第7話  親兵衛の妻、みぎわの感慨

 七 感慨


 朝から陽当たりの良くなかった役宅に、待ち望んでいた明るいひかりが差してきた。

 みぎわはかすかに脚をひきずりながら、夫のいわば婿入り道具であり、数少ない占有所有物である革小手や革足袋の干し場所を移した。

 ついでに下女のむつに手伝わせて、いつも隅に置いてある稽古用の振り棒を、二人がかりで持ち出して横に並べた。大柄なむつは、近くの百姓家の娘であって力仕事には慣れてはいたが、旦那様はどうやってこんなものを振り回すのだろう、と、もっともな疑問を口にした。

 彼女はまた、まるで鬼の使うすりこぎみたいだ、と主人の稽古道具を評した。それも納得だった。


 夫である親兵衛は、着衣の上からはむしろほっそりして見えるほどであり、役所の中では誰も彼が剣術の鍛錬を怠らないのを知らないだろう。わざわざ干したのも、毎朝あれだけ飽きずに振っているからには、よほど汗が染みているだろうと思っただけだった。

 武具類は陽に当てすぎると傷むので、手入れは適当でいいと夫は言う。しかしどうにも気持ちが良くなく、みぎわは時期を見て黙って洗濯するようにしていた。

 まさか振り棒まで干していたと知ったらどんな顔をするだろうと、自然と笑みがこぼれてくる。きっといたずらを見つけたかのように、笑いながら困ってくれるに違いない。


 長く勘定方で勤めた彼女の父親は、仏頂面しか記憶になかった。役所ではどうだったかは知らぬが、少なくとも家では笑顔は損だとでも言いたげだった。

 だが、縁あって三年前に婿に迎えた夫は、冷たく整った顔立ちの印象とはうらはらに、常に暖かい思いやりでみぎわを包んでくれる。彼女が伝える日常の些事にも驚きや喜びを隠さず、珍しければ一緒になって目をみはってくれる。

 しかし夫婦になって意外だったのは、それだけではなかった。


 当初、無口にも思えた夫は、すぐそうではないのがわかった。みぎわやむつの軽口にも機嫌よく応じるし、帰宅すると一日の出来事をみぎわにむかって話して聞かせるのだった。

 語り口も簡潔で要領がよく、聞いていて嫌にならない。そして、差し障りない範囲ながら手がけている役目について説明し、次にどのような準備が必要かを彼女とともに考えようとする。簡単にだが同僚上司の人となりも教えてくれるので、毎日少しずつ聞いていると、仏事ぐらいしか顔を合わせたことのない彼らにも、親しみを覚えるようになった。


  夫は遠く西国の出身で、育った国は女がいたって強かった、とのことだった。ならばそういうものか、とみぎわは素直に受け取ることにした。考えると、父が仕事についてほとんど口にしなかったのは、万事自分たちに都合良く思わせておきたかっただけなのだろう。

 心地よい微風が吹いてきた。彼女は、いつもかぶっているずきんを少しずらし、風を通した。


「ご覧くださいこの水仙。奥様」

 裏口から、いしが父母と弟に供える花を持ってきてくれた。おくさま、と力を込めるのは、ややもするとお嬢様と呼びそうになるからだ。

 いしは少女の頃から古田の家に仕え、ここから嫁に行き、いまも川を隔ててすぐそばに住んで毎日通ってくる。実直な彼女の夫は植木や花を扱っている。生前のみぎわの弟のこともよく知っており、いつも古田の家を気にかけてくれている。それに甘えて、長年仕えていた下男が歳を取ってからは、必要な時はいしの婚家に頼み気の利く人間を寄越してもらうことにしていた。


「まあ、美しいこと。十郎も喜ぶことでしょう。あれは花が好きだったから」

「奥様」と、庭を見たいしが、またみぎわを呼んだ。

「旦那様の持ち物は、何度見てもずいぶん様子がちがいますこと」

 興味津々といった調子でいしは武具をのぞき込んだ。古田の家は代々勘定方組頭の補佐役として百石を得てきた。武家はこの家しか知らぬいしから見ると、飾りのない小柄から厚い皮足袋に至る武具、それも実用に徹した品々は珍しいらしい。それに夫の生国とこの付近とでは拵えなど随分違っていた。

「ええ、いつでもお使いになれるようにしておかないと。でも、近くに修繕できる所はないそうなの。わたくしが縫おうかしら」みぎわが上機嫌で応えると、その顔をじっと見てから、いしは満足げに微笑んだ。


 昔からのみぎわびいきであったいしは、つい最近になってようやく、お嬢様を奥様とお呼びできてこんなに嬉しいことはない、と漏らした。

 たまたま風邪をこじらせたいしの家に見舞いに行き、片隅にある山ほどのお札やお守りの由来を尋ねたのがきっかけだった。

 いしは、みぎわが嫁に行けぬのは、彼女を守れなかった自分のせいと長く気に病んでいたと言った。まわれるだけの所で願掛けをし、手に入るだけお札を集めた。ただ、みぎわの結婚は、弟の死と引き換えのようなものなので、慶びを口にするのは憚られた。

「けれどもあのような立派なお方が、海を越えて来られたのは、まさに神仏のおかげと感謝しております」病気で弱気になっていたのか、いつにない真剣な顔で語った。


  年ごろを過ぎても家に引きこもったままだったみぎわのもとに、弟の急死(それも、家の存続の都合からしばらく隠さざるを得なかった)をきっかけに持ち込まれた話は、いしの想像を超えていた。相手が他国者の浪人で、川向こうで手習いの師匠をしていた男だったからだ。

 加えて、わずかに無くもなかった縁談に対し、生前のみぎわの母の哀願にも耳を貸さず、

「子持ちの年寄りなどだめだ」

「ああ面の不味い婿など許し難い」と拒み通した先代の親兵衛が、非常事態とはいえ日ごろの偏屈をあっさり捨てて受けたことは、そこまで弱気になったかと、二人で悲しんだほどだった。

 ただ、これまでと大きく違ったのは、話を持ち込んできたのが、武家の人品骨柄を見抜くのにかけては家中でも随一と、自他と共に認める水町の隠居その人だったことだ。

 彼は早朝、決死の形相で家に押し掛けるとまず、浪人者を跡継ぎに直す件については、

「三浦のご隠居様に口添えをお約束いただいた」と、国で最も尊敬されている名門の先代の名を挙げて安心させた。そのうえで、

「相手はさる国の代々算学に関わる家の生まれ。勘定方は天職」と紹介した。さらにすぐ、

「いや、それはむしろ些事。沢村殿こそ文武両道の真の武士。いかな理由ででも決して断るな」と迫った。

 そして、さすがに戸惑うみぎわの父に、

「これまで娘が家におったは、この日のための天の配剤」とまで言い切った。

 元の姓を沢村と言った夫の生国は、かなり前に御家騒動が原因で取り潰しにあっていた。その後、いったんはさる国の勘定方へ仕官が叶ったものの、何年か後にその国で飢饉が続き、給与米半知借り上げの実施が決まり、自ら禄を離れることを申し出たという。その後、諸国を放浪してから亡兄の知人だった儒者を頼ってこの国にやってきたのだった。


  幸い、心優しい婿はいしにとっても大のお気に入りになった。

 古田の家に通い、みぎわの幸せそうな表情を見て楽しむのが彼女にとっての毎日の日課となった。

「そういえば、奥様はお聞きでしょうか」と、いしが尋ねた。

「なんでしょう」

「近々、お城で新しい組ができるとか」

「いいえ、いっこうに存知ませぬ」

「こういったことは、出入りの商人たちの方がよく知っておりますものね」

「そう。私たちの耳に入るのは、たいてい決まってからです」

「それが、どうも盗人を取り締まるためのものだとか」 

 このところ、怖い話が多うございますからね、と言ってから、いしは川沿いの倉が襲われた話をした。 

 みぎわは、また差してきた陽射しに気を取られ、その話を遠い世界のこととして聞いていた。

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