第2話 十八年前 「吉左」誕生

 二 十八年前 吉左


「おまえ、なに、しとるのや」

 さびれた商家ばかりが並ぶ「別れ」と呼ばれる一角に舌打ち、ついで上方なまりの罵声が響いた。

「鈍なやっちゃ。言うたとおりちゃんとせんかいな」

 ことばづらは柔らかいが、まとわりつくような非難が続く。命じておいた店の前の片付けが、十分でないというのだ。言われた源太は、

「う、う」と、笑ったような泣いたような、情けない表情を浮かべている。

「からだばっかり大きゅうても、なあんもでけへんやないか」

 最後の「ないか」で源太はつんのめった。怒られた相手の仁蔵に、強く背中を殴られたからだった。


 そろそろ寒さが厳しく、どこからか枯れた木の葉が飛んでくる。せっかく掃き清めた店先がまたややこしくなりそうだったので、同僚である平次は、源太のほうきを持って素早く前に進み出た。

「すみません。すぐやり直しておきます」

「ええかげんにしときや」

 痩せた背中を綿入れで隠した仁蔵は、風呂敷づつみを自分でつかんで背をそびやかし、道のむこうへと歩き出した。

 店は商店の連なる通りの端にあった。大小五軒が固まったところに、やや広めの道によって他と区切られている。それで「別れ」だ。昔の水路の名残りで、往時はなかなかに繁盛したものだったという。

 ところがいまは、ちゃんと開いているのは二軒だけ。ただし、ここまで落ちぶれたのはここ一、二年のことだった。手堅く商売していた店ばかりだったのに、それぞれに揉め事が起こって相次いで店を閉じた。

 

 仁蔵は一軒空いた隣にある薬屋の店主が見ていたのに気づくと、

「ほんまに、手間のかかることですわ」と、同意を求めるように言った。

 店主もまた、

「大変ですなあ、気の利かん奉公人は」

 と、媚びた返事を返した。

(なにを言いやがる)と、平次は内心で思っていた。


 開いているだけでちっともはやらない薬屋には、もう奉公人はいない。働いているのはイタチのような顔の店主と、人より猪に近い女房の二人だけだけだ。前々からぱっとしなくて、商品に虫が入っていたという騒ぎがあってからますます左前になり、平次の店から少しばかり金を融通してもらっていた。

 仁蔵の姿が見えなくなると、

「何ともないか、源太」と、平次は源太の背中をさすった。大柄に見える二人は、まだいずれも十四になったばかりだった。

「ごめんよ、迷惑かけてさ」

「ばか」


 少し前までは、源太はここまで冴えない弱虫ではなかった。要領は決して良くないけれど、唄や芝居が大好きな、明るい奴だった。浄瑠璃を突然うなったり、たまの休みには信じられない遠方まで芝居を観に行き、帰ってくると決まって寝床の中で真似をして、平次を悩ませた。だがいまは、度の過ぎる叱責に怯え、声色ひとつ使う余裕もない。

「な、我慢しろよ。もうちょっとだ」月が変わってから十は繰り返した励ましを、平次はまた口にした。なんとか源太もうなずいた。

「そうだよな。きっと吉左が、助けに来てくれるさ」

 今度は平次の顔を見て気弱そうに笑った。小さな目はそのままでも、以前は丸かった頬がすっかりこけてしまっている。

(こりゃ、いかんな……)平次は思った。


 二人の奉公していた両替商の店主が別の人間になってから、まだ一年も経っていない。どちらもただの子供身分にすぎなかったが、彼らの運命は大きく変わってしまった。

 老舗のその店は、規模は小さくとも奉公人には厳しかった。反面、理屈が通じ教育にも熱心だった。とくに一番番頭の半兵衛は、反対を押し切って平次を店に入れたばかりか、読み書きそろばんを叩き込んだ。そして書物というものに興味を持った彼に、行灯を使った夜の書見まで許してくれた。

 店の一切をを取り仕切っていた半兵衛の突然の死から、店は坂を転がるように左前になった。

(半兵衛さんが生きてりゃ、何とかなったろうな)と、平次は思い出す。しぶしぶ金を貸したどこかの大名があっさり借金を踏み倒したのを皮切りに、店に不都合が続いた。そのうち今度は奥様の実家が火事を出した。そして、ある日の朝、お嬢様の姿が突然見えなくなった。

 主人の娘はその日、遅くなっても灯りの付いたままの店に、消えた時と同様突然戻って来た。しかし、その後一度も奉公人に顔を見せることはなかった。すぐに近江の親戚に預けられ、それからの消息は聞かない。


 少しも美しいとは思えない目鼻立ちながら、笑顔だけはとびきり明るかったお嬢様のことは、その後も繰り返し思い出した。

 なにかが憑いているような苦しみの連続に、旦那様はついに店を人手に渡し、娘と同じ親戚の元へと引っ込んだ。風の噂では、すでに失意のまま亡くなったという話だった。代わりにどこからともなく現れ、店をそっくり引き取ったのが、仁蔵と甚兵衛の二人だった。

 頬骨が出て、なよっとした番頭格の仁蔵と、なにを考えてるのかわからない、見るからに面の皮の厚い甚兵衛。甚兵衛など商人のくせに髭を生やしていた。

 じんじんだな、とはじめは笑った平次だったが、すぐに笑えなくなった。店は一変した。彼らは、主立った奉公人を止めさせたあと、子供だけを雑用のために残した。両替屋の看板はあがっていても、仕事の中身はただの高利貸しだ。客筋も、いかにも品がない。


「おい、平。これを三国屋に持って行け」

 急に甚兵衛に呼ばれ、手紙を渡された。三国屋というのは飛脚問屋だった。値は安いが、ときどき間違いがあるというので、以前の店では使っていなかった。おまけに場所もけっこう遠くにある。

「落とすなよ」

 甚兵衛は疑わしげな目で平次を見た。いまの主人を一言であらわせば「吝嗇ケチ」だった。 

 なにをさせても言わせても、けちくさい。なんとも言えない表情でこっちを見る甚兵衛の目線を感じつつ、次はおれを辞めさせようと考えはじめたな、と平次は確信した。

 だが、返事は努めて明るく、

「へい。間違いなく」と返した。そして、店から駆け出した。

 彼の元気はカラ元気ではなく、ちゃんと理由があった。復讐だ。

 旦那様、奥様、お嬢様、そして半兵衛さん。実行の日は、近づきつつあった。


 父を亡くし故郷を捨てた平次は、まともな仕事に口を聞いてくれる人もなく、ある船着き場のそばにとどまり適当に小銭を稼いでいた。自分で面倒見が良いとは思わないのに、なんとなくあたりの親なし子の世話をするうち、いつのまにか頭のような存在になった。その頃は、まだ親に付けられた紀六という名を使っていた。しかし、世話する相手が多くなるとやはり食い物、そして金がいる。

 はじめは乞食にごみ拾い、そしてかっぱらい。やることがだんだん荒くなり、大掛かりになった。そのうち捕まえられるだろう。夜になるとこれからどうしようかぼんやり考え、朝になるとまた同じ悪さを続けていた。


 そんなある日、たまたま難儀していた年配の男に気づいた平次は彼を助けた。気まぐれで。

 落としたという手紙をちび共に探させて、渡してやったら、その男は礼を言っただけでなく、平次が、ひらがなが読めることをほめてくれた。

 冗談じゃない。寺ではそろばんも習ったぜ。不満げな彼を見た男は、半兵衛と名乗ると、

「お前の目には光がある」と言った。ほめているつもりらしかった。

 腹一杯飯を食わせてやると言う男の言葉に、彼の落ち着いた物腰に、平次はふらふらと後を付いて行った。

 店の台所で彼に飯を振る舞った男は、次に嫌がる紀六を無理矢理たらいの水でごしごし洗った。その様子を、地味だが上等な着物姿の別の男が見に来た。半兵衛は、

「平次と呼ぶ事にします。前の名は捨てさせます」と、言った。男は町名主に頼んで、残ったちび共も、ちゃんとめしが食えるようにしてくれた。

だから、黙って従った。

 もしあの時、番頭さんに付いて行かなければ、俺はまだかっぱらいの頭だったろうか、と平次は今も考える。堅気の仕事は手間ばかりかかり、少しも悪くなくても謝らねばならない。かっぱらいの頭と、どっちがよかっただろう。

(少なくとも)と、彼は悲しい気分で考える。(父親より信じた人を、突然なくすような辛い思いはせずに済んだだろうか)


 じんじんは、三日に一度は店に泊る。それも、男同士一緒にだ。で、二回に一回は酔いつぶれる。

(いったい二人で、なにしてやがるのか……)怪しんだ彼は、夜、天井を伝って、そっと部屋の様子をうかがった。平次は歳にしては大柄だったが、忍び足で歩くのには、特別の才があるようだった。天井も、廊下も、みしりともさせずに歩くことができた。

 部屋で肩を寄せ合い二人が話し合う様子は、衝撃だった。ひとつは男が女にするような態度を男同士がすることにであり、もうひとつは話の内容だった。

 女が色男をかきくどくように、仁蔵はしなだれかかって甚兵衛にささやいた。

「大旦那は、なんでそんなに急いたはんのやろか。わてら嫌われてるのとちゃうか。こないに尽くしてるのに」

「それでも、この店が早うにかたが付いたのは、良かったな」

「わてのおかげやで。先に番頭片付けとき、ってゆうたのは、このわてやがな」

「ちょっと高こうついたけどな。ここまできたら、あともうちょっとや」

 彼らへの復讐が、たんなる気晴らしから、生きる意味になったのは、後で考えるとその瞬間からであった。


 平次は夜以外も可能な限り彼らの会話を盗み聞きした。じんじんが狙っていたのは平次の店だけではない。「別れ」全体を安価に手に入れ、なんらかの企みに役立てるのが最終的な目的らしかった。そして、日ごろ偉そうに振る舞う彼らもまた、「丸井の大旦那」と呼ばれる人物に頭の上がらないことを知った。

 吝嗇は単に性格なだけでなく、彼らにも上納金の割当があるためだった。しくじれば、いくら胡麻をすっても「どこやらの川へ浮かぶ」らしかった。

 毎日話を聞き、奴らの活動の全体を頭の中に描きはじめた。そのうち、「大旦那」には現金を収めるのではなく証文を集めて渡すらしい、というのが見えてきた。幸運だった。小判を担いで盗み出すのは、いくら体格が良くてもまだ子供の彼には難しい。証文ならずっと簡単である。それに大事な物の置き場所は、一番番頭さんが使っていたのと、同じ場所だった。舐めやがって。おそらくじんじんより、よほど俺の方が鍵を開け慣れている。


 証文を盗み出す計画に、彼は熱中した。逃走には舟を使いたかった。じんじんは理由を付けては平次に休みを取らせるのを邪魔したので、使いで外へ出るたびに川沿いを歩き、盗めそうな舟を物色した。

 楽しみがあると、仁蔵からねちねち小突かれても、あまり腹は立たない。そのせいか、

「子供のくせに何をいうても平気な顔しとって、薄気味悪いやっちゃ」と、言われるようになった。怒られれば身体がこわばり、ますます失敗する源太とは正反対だった。

 平次は頭もよく機転もきき、使う側も便利なのは判っていた。反骨は、目的のために深く覆い隠している。その甲斐あって追い出されるのは、いちばん最後だろう。ただ気がかりなのは源太だ。一緒に残された仲間の信八が追い出されてから、仁蔵の標的は源太になった。毎日、じんじんは嬉しそうに源太をいじめた。大飯ぐらいだった彼が、けちくさい盛り方の店の飯さえ、残すようになった。

(あいつを連れて行かなきゃならないけど、あの調子じゃな……)

 平次は復讐計画の手順を、いくども練り直した。おもに源太のためだ。ところがその心配は、とつぜんに必要なくなった。

 朝起きると、源太の脚が目の前にあった。夜のうちに梁に帯を渡して首を吊っていたのだ。

(ばかなことを。もう少しの我慢だったんだ)


 腹立ちと悲しみが平次を同時に襲った。大工だった源太の父は怪我で身体が利かなくなり、息子に似て肉付きの良かった母親は、とっくに男を作って出て行ってしまった。もう帰るあても無かったのだろう。

 思い出すと店がまともなころも、あいつは薮入りにも家に帰らず、平次からすればつまらない田舎芝居を見て回っていた。一番の気に入りが、吉左という義賊の話が得意の人形芝居の一座だった。

 

 出し物の筋はおおよそ決まっていた。いばった連中から金を盗んだ吉左が、煙のように姿を消してはまた現れ、貧乏人に分け与える。だが一座は客筋によって柔軟に筋を変化させた。その日の観客に小僧が多いようなら、いじめられた小僧のために主人を懲らしめてくれる話を加えて演じるのだった。

 吉左なんて落ち着かない名だな、と思ったものの、勧め上手の源太に誘われ平次も劇を観にでかけた。その日も平次たちみたいな客ばかりだったのか、吉左に懲らしめられた商人は改心し、最後には娘を丁稚に妻合わせるのだ。その夜、「いくらなんでも子供騙しだ」と、源太にからんだのを覚えている。

 

 それでも梅雨時までは、まだ源太には行きたい芝居の話をする余裕があった。吉左、助けにこないかな、と平次の顔を見て笑い返すだけの元気もあった。

 だから、彼が明るさを失ってしまうと、今度は平次が、

「大丈夫、そのうち吉左が助けにきてくれるさ」と、笑わせるようにしていたのだった。あいつはあての無い励ましと思ったかもしれない。こっちはほとんど本気だったのに。くそ。ちょっとぐらいあいつに明かしておけば良かった。

 

 源太が首をつった朝、彼の死を知った仁蔵は、鼠の死骸を見つけたのよりも不快そうな顔をした。弔いどころか平次には、隣の薬屋から荷車を借り、無縁仏を引き取る寺まで彼を運べ、と言ったのだった。

 そして、源太が死ぬ前に漏らしたものを平次が掃除しようとするのを見て、

「死ぬ事もきれいにでけへんのかいな」とまで言った。

 その言葉によって、平次は計画の前倒しと、一部変更を決意した。

 ならば、きれいに死んでみろ。


 風のない静かな夜がきて、平次は座敷の前にいた。

 ぴーぴーいう細い音とくぐもった太い音、二人分のいびきが聞こえる。彼は手に、ばかでかい玄翁に自ら手を加えた道具を持っていた。かっぱらいの頭だった当時、喧嘩用に工夫したが危険すぎて使えなかったものだ。尖らせたその先端を、指で触れて確かめる。ひんやりした鉄の感触が心地よく、同時に恐ろしさを感じさせた。ちゃんと焼きが入っていて柄も工夫してある。振るえば人の頭ぐらい一発で穴があく。

 今日の夕暮れ近く、平次は源太のわずかな持ち物を、わざわざ納屋へ片付けはじめた。そこで奥から酒の角樽を見つけてみせた。

「おや、前の旦那さんが忘れたのかな」と、言った台詞はちょっと空々しかったが、吝嗇な仁蔵はすぐに飛びつき、さらに吝嗇な甚兵衛に知らせた。熟した古酒はたまらんそうだった。

 奴らが酒を店で飲む日が決行の日だ、と決めていた。だが、なんとじんじんはその夜にすぐ飲みはじめてしまった。彼らなりに気を遣っている「大旦那」への上納にめどでもついたのかと耳を澄ませたら、単に我慢ができなかっただけのようだった。

 自分を殺したのが、こんなに卑しい間抜けでは、番頭さんも浮かばれまい。 


 話し声が止んだのを確かめてから、それでもしばらく戸の前にたたずんだ。度胸を決め、静かに部屋に忍び込む。薄暗い行灯の光の中、二人は仲良く火のない炬燵に入り、それに覆い被さるようにいびきをかいていた。

 平次は眠った二人を前に、そのまま立っていた。腹は決まっていたが、できればやりたくない。いくら悪あがりでも、人を殺すのははじめてだった。しかし、他国ものの彼らの素性はよく判らない。ここできっちり始末を付けておかないと、この先も危険は付いて回る。

 こいつらは人ではない。彼の脳裏に番頭さんのへの字に結んだ口元と、お嬢さんの満月のような笑顔が浮かんだ。平次の父親は武家に手打ちにされたのだったが、そいつへの怒りとは、ぜんぜん別の怒りだった。むしろ二人に対する方が、ずっと生々しい感情である。殺さねえとだめだと、もう一人の自分が言った。

 

 息を整え、古い家具をばらすようなつもりで、まず不愉快な仁蔵のこめかみにふりかぶった鋼を叩き付けた。

 余韻のないくぐもった音がして、先を尖らせた特製の玄翁は半ばまで埋まった。外す方が苦労した。思ったより出た血は少なく、灰色の気味の悪いどろどろが付いていた。もう一発。そして、込み上げる吐き気を我慢して、甚兵衛の方に回った。

 今度はじっと様子を見る余裕が出てきた。まったく起きる気配がない。やはり水増ししていない酒を、高い金を出して買っただけのことはある。

 同じように甚兵衛にも二回、叩き付けた。一瞬びくっとされ平次も肝が冷えたが、そのまま動かなくなった。

 

 平次は鼻から大きく息を吐いた。確実を期して、もう数回ずつやった方がいいのだろうが、どうにも嫌だった。

 息を確かめる前に、後ろで人の気配がした。血の気が引いた。平次はとっさに横に飛んだ。

 ねぼけた顔をしたひげ面の男が、部屋に入ってきた。崩れたまげは、一応侍だ。そうだ、床の間に刀が置いてあったかも知れない。たまに二人を尋ねてくる浪人者だ。こいつも因縁をつけて源太を蹴飛ばして笑っていた。いつのまに店に入り込んだのか、他にも連れはいるのか。平次は混乱する意識をまとめながら、灯の影で様子をうかがう。

 浪人者は、あごをかきながら、しばらく卓に突っ伏して動かない二人を見ていた。どこかおかしいのに気づいたようだった。身体をかがめ、二人の呼吸を伺うようにした。そして、大きく目を見開いて、振り向いた。

 その瞬間、平次はその額めがけ、両手で特製の玄翁を思いきり打ち込んだ。

 手に嫌な衝撃が伝わる。

 浪人者は一瞬、動きを止めて、そのまま身体を崩れさせた。

 死んだ。三人ともだ。

 つぎつぎと湧き上がるさまざまな感情を、平次は後始末のために素早く動くことでごまかした。


 買い置きの油に、こっちは本当に前の店の残りである古い油を足し、平次はじんじんと浪人、そしてその周辺に丁寧に撒いた。さらに隠してあった源太の死体を自分たちの部屋に担いで行った。気温はかなり寒く、まだ臭いはしていなかった。手を合わせてから、源太にも油をまいた。

 焼け跡からは四人分の消し炭が見つかるはずだ。いちおう、薬屋には死んだ源太を運ぶ振りをして見せてある。あいつが忘れなければ、町役人には死んでいるのが平次だと言ってくれるはずだった。薬屋もついでに焼け死ななければのはなしだが。荷車を貸すのをあれほど嫌がった奴など、そうなっても構わない。

 

 彼らの部屋が、二階から一階の厠のそばへ移されていたのは、この場合は都合が良かった。ほぼ平次と同じぐらいの体格の源太は、重かった。苦労して冷たくなった源太を布団の中に置くと、しばらく顔を見た。目を閉じた源太の顔からは、無念だったのか、ほっとしたのか、どちらも読み取れなかった。

 暖かみのなくなった頬をそっと叩いた。

「源太、源太、お前にもっと早くたくらみを教えておけばよかった。悪かった」

 油を撒きおえて部屋を出て行こうとして、平次は自分でも理由の判らないまま、もう一度源太の顔に自分の顔を近づけた。そして言った。

「待たせたな。吉左は、いまきたぞ」


 店にはそこそこの額の小判が置かれてあったがほとんど手をつけなかった。子供が使えば怪しまれるだけだからだ。かわりにありったけの細かい金をかき集め、胴巻きに入れた。ついでに証文の隠し場所にも油を撒いておいた。すべての準備を終えてから、行灯を倒し素早く外に出る。

 彼は身体を隠したまま、悪い思い出ばかりではなかった店をながめていた。そのうち、どこからか煙の匂いがしはじめた。

「お別れだ、源太」

 反対側に向き直り、身をかかがめて一挙に川沿いまで駈けた。うまい具合に風はない。火が燃え広がっても、おそらく空き家ばかりの「別れ」だけで消し止められるだろう。薬屋のことは、別にどうでもいいが。

 川番屋にだけは注意して、そこを越えてから舟に乗るつもりだった。川番屋の先、二つの川が合流して広くなる少し手前に、前から目をつけていた舟があった。灯は持っていないので、闇に馴れてきた目であたりをじっと見つめた。ちゃんとあった。けっこうぼろで、底もぬるぬるしていたが、まだ使える。持ち主のじいさんは、腰を痛めて当分は出てこれないはずだ。

 平次の父は、川漁師だった。じんじんには決して話さなかったが、彼も舟は上手に扱えた。なにが役に立つか分からねえよな、源太。ましてや、あいつらを片付けるのに使えるなんて。漆黒の中に竿を使って舟を出した時だけ、少し戸惑った。昔より、ずっと身体が大きくなったのを忘れていた。


 舟を走らせると、水のにおい草のにおいを鼻孔に感じる。付近に宿屋や女郎屋はない。夜に舟は行き交わず、ほぼ真っ暗なのは好都合だった。しかし、寒かった。落ち着いているようでやっぱり慌てていたようだ。着替えを忘れた。どこかに血が付いているかもしれないので、朝になるまでに古着を手に入れなければならない、と平次は思った。

 しばらくすると流れは急に緩やかになった。広い水路に辿り着いたようだった。ずっと先にはぼんやりした光も見えるが、手前は黒く染まったように見えない。遠くに半鐘の音が聞こえた気がした。行き先にはだいたいのめどはつけていたけど、たどり着けるか自信はなかった。

 あての無い賭けはするな、と番頭の半兵衛はいつも戒めた。だが世間は生きている。どれほど準備をしても、研いだ刃物の上をいっきに跨がなけりゃならない時が、必ずくる。

「もし、そうなったら」記憶の中の半兵衛は、にやりとして言った。「考えに考えたそのあとは、みんな忘れてひと思いに飛びな」

「番頭さん、これがそのことかい」と、平次は声に出して言った。返事はなく、カワウの鳴き声とおぼしき音が聞こえただけだった。

 彼は目の前の暗闇にむけて、もう一度舟を漕ぎ出した。

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