第4話 半四郎、親兵衛になる

 四  三年前 親兵衛 


 夕闇が近づく中、沢村半四郎は独り暮らす「木槿長屋」にむけて歩いていた。とはいえ、ほかの店子はだれもこの名で呼んだりしない。俳号を持つ大家の顔を立てて、半四郎だけが家を聞かれた際にそう答えていた。

 朝夕の寒気はまだ厳しいが、ここ数日はやや角が落ちてきたように感じる。子供たちが楽しげにはしゃぎ合う声がして、彼はしばらく耳を傾けた。一緒に犬も吠えている。

 流浪の末に、彼が住処として選んだ一帯は、まことに川が多かった。国そのものが河川の利用に積極的であり、治水もなかなかに巧みと見える。長屋のある付近にも堀や川が縦横に水路を形づくっていて、その横には広く土が盛ってある。現在はすっかり木から落ちた葉によって覆われているが、大雨の際はここに水を流して氾濫を防ぐのだと思われた。

 また、この地は古くから寺や神社が多い。春になると神域や境内に競うように可憐な花が咲きほこるありさまは、前に彼のいた国にもよく知られていた。

「遠からず梅が、そして桜が咲くだろう。川岸は賑やかになるな」

 明るいような寂しいような、どちらともつかない笑顔を浮かべながら半四郎はつぶやいた。

 衣服は清潔でも袖などは継ぎがあたり、とうてい裕福には見えない。事実、彼はただの浪人であり、寺で子供たちに手習いを教えた帰りであった。


  思いついて川岸を歩きはじめた。比較的身分の高い武士が居を構える一帯と、商店や庶民が多く住む雑然とした地域もまた、川で区分けされていた。木槿長屋のあるのは川向こうと呼ばれ、もう間もなくであった。

 黄色みを帯びた光の中を、幾艘もの舟が進んでいる。ぼんやりそれを眺めていると、ふいに気配と足音を身近に感じた。半四郎は後ろに目があるように身体を横に開いた。

 駆けてきた中年の女が、さっきまで彼のいた空間を勢い良く通過した。

 そして、「ごめんねー」と謝ったかと思えば、「あらっ」とたたらを踏みつつその場に止まった。

「きく殿、なにをそんなにお急ぎか」半四郎が尋ねた。

 きくと呼ばれた女は、半四郎と同じ木槿長屋の住人だった。

「ちょうどよかった先生、大変よ。かどわかしよかどわかし」

 いつもは近くの八百屋の店先を借り、漬け物などを並べてのんびり商売しているのに、今日は慌てている。

「かどわかしとは穏やかでないな」

「嘘じゃないの。あれ、見てよ。女の子が無理に乗せられたの」

 きくの指差す先には、あたりを頻繁に行き交うのより一回り大きい平底の舟が水上を進んでいた。

 二人の船頭のほかには、浪人風の男が二人、そして後部に積まれた藁の中から、明るい色の襟巻きで頭を包んだ少女の顔がわずかにのぞいている。

 おびえているせいか、こちらに気づいても少女は声を出さなかった。川幅はこの付近では狭くとも、じきに他の水路と合流する。そうなると川幅はずっと広く、追跡が困難になる。誘拐犯のねらいもそれだろう。

「ねえ、お願い、助けてあげて」きくが声を上げるころには、半四郎はすそをからげて川岸を駆け出していた。

「どうなったの、女の子は」きくに追いついた太った女が尋ねた。

「先生が、追っかけて下さってる」

「先生?え?寺子屋の?あんな優男、大丈夫?」そういった女が川を見ると、ちょうど半四郎が舟に飛び乗ろうとしているところだった。

「あら、やるわね」


 ふわりと宙に飛んだ半四郎は、まるで重さを感じさせずに舟の中央に降りた。それでも舟は一度大きく揺れたが、ひっくり返りはしなかった。

 驚き無防備に近寄る浪人風の男に、半四郎はにっこり笑いかけた。そのまま、指を首の付け根にある急所へ突き入れる。

 意識を失った浪人者の腰の刀を鞘ごと引っこ抜くと、間髪を入れずそれでもう一人の浪人の首を打った。そして逃げようとした船頭の一人の頭を殴ってから、ようやく刀を抜いた。

 それを残った船頭の首筋に突きつけると、「岸に着けなさい」と、低く迫力のある口調で命じた。


 元目付役水町勝左衛門は、血の気のない顔に冷や汗をかきながら、早足で川岸を歩き続けていた。大切な孫娘がいなくなったのだ。いつもの威厳がありすぎる態度は、すっかり引っ込んでいた。

 主立った藩士の人となりを裏の裏まで知る事情通であるとともに、公平で情に流されない厳しい処断を下す横目付として長く家中で恐れられていた彼だったが、隠居後は、手習いを終えた孫娘を迎えに行くのが日課となっていた。

 今日は道の途中、非礼のあった若党を怒鳴りつけていたので、少し到着が遅れてしまった。

 孫の奈津が書を習う尼僧院は、なかなか風情のある雑木林の一角にある。急いで門前にたどりついたころには、待っているはずの小柄な女の子はどこにも見あたらなかった。

 これなら誰かを先にやっておけばよかった。

 水町は、冷や汗が湯気となって立ち上るのもかまわずに探し続けた。道の端に奈津お気に入りと同じ色の襟巻きをかぶった少女を見つけ、安堵して近づくと、違った。その娘にはお付きが三人もいた。裕福な商家の子供のようだった。

 人違い、かどわかしという言葉が脳内をぐるぐる回りはじめた。揺れる意識をこらえ、よろばうように川沿いを探し歩く。途中、集まった町人たちが、

「女の子が舟で連れて行かれた」と口々に騒いでいたのを聞いてしまった。

 しかし、それらしき舟はどこにもない。

 川沿いを歩き続け、水路の合流地点に近づいた。川番所を見つけ、必死の形相で飛び込むが、そこにいるはずの番人がいない。

 叫び出したいのをこらえて首をめぐらせる。


 なにやら人が集まっているのが水町の視界に入った。急いでその輪に接近し、大柄な身体を無理矢理割り込ませた。

「奈津、おった。無事か」彼の大声に群衆はあとずさりした。

奈津は涙を流しながら、しゃがみ込んだ浪人風の男と話していた。男は孫の襟巻きを掛け直している。

「おのれ、いったい」水町が小柄に手をかけて浪人者に近づこうとすると、

「おじいさま、違う、この方は助けてくださったの」と奈津が止めた。

 そばにいた町人の女たちが声を合わせ、

「悪党は、あっちあっち」と川を指さした。

 斜めになって停まっている船の中に男が四人、折り重なって倒れていた。胸は上下していて、気絶しているだけのようである。

「これは、なんと」もう一度振り返って、奈津のそばにいる男をまじまじと見直す。たしかに誘拐犯らしからぬ上品な顔をしているが、四人を叩きのめしたというのも信じがたい。

 水町の表情を見てとったのか、

「せんせいが、やっつけちゃったのよー」

「そう、あっという間。色男なのに力持ちなんて、すごい」

「あらやだ、うちのとは大違い」などと女たちが口々にさえずった。

 漬物売りのきくから、大事ないかと聞かれた奈津が、身体をくるりと回し怪我のないことを示した。

 取り囲んでいた人々に、安堵の笑みが浮かんだ。

「どうやら、孫をお助けいただいたようで、まことにかたじけない……」

 急に気の抜けたようになった水町老は、半四郎と、いまはすっかり明るい笑顔を浮かべている孫を交互に見つめた。



 二ヶ月が過ぎた。季節はゆるやかに変わっていった。

 深夜、半四郎は長屋の狭い部屋の中で、小さな木箱を机にして、手紙をしたためていた。

 相変わらずの質素な身なりに変わりはない。ただ、欠けたとっくりに蕾のついた折れ枝が活けてあった。 

「そろそろ、梅がほころびそうだ」独り言の癖にも変化はない。

「けりをつけるのはいいが、子供に嫌な思いをさせたくはないな」

 月明かりが中に差し込んでいる。傍らに置いた長めの脇差しを抜き、月を刃に写した。部屋は小さいが清潔で、まるで引っ越しをするかのようにすっかり片付けられている。

 彼は刀を置いて、ため息をついた。

「もう少し、よいやり方はないものか」

 再び筆に手をのばそうとして、首をかしげた。

 耳をすませる。

 まもなく、戸を叩く音がした。

「なんでござろう」家は狭いのですぐ外に出られる。すまなそうな顔で大家が立っていた。

「夜分申し訳ございません。沢村様、お客様です」後ろに年配の武家が居た。

「これは水町どの」半四郎は驚きながらも、こころよく彼を部屋に招き入れた。

 先ほどからしたためていた手紙の宛先には、水町の名もあったが、半四郎は何も言いはしなかった。


「奈津殿はお変わりありませぬか」

 微笑む半四郎に対し、水町の顔には何ともいえない緊張があった。覚悟と言い表せるかもしれない。彼はふかぶかと頭を下げた。

「せんだっては孫の危急をお救いいただき、誠にかたじけのうござった。あらためてお礼いたす」

 済んだと思っていたことでふたたび頭を下げられ、半四郎はとまどった。

「そのようなこと、すでに幾度となくお礼はいただいております」

「いや、金子は決して受け取ってもらえなんだ」

「それは、私が独り者ゆえ。とくにいただく理由も必要もありませぬ」

「いや、いや」と水町は首を振り、今日はそれとはまた別の、差し迫った話があって参ったと言った。

「はて。お役目でございましょうか」

「いいや、ご承知のとおりに拙者はすでに隠居の身。役目ではござらん。むしろ、それよりも大事なご相談にて」と言って、木椀で出された水を飲んだ。そして姿勢を正した。

「たったいま、国で最も古い筋目の家のひとつが、存続の危機に瀕しておる」

「……それは、いかなる事情にございましょう」唐突な言葉にも半四郎は落ち着いていた。


 水町はうなづき、ふたたび語りはじめた。

「その家の跡取り息子は、長く病みつき、ついに明日をも知れん命となった。いや、沢村殿には真実を話さねばならぬ。実を申せば、すでに息子の魂魄は身体を離れてしまっておる」

「うむ、それは」

「家には、姉娘が一人おる。実に心映えのよい娘で、わしも幼きころからよっく存じておる。しかし、ありていに申せば、行かず後家であって、夫も言い交わした相手もおらん」

「……」

「理由をお話しいたそう」水町の目にすごみが増した。「昔、ある家が火事になり、患っていた年寄りが逃げ遅れてしまった。男どもが尻込みする中を、通りかかったまだ十五にもならぬその娘が飛び込み、助けようと図った。しかし年寄りを引きずりだし、戸まで辿り着いた所でついに梁が崩れてしまった。娘は顔にやけどを負い、脚もわずかだが引きずるようになった。それなのに娘は」

 水町は感情を抑えようと、一層厳しい顔をして続けた。

「我が身を襲った不幸より、年寄りを救えなかったことをずっと悔やみ続けた。そういう娘だ。名はみぎわと申す」

「なのにこの国のどの男も、年頃になったその娘との縁談を避け通した。わしの甥っ子も含めてな。そんな傷、なにを気にすることがあるかと思うのに、実に情けない」

 半四郎は静かな面持ちで黙っている。


「父親がまた、清廉な男ながら少々偏屈で通っておる。そのせいもあった。だがその男もすでに病に取り付かれ、長くはないと本人も覚悟しておる。つまり、みぎわにはまだ辛いことが待ち受けている。哀れなことだ」

「むろん高位の方のご威光をお借りすれば、どこかの部屋住みにうんと言わせることはできよう。だが、そんな軟弱者、他の娘はともかくみぎわにはふさわしくない。父親は強くそう考えていた。ただ、そうなると今度は人がおらぬ。この年寄りもずっと事情を知りつつ、手をこまねいておった。まさかこのような災いが降りかかってくるとも考えず。おろかだった」

「……」

「しかし、ここにきて状況は変わった、良い方に。一度は国の男どもに絶望したわしも、二月前から急に気分が明るうなった。いや、暗闇に一条の光。縁あって沢村殿の知己を得たためだ」

「失礼ながら、それは、過褒というもの。私はただの素浪人に過ぎませぬ」

「外見や境遇はそうかもしれん。しかしわしは、人生の大半を侍の裏表を見ることに費やしてきた。理屈ではない。貴殿を前にすると、この身すべてが声をあげおる。ここに、幾多の死線をくぐりながら、正しい心を失わぬ希有のもののふがおる。隠そうとされても、わしにはわかる」

「……困りましたな。そのような立派な者ではござらぬ」

「これほどのお方と知りながら、仕官のお世話すらしなかったのもお詫びせねばならぬ。それは、わしに欲があったためなのだ」

「欲」

「つまり孫娘の婿にと考えていた。あの奈津のな。ただ、ご承知のように歳はまだ十。そのためいろいろ策を弄しておった。無論、あれ以来貴殿のことばかりしゃべり暮らす本人に聞けば、即座に了とするに違いないが、子供にそう言わせても、沢村殿が迷惑されよう」

 破顔した水町に、半四郎も苦笑した。

「まあ、年寄りの下らぬ欲に付き合う必要はない。しかしな、これだけはぜひ、お願いしたい。いや伏してお願いする」彼は深く頭を下げた。

「わたくしは、なにをすればよろしいのでしょう」

「みぎわに会って欲しい。そして、古田の家の婿となり、跡を継いでもらいたい」

「……」

「むろん、貴殿を国に招いた土居の不自由な口からは、百石の勘定方役人ごとき歯牙にも掛けぬお家柄の生まれとは聞いておる。その上でお願いしたい。ひとの一生にはそれぞれ運命というものがあり、ときにそれが重なる。わしはこの歳になって、そう考えるようになった。そしてみぎわと貴殿の運命が、無事にいま重なり合ったのだと」

 半四郎は、腕を組んだまま黙り続けた。

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