第9話 過去の悪夢、未来への不安

  九 悪夢


 吉左は久しぶりに一番の嫌な夢を見ていた。

 ほんものの記憶よりも夢の中では陽射しが強く、木々の色も毒々しかった。

 晴れた日に街道の裏道を、まだ若い男が歩いている。彼とは違う男だが、骨組みはたくましく、身のこなしは軽快だ。彼の父親である。今夜の夢では吉左は死んだ父親になって、ずんずん道を歩いて行く。

 

 背中に背負った大きな荷物は、間もなく家と思えば重さを感じない。土産までは思うように買えなかったが、ひとまず家族がこの冬を超せるだろう。

川漁師だった父親は、不漁に悩むようになって行商に出るのを増やし、三年経ってようやく様になってきた。ほこりっぽい道を懸命に早足で歩く。もうすぐだ、この坂を越えれば、家族が迎えに来ているかも知れない。息子二人は、そろそろ戻りそうな時期になると、毎日街道を見に行って、手伝いをしないと女房が怒っていた。もうすぐだ。農夫や他の行商人風の男を追い抜く。もうすぐだ。吉左の動悸が早まる。じきに訪れる悲しい夢の終わりを知っているからだ。


 坂を上がると、平坦な街道と交差する。道沿いに木々が植えられた街道は、さすがに見晴らしが良い。なのに、何やら人が集まり、肝心の家のあたりが見えない。どこかの諸侯の行列がいかめしい顔をして道を占領しているからだった。大行列かと思えば、二本差しが十人ばかり、荷馬を取り巻きゆっくり歩いているだけだ。どこの馬鹿かと確かめようとする。

吉左の意識はやめろと父親に意見する。やめろ。

しかし、男は上背のある身体を、道脇に下がらされた農夫や旅人の間から突き出す。

ここまでは、楽しい帰り道だった。家に帰ったら、教えてやろう。仰々しい、変な行列があったぞと。

 父親はそして吉左は、しばらく行列が来るのを見ていた。鋭い子供の声がした。思わず、そっちを見る。いかん、見るな。道の向かい側に子供が二人。息子たちだ。年の割に大きい上の息子と、きかん気の下の息子だ。やっと会えた。少し大きくなったかもしれない。だが、男は真っ青になった。下の息子が、兄の静止を聞かず、人をかいくぐってこちらへ走ってくる。どうして、もっとしっかり止めなかったんだ。吉左は夢の中の自分を叱る。

 だめだ、行列を横切っては、だめだ、刀に手を掛けた侍が、子供を後ろから追って走る。侍も、引っ込みが着かなくなっているらしい。男は思わず自分も飛び出た……。


 暗闇の中で目を開いた吉左は、

 (しばらくなかったな。最後まで見てしまったのは)

 吉左が忘れたことにしている結末は、父と弟を斬った侍の荒い息や同僚たちのため息、そして沿道の人々の怒号の中で、自分が泣いている所まで続くのだった。

 長く見なかった夢をまた見てしまったのは、先日の襲撃で思ったより気が高ぶっていたせいかも知れない。吉左は枕元の急須から口に水を含むと、もう一度寝るのは諦めた。 


 宿屋の洗い場からは、城の外堀につながる細い川が目に入る。夜目のきく吉左には、いまぐらいの暗さなど、どうということはない。いやな夢を思い出さないように、人の顔も定かに見えない時間から吉左は一人外に出てみた。

朝の早い商売だけに、まもなく早い番の奉公人たちが活動を始める。その邪魔にならないよう、川のほとりへと足を伸ばした。

夜というより冷たい朝の冷気が漂っている。

ほおがひんやりして、吉左の気分を落ち着かせてくれる。目を閉じて、父親と弟が殺された記憶を奥へと押しやり、気の晴れそうなことを思い出そうとした。残念なことに思い浮かばない。


このところ、楽しい女にも旨い酒にもとんと縁がない。吉左は自分が清潔だなんて思わない。もとより、あまり真剣に欲していないのかもしれない。右よしには、

「お頭のいちばん下手なのは、気晴らしだよな」と利いた風なことを言われてしまった。

(わかってるさ)

自分だってそう思う。彼以上に組織に目を光らす半次も似たような気質の持ち主のはずだが、要領がよく気分の切り替えがうまい。洗い張りと称してときおり、休みはとっているはずだ。ただし、気がついたら彼の側に戻っていた程度の期間であるが。

 盗っ人なんて悩めばいい、とも思う。世間に顔向けできない稼業の、それも頭目だ。人様のものを勝手に盗んだ金で暮らしながら、気分良く過ごせるなんて、贅沢も贅沢、お天道様どころか地獄の主だってお許しにならないだろう。


 外はまだ明るさより暗さが優っている。しばらくの間、吉左は冷たい風が頬をなぶるに任せていた。

 その時、闇の向こうに気配を感じ、自然と吉左は身構えた。

店のそばの川には、流れに沿って川べりに細い道ができている。その先に、何かいる。足音が近づいてくる。音の間隔が狭いし、忍び足でもない。

(これは……)

朝が近づくにつれ薄れ始めた闇のせいではっきりわかった。子供が小さな荷を背負っていた。日の出を前に物売りにきたようであった。

「せいが出るな」声をかけると、子供は立ち止まった。男の子だ。闇に吉左の顔を見分けようとしている。

「なに、売ってるんだ」

「つけもの」男の子は、おそれる様子もなく返事した。

「ほう。貝売りなら朝は商売どきだが、違うのか」


 朝日がのぼる時分ともなると、宿の近くでも物売りが盛んに声をあげて歩いている。近くには川もあれば湖沼もある。貝類を扱う売り子は多く、生と煮物どちらも手に入る。

ただし、吉左らの宿はあまり良い客ではなかった。

支配人相当の左よしが商品化過程の不明瞭な物売りを嫌い、冷たく扱うからである。彼の、あまりにうるさく仕入れ先を峻別する態度には身内まで辟易しており、代表して右よしが、「お前さ、始末に困った『なにかの肉」を黙って売ったりしてたんじゃないの」と、からかったぐらいだった。


 男の子は吉左に対し、「ほかが沢山いるのに、同じはつまらない」と言い放った。

 悪びれぬその態度に、吉左は相手をまじまじと見つめなおしてしまった。薄暗い中にきかぬ顔が浮かんでいる。

「ふむ、そりゃそうだ」見せてみな、と吉左は言った。小銭ぐらいならある。

 少年は黙って担いでいた背負子から樽を下ろした。決して大きい容器ではない。子供にはほどほどでも、タライみたいに大きな桶を連ねたりする他の物売りに比べ、迫力がない。

「お前はこまいからだろうけど、ちょっと小さくねえか」

吉左がからかうと、男の子は首を横に振った。この程度の量が売れれば朝の目的としては十分であり、欲張って多く担いでも負担が多いだけであるそうだった。それに、すぐいたむ物ではないが長期在庫品を売りつけると思われるのは、「面白くねえ」

「へへえ」小さな体から出た大人びた意見に、吉左は感心してしまった。

樽の中身は味噌に漬けた野菜だった。いずれも小さいのは、くず野菜を集めたか間引き分なのだろう。

「ほう、味噌漬けかい」

「でも、あんたは椀がない」

 柄杓ですくって、味噌ごと売ることもできるそうだ。そのまま湯を注げば汁になる。

 「いいさ、樽ごともらおう」彼がそう言って肌付の金を出そうとすると、また男の子は首を横に振った。この先に、決まって買ってくれる客が二軒ばかりある。そこの分がなくなると困るというのだ。

 ついに吉左は笑い出した。まるで昔の自分のように理屈っぽい。

「お前、面白いやつだなあ」男の子は彼を見上げながら黙っている。


 笑い声を聞きつけ、吉左の宿で働く一人が顔を出した。こいつは堅気ではないので宿の周囲で起こる異変に敏感である。ちょうどいい。彼に命じて小銭と容器を持って来させ、それでも半分以上の味噌漬けを買い上げた。

 堂々とした態度で取引を終え、撤収作業に入った男の子と吉左は雑談を交わした。

 彼の名前は大六といい、年は九つ。七人家族であるそうだ。

(名まで似てやがる)

 漬物に使う材料の手配は、近所に世話焼きがいてその助けを受けているようだ。しかし、親の職業や自宅所在地については口が重くなった。言いたくないのか、おれを警戒しているのか。親に殴られた傷はなさそうでも、大切にされているとは思えない。言いたくないのだろう。


 そう踏んだ吉左は話題を変えた。

 即座に答えが返ってきたのは、将来の望みを聞いた時だった。尋ねると大六は迷いなく、

「船に乗りたい」と言った。渡し舟なんかじゃなく、大きな船に乗って他国を見て回りたいのだそうだ。ゆくゆくは船主になるのもいい。

「ほう、感心だな」水運の盛んな地に育った子は言うことが違うねえと褒めつつ、「なら漬物なんか売り歩いてないで、そろそろ舟につながりのある仕事に移ったらどうだ」と突っ込むと、現実と夢は別であるという意味のことを言った。

 吉左はまた笑ってしまった。

「悪い、悪い。馬鹿にしたわけじゃないんだ。時間をとらせたな」

 これから売れ残りが出たら、遅い時間でも遠慮せず宿に来いと吉左は言ってやった。

 そして一礼して去ろうとする大六の肩を掴んで彼を止め、吉左自身の大きな身体で隠すようにして、そっと肌付きの金を渡した。小僧が一年働きづめになっても見ることのできない額だった。

「この金は親にも兄妹にも決して見せるな。黙って持っていろ。お前が夢をかなえる最初の手がかりだ」

 代金のやり取りには慎重で、過剰な儲けを拒みすらした大六も、ほの明るくなった外の光に浮かびがる吉左の真剣な表情に、真面目にうなずきかえすと従順に金を受け取った。

そしてふたたび丁寧な礼をして、彼は歩き去って行った。


 すぐ小さくなったその背中を見ながら、

「面白いやつだ。そうか、船か」と吉左は言った。「おれだって船は嫌いじゃない。ずっと待っているぐらいだ」

「そうだ。船はいつ、来るかな」と口に出した。前はよく、半さんとこれをネタに掛け合いをしていた。ひんやりした空気の中、吉左は久しぶりに彼との過去を思い返した。


 店に火を放ったのち、放浪しているうちに半次と知り合った。お互い小僧に毛の生えた歳でしかなかった。

 派手なきっかけがあったわけではない。自然に言葉を交わすようになり、お互い警戒心が強い同士なのに、なぜかまたたく間に肝胆相照らした。

 そのうちに吉左が父と弟を殺した国に遺恨を抱いていると知ると、半次は激しく反応した。

 彼は小国の武士、それも下士階層の出身だった。雄藩との摩擦の末に、罪を被せられた父親が処刑された。もちろん、地位の高い武士の身代わりである。そして彼は、連座を拒んで故国を出奔したのだった。

 父の死の原因は吉左の仇の国ではない。だが、両国間の諍いを裁定した幕府の方針を、真っ先に支持したのが、あの国の殿様だったと聞こえていた。


 半次から過去を告白された時の薄暗いロウソクの光を吉左はいまも覚えている。

 ただ、当時はお互いに若すぎ、復讐するに相手は大きすぎた。

 それに、城の金蔵にただ押し入って国が傾くわけではない。

 (大金は大きな国の商人どもの間をぐるぐる巡っているだけだ)

 政治家に苦しみを与えるなら別の手段が必要だ。だから、大もうけしてから乗り込み、国政を左右してやると口走ったこともあった。もう少し歳を重ねるとその夢が恥ずかしくてたまらなくなった。

 しかし万が一、経済に大打撃を与えるのに成功しても、真っ先に迷惑を被るのはえらい武士ではない。また、おとりつぶしになったら愉快でも、そのあとに下級武士が舐める辛苦と悲哀は、半次がいちばんよく分かっている。


 若いふたりには妙手が浮かばず、「せめて、冷や汗をかかせる機会がこないかな」などと言い合っていた。

 あまりに意識しすぎて、おそらく実情よりずっと巨大な敵に見えてしまっていたのだろう。

 しかし、彼らも成長はしていた。次第に有能な仲間を増やし、闇の新興勢力として一目おかれ、ついには奇抜で謎めいた盗賊団として徐々に表の世界に(かなり大げさな)噂が囁かれるようになると、思いもよらない出会いが起こるものだ。

 その一人が、吉左の恨む北の国に店を構える商人だった。しつこく内実を探り続けているうち、密かに接触があった。出自からして国の中枢と深くつながりがあった商人は、煙一味が抱き込める程度の小役人とは世界の違う情報を把握していた。さらに、それほど近しいにも関わらず、あの国の意思決定層に暗い遺恨があった。どうやら北の国の有力者の、幼いうちは粗略に扱われた庶子であったらしい。

 吉左たちは警戒しつつ関係を築いた。また商人の方も、「あなた方と会っていると、これまで感じたことのない風が吹き付けてくる」などと彼らを特別扱いにした。おだてに有頂天になるほどうぶではなくとも、頼みごとや無理をつい聞いてしまった。言葉の違う国に乗り込み大急ぎで仕事したのは、いま考えると冷や汗ものだった。

 信頼が深まったのか、ある日商人が男に引き合わせてくれた。吉左らが現在、親父と呼ぶ市松である。親父は北の国の物流、それも海運事情に執着しコツコツと動きを監視していた。商人は親父を、入手した内部情報の確認と修正に役立てていた。すなわち商人があの国の支配層に騙されたふりをするのに不可欠な人材だった。

「ばかばかしく面白い話をお聞かせしましょう」

 と、仲良くなった市松が教えてくれたのが、表向きは存在しない船便の話だった。


 例の国には、もちろん公式に藩御用をつとめる大商人らがいる。だが何らかの事情からそれを利用しない、あるいはできない場合には特別に船を手配し直接的に金や物資をやり取りすることがあるというのだ。荷は偽装され上陸後も通常とは異なる経路で目的地に送られるが、しょせん武家のやること。ばか丁寧に警護をつけたりするので事情の分かった人間に見抜くのは難しくないと親父は言った。

「どうです。いい大人がくだらないことを考えるものです」

その話を聞き、「そんな面倒はせず、気の利く悪党を巻き込めばずっとはかどるのに。おれたちみたいな」と答えながら、吉左たちは平静を装うのに苦労した。まさに彼らの望み通りの標的だったからだ。


 とりわけ、藩主一族の風流人としてて知られた喜楽斎による時候のあいさつとの体裁で送られる荷は、藩主とその家族の極めて私的な便であった。喜楽を名乗る便はこれまで数度実施され、少なくとも半数の最終的な行き先は吉左の故郷の隣国と目された。

 それを知った時、いつもは冷静な半次が思わず手に持つ湯呑みを繰り返し持ち替えた。

 さらに例の商人からは、かつて喜楽便の陸路行に付き添った一人が、いまや執政の立場にあるとの話をにおわされた。商人には気取られぬよう振る舞ったが、吉左の父の死に直接関わった人間が政権にいるとの情報は、少なからず彼を動揺させた。

 だがその後、真偽の確認はとれないまま十年が過ぎてしまった。

 なぜならその直後に吉左と半次自らが商人を始末する羽目になったためだ。


 複数の国に立派な店を構えた商人が、少しの金額に目が眩んだと思えない。

 しかしなにを血迷ったか、商人は吉左らとは別の闇の人脈からきた筋が良いとは思えぬ儲け話に乗り、あれだけ贔屓とした吉左たちを利用し命まで提供しようと図った。

 一味全滅の危険を察知した二人は、機先を制して彼を処分した。

「俺たちの値うちはせいぜい指三本かよ」まだまだ若かった二人は心底怒った。

しかし、あの時の商人の気持ちがいまになって少しは理解できる。頼めば予想もつかない手口で必ず任務を果たす。そして商人が長年かけて築きあげた北の国についての情報網を、じわじわ手の内に収めていく。

 最も怖いのは、肝心なところで腹の全く読めない点だ。

 野良の子猫に餌をやっていたら、猫又とわかった気分だったろう。

 犯罪を糧に生き延びるには、絶えず瞬間的な判断が求められる。そして後悔はしないようにしている。

 しかしあの商人を消したのだけは、(間違いだったとは思わないが……)と、後々悔やみ続けている。

 単に無二の情報網を失ったのではなかった。血なまぐさい話に慣れぬ国での有力商人の変死は、商人と関係のあった表裏両面の人々を驚倒させた。そして、他国ものへの警戒心をかつてないほど高めた。

 その結果、同国への本格的な再侵入がいまに至るまで不可能になってしまった。

「いつかあの国の横面を張ってやりたい」それが二人の抱く夢だったが、

(自分たちで邪魔してちゃ、世話ないよな)心の中で吉左は苦笑いした。


 唯一幸運だったのは、商人の死後も市松の親父と切れなかったことだ。

 むしろ、親父と商人にあった関係とは比べられないきずなを結んだ。親父は、それなりの余得があった商人の情報収拾装置としての任務を強制終了させられても一切恨まず、煙一味の出先として老後を送ることを歓迎した。

 若い二人を気に入り、その過去に強く共感したためだった。親父にも二人に似た悲惨な記憶があり、不思議なほどの船へのこだわりにも悲しい因縁があるようなのだが、彼ら以上に過去を話したがらなかった。

 とにかく親父は、北の国で第一の港近くに居座り、季節ごとに垢抜けない暗号を使っては情報を送ってくる。ただし、吉左たちが目を見張るような実のある知らせは、これまでになかった。

(そんなことはいい。宝探しなんか、一生に一回当たれば御の字だ)


 あたりの暗さが薄れ、流れの見えはじめた川に吉左は目をやった。

 その時、目の前の景色が大きく変わった。吉左の目に朝日が映った。ほのかだった光が、確かなものへと変わってゆくと水面がきらきら輝きはじめた。日が昇ったのだ。しかし、吉左の心はかえって沈んでしまった。

(あの小僧はおれよりしっかりしている。自分から船に乗って出て行くことを考えていた。俺は、ただ待っているだけじゃないか)

 たとえ後ろ暗い商売であろうと、それなりに軌道に乗ると、人は忙しいという逃げ口に、希望や夢を捨てて入って行くものだ。そうなったあとは、日常に飽くたび、遠くぼんやり光る灯火を見て、いつかあそこを目指そうと自分に嘘をつき続ければ、けっこう幸せに暮らせるかも知れない。しかし、それじゃ生きている甲斐がない。

 これで良いのかよ、と吉左は自問自答する。しかし、気力がわかない。

(半さんは、どう思っているか……)


「ここでしたか、お頭」

 半次が、薄暗い中を落ち着いた足取りで近づいてきた。

「ちょうどあんたのことを考えていたところだ」と。吉左は笑いかけた。

「なんです、どうせろくでもないことでしょう」

 地味な衣装に控えめな態度が身に付いた半次だったが、力強い目つきと独特の精気は隠せない。それに、元は微禄ながら武士だけに、堅苦しさも抜けなかった。

「あんたとあれを、船の来るのを願ってずいぶん経ったなと思ってな」

「そう、十年にはなりますか」半次はすぐに答えた。おそらく、彼もしばしば考えることがあるのだろう。嬉しいほど反応が早いのは、さすが半さんだ。

わずかに沈黙した吉左がまた口を開いた。

「さっき、おもしろい小僧に会ったんだ」

「ほう」

「漬物売りでな、他人とは思えなかった。それで、そいつの夢がさ」

「なんです?」

「船だとさ。船乗りになって、船主になりてえと。そんなのまで似てやがると思ってさ。だから待たずに手前から前に出られるよう、金を渡しもしたのだがね。それがよかったか悪かったか考えてるうちに、このおれだってただ船を待ってやがるなって思い始めてさ」

「……」

「しかし知らせは来ないな」と言った。「来ませんね」と半次も言った。

 吉左が自分に苛立ちを募らせているとき、半次は彼から痛々しさを感じていた。

(船か。そうだな。お頭が喜ぶなら、一つ手配するか。なに、親父のでなくともいい。お頭の心が沸き立つようであれば、それでいい)

 半次も昔は、吉左の夢に賛同し、実現に胸を高鳴らせた。しかし最近は、吉左が高揚するのが一番嬉しい。

(このごろお疲れだ。いや、疲れさせたのは俺たちだ)

 外身は三十二、三の、苦みばしったなかなかの男振りで、節制を忘れない長身には、年寄り臭さなどみじんもない。ただその芯が疲れ果てているのを、半次だけが気づいていた。

 (この人は…)と半次は思う。当人がどう思おうと、生まれながらの頭だ。

 人のためなら舌も出さない人非人でも、彼に命じられば嬉々として危ない橋を渡る。利で結びついたありきたりの盗賊団と俺たちが違うのは、そこだ。半次は冷静な仮面の下に、そう叫びたい気持ちをいつも抑えている。

 この人と、仲間がいれば、まだまだ大きいヤマが踏める。ただ、それは吉左に間違いなく良いことだったのだろうかと、半次は近ごろよく考える。風のように自由な彼の魂を押さえつけたのは俺たちではないのか。


 盗賊組織の頭として抜きん出た指揮力を見せるこの男を、彼らは信じて命を預けてきた。

 吉左の計画なら俺たちに最高の場を与えてくれる。そして、それは彼のためでもあると、疑わないでここまできた。

 古い仲間、例えば右よしが若いうちは、ただの空虚だった。気に入らない相手を殺しては金を奪う。単なる凶盗だった。しかし吉左は偶然会った彼の手際の良さを認め、嫌いだとする相手が自分とそっくりだと褒めた。それまで群れることなど考えもしなかった右よしも、なぜか吉左にだけは懐いた。

 左よしも似たようなものだ。冷酷さでは右以上だったが吉左に惚れ込み、そのうち右よしと意気投合し、彼に会わせ自分で左よしと名乗りはじめた。どちらも鱶より人間性があるとは思えないのに、吉左と半次にだけは異常な忠誠心を示す。他の連中も似たり寄ったりだった。少なくとも彼らの人生の目的の半分以上は、吉左となにかをやる、そのことにあった。

 かつて関わった後ろ暗い連中のうち、煙の一味のことを子供の群れと決めつけたのがいた。

「ご忠告、ありがとうよ」半次は黙って、そいつを始末した。

 子供で結構。俺たちはすごい子供の群れだ。江戸でもこの国でも、子供たちは、嬉々として吉左のもとに集い、誰もが驚く鮮やかな仕事をこなした。人でなしを集め、精密な大仕事をやり遂げさせる。もしや俺たちは、とてつもない頭の元に集っているのじゃないだろうか。

 だがそれは、同時にこの傑出した男を疲れさせてしまっている。

(俺たちが甘えすぎた。この人は何十人もの大きなガキの父親であり続けてきたのだ)

 鍛えた鋼のように強くしなやかで、誰よりもたくましい男に思えていた吉左が、ひどくはかなげに見えることがある。

(船もいいけど、おんなでも探してみようか)とも思う。別に女嫌いではないのは長年の付き合いで分かっている。ただ、馴染みになるとべたべた見返りを求め出すのが苦手らしかった。


「半さん」と急に吉左が呼んだ。「はい、なんです」

「夢中で過ごしてきて、考えたこともなかったが、このごろ」と微笑む。「はなっからあの国に乗り込んで引っ掻き回してやった方が、さっさと話が終わったのじゃないかと思えて困ってる。歳をとったのかな」

「なに、まだまだ。深刻に考えることありません」と半次は努めて明るく言った。

「目先の仕事が一段落したら、久しぶりに親父に会いに行ってもいいな」

「そうですね。ただ、頼りの親父が老いぼれてきたのが心配です」

 市松は数年前に一度倒れ、軽く手足が不自由になっていた。一人暮らしの彼を心配して、世話する者を手当するかこちらに引き取るかを検討したが、本人の激しい反発によってそのままになっていた。

「そうだな。足も動かないし、近くが見えなくなったと言ってた。あれじゃ鯨より大きい船だって見逃すかもしれないな」

 二人はくすっと笑ってから、しばらく黙りあっていた。

「そうだ、ところで用かい」吉左の方から、沈黙を破った。

「忘れていました。あのご親切な中野の金兵衛からのつなぎがありました」

「へえ」

「こんどできた盗賊方の頭が寺に挨拶に行くので、顔が拝めるそうです」

 盗人の持ち込む小判を高利で足のつきにくい銭や細かな金銀に換える。金兵衛の本業はそれだった。しかし複雑な人脈を生かし、仲介やよからぬ情報の提供も行う。

 彼と知り合ったのは江戸にいた時分からだったが、なぜかいたく煙一味を気に入り、便宜を図ろうとする。最近は好意が過ぎてありがた迷惑になりつつあった。 

「盗賊方か」うーんと、明るい調子で吉左が投げ首をしてみせた。

 やっぱり仕事の話は機嫌が良くなる。半次はそう思った。

「お頭が気にされていたようだったので、先にお知らせしとこうと思いまして。なのにすっかり忘れてたのは、私の金兵衛に対する気持ちのなせる技ですな」

「半さんはここんとこ、あいつが鼻についてならないのはわかってるよ。ただな」と吉左は言った。

「千石取りの、殿様のご一族が盗賊退治に当られるのだったな。その話は金兵衛とはかかわりなく気になっている」 

「確かに面白そうです。どんなのんびりした面をしているか」

「いや、金兵衛は馬鹿にしているが、おれは本気で恐れている。いままでが楽すぎたのさ。あんたも知っての通り、江戸の加役みたいなのをこの国でやられると面倒だ。役人のほとんどはまぬけでも、一人や二人は骨のあるのがいるかも知れん」

「なら、誰か見に行かせましょう」

「いや、ちょうどいい。おれが行く」

 そう言って、吉左は宿に戻った。

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