第3話 三年前 吉左 江戸を離れる
三 三年前 吉左
江戸の空は一日中薄曇りだった。
ほおが濡れたな、と思う間もなく雨が空から勢いよく落ちてきた。辻久馬が潜む路地裏も、賑やかな音で囲まれてしまった。
たまらず駆け出し、目当ての船問屋の裏にある一膳飯屋の軒下まで逃れた。店じまいの早い店で、いつも日暮れを待たずに雨戸を閉じてしまう。辻はかまわず、戸を叩いた。
「またですか」この飯屋の親父である半助があきれたような顔で招き入れた。親父とはいうが、まだ三十そこそこと若かった。「お役目にご熱心なことで」
「うむ、すまんな、雨が降ってきたのだ」一応詫びつつ、すぐに「二階を貸してくれ」と頼んだ。
盗賊改方の同心である辻が、木津屋という屋号の船問屋の動きに不審を覚え、探りはじめて半月以上経っていた。
今日はまだ顔を見ていないが、手先である松七もまた、木津屋を探っているはずだった。三日ほど前、松七に従う小者を木津屋の荷下ろしに紛れ込ませたのだが、昨晩から連絡がない。
一膳飯屋はつくりこそ小さいが、二階にほとんど使わない座敷があり、そこからなら一度に問屋の表裏を見渡せる。小者を潜入させるのに前後して、彼はほぼ連日にここから木津屋の様子を探っている。
店の者たちは、さすがに嫌そうな顔をしてみせるが、面と向かって役人に、それも盗賊改方と知れた辻本人に、あらためて文句を言う度胸はないようだった。
階段に軽い足音がして、左平という名の男が、手ぬぐいと茶を持ってきた。
「ご苦労様でございます」言葉遣いは丁寧だが、眉毛が薄く頬がこけ、暗いところなら子供が泣き出す悪相の持ち主だった。いつもは表に出ず、店の奥で差配している。この顔では仕方がない。
「悪いな。しかしこの店は店じまいが早い」二階から外を見つつ、辻は言った。
「せめて宵の口まで開いておれば、こう続けざまに戸を叩く必要はないのだが」
「へい。申し訳ございやせん。主が夜の商いを嫌っておりまして」
「ほう、半助がか」
「いえ」とまで言って左平は口よどんだ。
「あ奴以外に、店主がおるのか」
「まあ、あれの兄弟みたいなものでして」
「ほう、一度顔を見たいな」
「へい」
雨がさらにひどくなり、それまで出入りのあった木津屋の裏口から、人の気配がすっかり消えた。
「しかし、この雨にも困りものだ。松七もどこかで往生しているであろう」
「手先の方には、今日はまだお会いではないんで」急須から湯飲みに茶を淹れながら、左平が尋ねた。
「おう。朝から外を廻っておったからな。昨日もそうだ」
「それは、ご苦労なことで」
「む、なんだ」急に辻が窓に張り付いた。
「あれは、見たおぼえのないやつらだな」声が少しうわずっている。
「どうしました」自然な仕草で左平も外を見た。
「あの二人だ。何者だろう」
「ああ、辻さま」と、左平が声を上げた。「あれはうちの奴らです。申し訳ございません、お騒がせして。ごみくずをこっそり捨てさせておりまして」
悪相の左平が後頭部に手を当てて詫びる姿は、さながら地獄の獄卒が閻魔大王に叱られているかのようだった。
「なに、ごみか。人騒がせな」辻は長いため息をついた。
「いきなりこれではな。どうも今夜も空振りかの」
「あいすみません。間抜けなやつらで」
辻の横に盆と一緒に茶を置くと左平は「どうぞ」と言った。しばらく黙って、面白くなさそうに外を見る辻に付き合っていたが、思いついたように口を開いた。
「つまらぬことをお尋ねします。お仕事では、今日はこっちだ、明日はどこへ行くぞって話しはなさらないのでしょうか、その、お役所では。あたしら商人は、留守番に行き先をおおよそでも伝えるもんですが」
「そうだな。上に詳しく伝えることもあるが」湯飲みを手に取りながら愛想よく辻は答えた。当分はこいつらの機嫌をとっておかねばな、と内心では考えている。
「だいたいは事後の報告になる。あらかじめ教え過ぎると、かえってうるさく聞かれるものだ」それに、と笑って言った。
「手柄を横取りされることもある。俺は勝手にやるのが好きだ。今度のも、上にはずいぶん前に伝えたきりだ」
「はあ、そういうもので」
「なんだ、いきなり」
いやね、と左平は頭をかいた。
「辻様が、ずいぶん危ないお役目のようなんで、もしぱったり店にいらっしゃらなくなったら、その時はお役所にお届けすることも考えないとな、てな事を主人と話していましたもので。いや、不吉な話で申し訳ありません」
「よい、よい」と辻は手を振ってまた窓を向いた。
「おれはそう簡単にはやられぬ」
「はあ、それはそうでしょうが」
「第一、俺が消えても、上はせいせいしたと思うだろうよ。あの方とは昔からそりが合わん」
「それは、よかった」左平はそう言いながら辻の首にひもをかけ、そのまますごい力で引っ張ってくびり殺した。
辻は一度大きく身体を震わせただけだった。左平はちらっと窓の外に目をやって、誰も見ていないのを確かめた。
「腹が出てるだけに、重いな」
「ああ、もうやっちまったのか」半助と呼ばれていた男が顔を出した。「しばらく猿ぐつわでも噛ませとくのでは、なかったのかよ」
「五平らを見られてしまったんですよ。どじな奴らだ。だいたい」といって辻の死体を蹴った。「俺たちと同じ家を、狙うってのが間違ってやがる」
「まあ、怪しいように見えたかもしれないが、あっちは歴とした堅気だからな」
「そうだよ。こいつ、泥棒の家ん中に入って、泥棒を見張ろうなんて、どんなに間抜けだい」
背の高い男がくぐるようにして部屋に入ってきた。精悍な顔立ちをして、なかなかの男ぶりは悪党に見えない。彼は中の様子を見てとると、
「おや」と、しらじらしく言った。
「左よし、お前またやったのか」
「すまねえお頭、でもお客じゃねえ。おれはこのところ、お客の顔を張ることもしてねえよ。こいつは役人だ」
その男、平次であった吉左は言った。
「なあ、左よし。役人だから、困るんだ。さすがに加役を殺しちゃ、江戸にはいられないぞ」
「……ここにいるとは、誰も知らないと思いますがね」
「すみません、わたしがいながら」半助と名乗っていた男、半次が謝った。彼は吉左の片腕であり、一味の副頭目にあたる。
「うへ、盗賊改の同心かい。こりゃ飼ってる岡っ引きも探して始末すべきかな」顔を出した右よしという男が言った。
「まあ、いまやるか、間を置いてやるかだけの違いだがな。仕方ない、半さん、準備ができたらすぐ木津屋に仕掛けさせよう。そのあとは、ここを捨て置いてひとまずは遠州だ」
「へい」
「そいつは役所でも嫌われてたようだが、役人は役人だ。それも盗賊改だ。一晩ゆっくりして、というのは、これでいけなくなった」
「お頭、それでちょっとご相談が。すぐ済みます」と半次が言った。
「なんだい。店の片づけに時間がいるのか」
「いえ、この際思い切ってお頭のふるさとへと帰ることを考えたらどうかと思って。このあいだご自身で言ってらしたように」
「ここ数年、商いは盛んで人は増えて、おまけに役人が少ないって聞いてます」と、右よしが半次に加担した。
「それにコソ泥を見つけたら、まず説教して改心させようとするんですって。ばかだね」
「うーん」と首を捻って、吉左は隅に置かれた木箱に座り込んだ。
「そりゃ、言い出したのは俺だ。しかし、小さすぎやしねえか」
「尾張や大坂もすぐですよ。そっちを突っついて、知らん顔して小さな国に戻るってのが、いいじゃないですか」
「左よし、お前はどうだ」と吉左が、死体の片付けをはじめた左よしに聞いた。
「言うまでもない。お頭の行く先がおれの住処だ」
「泣かせるねえ」と右よしは言って、二人で死体を担いで消えた。
「それに」半次が続けた。
「喜楽がきっと通るだろうってこともある。あの国の、あの馬鹿息子がお隣のお殿様だから」
「そうだな」
「あそこは自由だし、それに他の国へ移動はしやすいし、いろんなうわさはざくざく伝わる。もちろん、あの国のもね。だいいち、船を使えばあっというまにあの国に着きます」
「そうだな」
「そうでしょう。駄目ならまた動きゃいいんです」
「他のやつらは、都落ちだって嫌がるんじゃねえか」
「いいや。左よしじゃないけど、お頭の行く所なら、誰が嫌がりますか」
「まあ、それもいいか」吉左はかるがると腰を上げると、下階におりた。半次は楽しそうに付き従った。
「実はねえ、半さん」外の様子をうかがってから、吉左は言った。
「さびがこねえようにいつも動き回ってるてのも、このごろくたびれるようになったよ。歳かな」
「お頭から歳の話を聞くとは思わなかった」
二人は笑った。そして、黒い布で顔を隠すと、雨の中へと消えていった。
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