことを夢想して、楽しい気分になったのも、間違いのもとだった。

 悪口と一緒に聞こえてきた話では、彦一はお付きとして、白髪頭の老人を連れて歩く。用心棒として評判のいい強面で腕も立つ浪人もいるのに、そんな相手は連れて行かない。ただひとり、老人だけが連れである。夜に出る場合や、長い距離を歩く場合は彼が必ず一緒に行く。また、移動に駕籠を使う裕福な座頭は珍しくないのに、彦一はひたすら歩く。さえない座頭と白髪頭が、連れ立って歩くのはある意味で、近所の名物だった。

(へっ、ケチはケチなりに筋を通しているのか、それとも心底ケチなのか)紀六は心の中で嗤い、計画の実施を決めた。

 そして、闇を彦一が気にするかはともかく、人目にたたないし同行の老人も気がつきにくいだろうからと決行は夜を選んだ。

 彦一だけでなく、老人と一緒にいるところを確かめに行ったりもした。しかし、

「あにい、もっと近寄らないのかい。どうせあっちからは見えねえよ」と、一緒にさぐりに行った竹が言ったのに。

「いや、だいたいわかりゃいい。おれは目がいいし、これで十分だろ」と、遠くから一瞥しただけで、あとはよく使う経路を調べて事足れりとしてしまった。あとで、彼の内心が老人への接近を嫌ったせいだと理解できたが、ここでの手抜きもまた間違いのもとだった。

 遠望した連れの老人は彦一よりもまだ小柄だった。痩せていて歩き方も重々しくなく、すぐに蹴散らせそうに見えた。座頭と同じような杖まで持っているのは、昔の仲間かなにかだろうか。

 そう早合点して、納得ゆくまで確かめず、都合良く解釈した。


 だが十字路の手前で、彦一がたすき掛けにした頭陀袋を奪おうと、物陰から出て体当たりを仕掛けた紀六を、

「ふん、小僧。急ぎすぎだ」凄みのある声が迎えた。

 その瞬間、ふくらはぎに鋭い痛みが走った。転がりながら振り返ると、暗闇に老人がなにか光るものを持っているのがわかった。

「ほう、なかなかのものだ」彼は紀六が一瞬で体をひねり、致命傷を避けたのを褒めたのだった。仕込み杖の追撃も、とっさに二本の腕をつかって体を押し出し、間一髪避けることができた。

 しかしこれでもう打つ手はなかった。

 月明かりに浮かぶ老人の顔は、しわこそ多いものの、まだまだ精悍に見えた。目つきも鋭く、思っていたような頼りない年寄りではない。それに、小さな髷を結っているだけだったが、ようやく紀六はピンときた。

(こいつは、さむらいだ)

 それも、お城づとめの青白い連中ではなく、剣技を五体に染みつかせた男。

 あとになって半次から、微禄の侍の中には、出世にわずかな望みを託し死ぬ気で武芸を身につける奴がいると聞かされたが、その時は知らなかった。

 だが、只者ではないのは、全身が理解した。すさまじい気配が押し寄せ紀六の顔を打った。

 近づくのが不快と感じたのも、きっとこの男の放つなにか見えない力に、知らずに気圧されていたせいに違いなかった。

 その恐ろしい男が、転がり逃げようとした紀六に、仕込み杖を片手に立ちふさがった。

「にげろっ」闇の向こうから石が飛んできた。竹だ。

 老人はなんなく避けたが、

「ありゃ」とぼけた悲鳴があがった。「これは痛い。どうしましょう」主人である座頭にあたったのだ。白髪頭の剣客が、はじめて慌てた。

 竹はさらに石やらゴミやら棒切れやらを投げ、その隙にふたりは逃げ出した。

 向こうで「追はぎですか」と尋ねる声が聞こえた。明朗かつ平静な声だった。老人が手短に答えるのに、「声からすると、まだ若いでしょう。あまり手荒なことはいけませんよ。ちょっとかすっただけです」


 余裕のある声に苛立ちながら、紀六は逃げた。だが、しばらくするとどこからか、地面を擦るような足音が聞こえる。彦の一はどうしたのかわからないが、単身老人が追ってきたのだ。

 紀六に肩を貸していた竹は彼を隠し、どこかへ去った。

(でもあいつじゃ、じじいに歯が立たねえ)

 心配だったが、得意の逃げ足が使えないのだから仕方ない。

 周囲をさぐりつつ、川にでも逃げるつもりだった。ここは材木置き場だが規模は知れている。だがたしか、近くには貯木場もあって、大きな木を何本も水に浮かばせてある。水路だってある。舟でも奪えば、操船の上手い彼ならなんとか逃げ延びられる。

 しかし、希望はその時点までだった。


「おまえ、なかなか見込みがある」闇の奥から妙に説得力のある声がした。「惜しいとは思っているぞ。この場で斬るのは」

 仕込み杖の老人だった。

 ぞっとした。

「雇い主もお前を殺すなと言っている。そう、あの者はお前たちが思いたがっているような因業おやじなどではない。とりわけ困っている者にはな。世間の無責任な噂など信じるな。だが」彼は断言した。「残念なことに、おれはあの者ほど優しくはない。特にお前みたいな奴には」

 口の達者な紀六だったが、なにも言い返せなかった。

「たぶんお前は、生き延びたら懲りずにまた他を襲うだろう。そういうやつだ。体が盗みや荒事に向いている。毒草の根は断つべきではないか。そうだろう」

 脂汗がたらたらと流れる。それはそうだ。死を宣告されたのだ。

 

 度胸を決めて、声のする方向に手近な木切れを投げた。すぐ反対側に駆け出す。

「おっと」

 水の匂いのする方向へ、足を引きずりつつ走る。だが、速さが出ない。

 暗い水面が見えたと思ったら、そこに反射した月明かりが、目の前に立つ小柄な影を浮かび上がらせた。手に細い刀を握っている。

「小僧。暴れるな。暴れると、痛いぞ」

「くそっ」

 最後に飛びかかろうとした時、動物のようなほえ声がした。

 長い棒を振りかざした竹が老人に飛びかかったのだ。手に持った得物は舟の艪だ。彼も舟を探しに行っていたのだ。

「逃げてっ」

「竹っ」

 その瞬間、紀六はひどく悲しい気持ちになった。どうして、竹はこんな俺を慕うのだろう。

 おれはこんな冷たいのに。

 

 暗闇のなかでくぐもった悲鳴が聞こえた。

「むっ」老人が戸惑っている。

 どこかを刺された竹は、それでも老人を離そうとしなかった。

「逃げ、て」ひょろ長い体が、老人に手荒く揺すられている。もう駄目のようだ。

 落ちていた艪を掴んだ紀六が、振りかぶって殴りかかろうとすると、老人は竹に胴を掴まれながら、片手で刀を一閃させた。

 信じられないことに、太い艪がすっぱりと切れて落ちた。

 紀六は立ちすくんだ。

「あ、に、いっ」死んだかと思った竹が、もう一度老人にしがみついた。

 小柄な老人は、背だけは大きい竹を振り払うのに苦労している。

「くそ、邪魔だ、離せ」竹の頭はすでに俯くように下がっているのに、彼の体は老人の肩にしがみついて離れない。

 泣きながら紀六は、身を翻して水に向かい、飛び込んだ。


(竹、おまえ、逃げた俺をうらんでいるだろうな)

 風が吹いて、茶店の反対側にある竹林がざわめいた。

 吉左は黙ったまま、その音を聞いていた。


 美しい絵の描かれた茶碗から上等な玉露をすすると、雲山は続けた。

「実際の任にあたるは与力と聞きましたぞ。えー、町方から持ってこられたのか。江戸では先手組でありましたな、我が国では、あまりあの連中は……」

「多年、町方で与力を務めました宮部源次郎を、右の与力に迎えます」

「宮部、宮部」と雲山は額をつついた。

「うむ、聞いた名と思ったが、よくない噂と一緒に思い出しましたぞ」

「おそらく、それは金にからんだ噂でございましょうが、全くの誤解と、拙者は存じております」にこやかな顔を崩さず図書は言った

(さすがだな。ちゃんと宮部のことも知っている)

「かの者ほど適任はおりませぬし、人品もまた」と、図書は強調した。「決して懸念されるようなことはございませぬ」


「図書どのがそう申されるには、確信がおありだろう。拙僧がとやかく口を出すことではない。して、もう一方の与力も」

「左の与力は、勘定方から参った」

 と隅にいた親兵衛を手で差し招いた。

「こちらの古田親兵衛が務めまする。なにとぞお見知りおきを」

 あらためて礼をする彼の、白く端正な顔立ちをしげしげと見ると、

「なにやら小坊主どもが先ほどから騒いでおったが、なるほど、京人形のように涼しげな顔立ちであられるな」と雲山は言った。

 親兵衛は他人事のような顔をして黙っている。

「勘定方ならば、その、悪党どもが盗んだ金の行き先をつかむのであろうな」

「まあ、それもございます。いろいろ役に立ってくれるはず」


 いったん黙ってしわぶきを一つ。ようやく雲山は言った。

「ひとつふたつうかがいたいのだが」。

 人払いをしたいのだろう。肩を揺すってもじもじした。

 親兵衛が「ならば拙者は」と動きかけると、「よい」図書が止めた。

「新当組は、これまでの組とはまた異なる組にせねばなりませぬ。特に与力には、よほどのことでなければご一緒させていただきたい。それとも、よほどのことでございましょうや?」と、微笑みかけると、

「いやいやいやいや」雲山は手をバタバタと振って否定した。「お役目にかかわりあること。聞いてもらった方がいいかもしれませぬな」

 

 話のひとつは、賽銭泥棒を予防する手立てはないか、ということだった。

 このところ、道沿いの小売店も含めて少額をかすめとるケチな泥棒が絶えない。対策を希望したが、寺を管轄とする寺社方には捜査・逮捕を迅速に行う人員がいない。一方の町方は管轄違いを盾にあまり近寄りたがらない。

 ここまで聞いて図書は

(これまで、あなたご自身が口を出させないのを望んでおられたのでしょう)と内心で突っ込んだが、にこやかに黙っていた。

 寺では仕方なく近くの番屋に「それなりの」(と、雲山は強調した)付け届けを渡し、見回りをさせていたが、

「拙僧が言うのもなんではあるが、やる気の薄い年寄りばかりくる」と、雲山は嘆いた。

 そこで、

「三浦様と配下の方々に期待せざるを得ない」と言う。「いやぜひ頼りにしたい」

「それはお困りでしょう。急ぎ手立てを考えまする」

 

 もうひとつは、あちこちの寺で増加中とされる賭場の話だった。「これも人の性よと見逃してまいったが、このところ風紀の乱れが著しくいかにも見苦しい。一度、大きい賭場を新当組で取り締まっては、いかが」

 この国にひしめく寺々は、宗派や歴史的な経緯によって小集団ごとにわかれていた。長徳寺の属する一派は最大派閥でもあり、以前から賭場の開帳には否定的であった。テキ屋のまねごとや富くじやら、自分たちでかせぐ才覚を持っている彼らは、他の一派が最近よく行っている、賭博場に建物を貸して金を取るという発想自体を嫌っていた。

「承知いたしました。それについても寺社方とも打ち合わせ、早急に対策を図りましょう」

 すると、「これもまたつまらぬことながら」といいつつ、雲山は膝でにじりよって、図書の耳元に顔をよせようとした。こんどこそ本物の密談らしい。了解した親兵衛は下がった。


 雲山がささやいて寄越したのは、先日、久しぶりに柏屋の隠居が訪れてきた件だった。前回から十五年は経っているかもしれない。

 万事おおげさだな、と図書は思いながら黙って聞いた。雲山は弁解口調で話をはじめた。

「古いことながら、拙僧はかの者とはあまり……」

 柏屋というのは、先代藩主が壮年のころ、当時の執政と組んで国の財政を牛耳っていた大商人だった。執政の失脚とともに表舞台から去り、いまは息子に店と、ほとんどの事業を譲ってしまった。

 雲山とは一時つるんでいたこともあったが、藩主も臨席したある酒の出る行事の際、派手に仲違いして、以来疎遠になっていた。

 そのあとしばらくして、柏屋が御用商人の座を追われた際は、

「さすがは雲山。経を読むのは間違えても、先読みは間違わぬ」と、図書の父も感心しきりだった。

 柏屋の隠居は、なにか頼みごとがあったようだが、嫌な予感のした雲山は、居留守を使って断ったのだという。

 ただ、応対に出た僧には、気になることを言っていた。国境までの土地と道に詳しい者、あるいは信頼のできる運送業者を探しているのだそうだ。そんなあからさまな頼み方をする人物ではなかったので、ますます気味が悪くなってしまった。

「すでに心も弱っているのでしょう。隠し事の得意な男でしたが、軽々しく話すとは」

「また商売でも始めるのではありませぬか」図書は快活に言った。

「そこはそれ、われら役人よりこちらの寺におすがりしたほうが、各種の許しが出やすいと言うのは、あたりの商家の小僧でも知っていましょうからな」

「ご冗談を。あれほど権勢をほしいままにしたあの男も、もはや拙僧に頼るほかないのかと思えば、物悲しくも思えましてな」

 実際、国の内部なら雲山は、相手の身分職業を問わず顔がむやみと広く、公平な立場で人選をさせるにはうってつけである。ただ、柏屋はまだ息子が店を続けており、当然そちらの人脈があるはずだった。なにか息子に知られたくない理由があるのかもしれない。

「親子喧嘩の尻を持ち込まれるのも、困りものですしな」


 柏屋にからめて雲山が最後に話したのは、図書らの国と隣り合う藩についての噂だった。隣国の藩主の、一時は収まっていたはずの奢侈ぐせが、ぶり返したらしい。

 藩主は大藩の貴公子として生を受け、小さな所帯の養子先とは金銭感覚に大きな差がある。そのため、ごく若いうちは藩の台所を揺るがせる濫費をしては密かに騒ぎとなっていた。三十代になって落ち着いたと思われていたが、また剛毅な金遣いをやらかしたらしい。

 いったい、その金の出所はどこか。

 昔は本国とも、柏屋が一枚噛んでいるとも言われたが、詳しいことはつまびらかでない。しかし、こちらの国の景気が回復しただけにかえって気になる、と雲山はいう。よもや柏屋の隠居が、片棒をかついでいるのではないか。そしてもっと大事となるのではないか。

「盗賊方には直に関わりはございませぬが、これからは図書様も、こういった話題にもお詳しくなられるかと思いましてな」

「ははあ、お心遣い、いたみいります」

 

  たっぷりと菓子や果物などを出されていたのが、酒に変わる前に図書一行は寺を辞した。そのころには、ずいぶん日が傾いていた。外に出て、一度深く長い呼吸をしたあと、めずらしく長々と図書が嘆いた。

「しかし、ずいぶん昔から存じた方ではあるが、み仏の道どころか、ますます生臭道に精進しておられる。あれほどなんでも知っているというのは、あちこちに間者を入れているということではないか。我々も見習いたいもの」

「間者でございますか」親兵衛が微笑した。

「おお、そうだ」と図書が思いついたように後ろに向かって言った。「庄助、父上とここへよく来ていたのではないか」

「へえ。あのころは、いろんな人とここで出くわしましたな」

「どうしてです」と、若い先助が聞いた。

「そりゃ、みんなうわさ話が好きだからな」

 四人はまたゆるゆると歩き出した。

 その中で、ひとり親兵衛だけが、左手の竹藪に鋭い視線を送った。

 寺に入る前に感じたものとは全く違う。あれは粗暴な悪意に過ぎなかった。 

 しかし今度は、抑えた気配のその奥に、研ぎ澄まされた意識がある。


 隠れていたつもりの吉左もまた、衝撃を受けていた。

  (あの侍、おれに気づいている)

 急いで移動しようとしても、思うように足が動かなかった。吉左の身に備わった危険への警報が、鳴り響いている。

 相手がこっちに気づいて、次の動きを見ている。  

(もし奴が抜いたら、かかしのように切られちまう。昔出会った仕込み杖のじじいが可愛く思えるほどだ)

 緊張していると、ふいに穏やかな気配に変わった。

 気配は向こうから去ったようだ。

 思い違いなら、いいんだが。吉左は感覚を研ぎ澄まし周囲をさぐった。

 過去と結びついた恐れの感情が、敵を大きく見せているのかも知れない。

 時が経つにつれ、そんな感情が大きくなってきたが、彼は首を振った。

(いや、こんな田舎だろうが油断はならん。すごい奴だっている)

 鋭く吐いて呼気を整え、吉左は急ぎ寺をあとにした。


 一行が門前に近づいてから、

「古田」穏やかな顔は変わらず、図書が訪ねた。「気になることでもあったか」

  足を止めずに親兵衛は答えた「少々、おかしな気配を感じました」

「捨て置いてよいか」

「は。相手は一人かと」

「そうか。すでによからぬ輩どもに、我らのことが知れ渡ったのかも知れぬな」

  前を向いたまま庄助が口を挟んだ。

「剣客たあ、本当に困りもんだな」

「どうしてだ」と図書が問うと、

「俺らとは違うもんが見えるようだ」と、鼻をこすった。「 昔、先代さまを訪ねてきたなんとかいう名人は、後からくるはずの客の名を次々当ててな、そりゃぞっとしたよ。でも、あれじゃ名人先生のご家族は気が休まるまい」 

 親兵衛が言った。「それは、よほどの達人だったのだろう。わたしは耳が少々さといだけだ」

「ふーん、そんなもんかね」 

「許してくれ、この遠慮のなさはわしの子供の頃から変わらん」図書がそう弁解した。

「それで、その気配の元を見てくればいいのでしょうか」先助が意気込んで尋ねた。

「いや、もういない。どこかへ行ったのだろう」

  先助は振り返って、さっきの竹やぶにむけて目を細めた。すでに人影も何も無く、穏やかな風が吹いているだけだった。


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