夜嵐 鬼没の怪盗「煙」一味vs盗賊改
布留 洋一朗
第1話 十八年前 親兵衛 目覚め
1、十八年前 親兵衛
山あいに短く、馬のいななきが響いた。
続いて鋭い声がした。こちらは人による罵声である。荷馬と、それを引く馬子がもめていた。
馬は、仔馬かと思うほどほっそりしていて、手綱を奪おうと首を何度も振る。馬子が空いたほうの拳を固めると、別の男が割って入った。これまた大人になりきっていなさそうな体つきをしたその男は、殴ろうとした馬子に謝りつつ、馬の背を懸命に撫ではじめた
彼とは相性が良いのか、まもなく馬は従順になった。
しきりと馬に話しかける男の顔は、百姓風の姿とは不釣り合いに色が白く、顔立ちは冷たく見えるほど整っている。ただ、馬に向けた表情はどこかまだあどけない。せいぜい十四、五の少年だった。
馬と少年の微笑ましい姿に、手綱を持つ馬子が不満げに鼻を鳴らした。こちらは少年より少し歳が上のようである。「おおいお前ら」先頭の馬子からのんびり声がかかった。「どうした、またかあ」
馬は二頭いて、それぞれ二人の農夫風の男が付いている。先頭がまた言った。
「お互いそんなに似てるのに、どうして仲が悪いんだあ」
後方の馬子はムッとした顔になったが、黙ってふたたび馬の轡を取った。言われてみれば、こちらはやや顔が長い。
二頭と四人の一行を取り巻く山々は、いずれもたおやかで低く、勾配も穏やかである。一行のいる道もまたなだらかで、前に進みさえすれば整備の行き届いた街道筋へと抜けられる。それもあって普段は人や馬の行き来が盛んだ。
山全体が紅葉に染まるにはまだ間があったが、晴れていれば緑と黄色の混じった賑やかな風景は、目を楽しませてくれただろう。
だが、あいにく今日は朝から降ったり止んだりの天気が続き、人出も普段より目立って少ない。昼を過ぎても空は重たい灰色に覆われ、視界は悪くなる一方だった。
一行も雨よけをつけたままだ。馬の荷には藁が巻かれ、男たちは蓑笠を背負っている。先頭の男だけ笠が高みに浮いているように見えるのは、彼の背がひときわ高いせいだった。
長身の男が手綱を引いた先頭の馬は、ひどく年老いていた。さほど多いとも見えない荷を重たげに背に乗せ、慎重に前へと運んでいく。
しかし、元気なはずの後ろの馬はさらに遅れがちだった。ときおり手綱の持ち主に反抗の態度を示し、そのたびに前と距離が開く。長身の男はときどき振り返って様子を確かめるが、特に急がせるそぶりはなかった。
小雨が降りはじめた。
雨音がだんだん強くなると、水しぶきを飛ばしつつ後方から急ぎ足の男がやってきた。目深く笠をかぶり、駆けるほどの速さのまま、みるみる一行との距離を詰めていく。
気づいた長身の男は、道端にあった祠の前に馬を止めて、飛脚らしい男を先に通した。
彼はそのまま雨降りを気にせずに笠を脱ぎ、背中をかがめて腰を落とした。丁寧に祠に手を合わせる。
痩せた顔には細かい皺が刻まれていた。しかし目つきに溢れる著しい生気は、老馬とのんびり歩くにしては強過ぎるかもしれない。
残った三人のうち、最後尾の少年だけが笠を脱いで同じように頭を下げた。あとの二人は蓑笠をつけたまま所在無さげに立っていた。
祈りを終えると、先頭の男は視線を周囲に走らせ、あたりの様子をうかがった。
「よし」男は立ちあがった。「ま、油断しないに越したことはない」とひとりつぶやいてから出発の合図を送った。一行は再び歩きはじめた。
だが、休憩が短く切り上げられたのが気にいらないのか、また後ろの馬に落ち着きがなくなった。そのうち、
「ああ、もうっ」と甲高い悲鳴が上がった。
若い馬面の男は地団駄を踏み、
「いい加減にしろ」と馬を罵りはじめた。
「おおい、惣八。こんどはどうしたあ」先頭からまた間延びした声がかかった。
惣八と呼ばれた馬面の男は「い」まで口にして、「お、お父っつあん」と言い換えた。「こいつ、噛むんです。腕に、尻も」窮状を訴えかけたが、
「おお、そうか。苦労をかける。蹴られんように気をつけろよ」
頼りのお父っあんからは、のんびりした返事しかなかった。
「もう我慢なりません、なんとかお願いします」惣八が余裕のない声をあげても、
「なら、最初から言ってるように、綱を代わって半四郎の後ろにつけ」と、お父っつあんはにべもない。半四郎というのが馬をなだめる少年の名だった。すると惣八は、「いえ、それはまたそれで」急に曖昧な態度になった。
一行はふたたび、雨の降る道をゆるゆると進みはじめた。
「ちっ。ただ見てるだけかよ」
思うように行かなかった惣八は、今度は半四郎に当たりはじめた。
歳上なのを振りかざし、歩きながら説教口調でしつこく文句を言い続ける。
曰く、この馬は生粋の駄馬で理解がし難い。おぬしもそうだ、考えが読めん。駄馬と同類に思われたくなければ、もっと気を利かせろ。手をこまねいてないで、たまには殴ってでも言うことを聞かせろ。
「だいたいおぬしは……」そこまで言って半四郎と目が合うと惣八は黙った。 二人には、歳の差より際立った違いがあった。
惣八が馬面に加えて険のある、癇性の顔立ちなのに比べ、半四郎は表情こそ乏しくても、そこだけ明るく感じるほど美しく賢げな顔をしていた。蓑からのぞく身体つきはまだ成長しきっていないはずなのに、手や首、胸に妙な厚みがある。不思議な感覚を覚えて惣八は戸惑った。
(ほんとに男なのか、女じゃないのか、こいつ……)
しょんぼり雨に打たれる儚げな少年を、からかう悪事を惣八は思いついた。尻でもさわれば黄色い悲鳴を上げるかも知れない。うつむく半四郎に、ほくそ笑みながら手を伸ばしかけたそのとき、惣八は強い悪寒を覚えた。
思わず後ずさりする。得体の知れない気配が半四郎の周囲で渦巻いた。
(まさか、な)
気配は、怯えた惣八を嘲笑ったように思えた。
あらためて半四郎を見る。別に何かがいるわけでなかった。惣八はぶるっと肩を震わせた。
するとようやく、黙っていた半四郎が口を開いた。
「では、わたくしが綱を持ちます」
言下に惣八は、「そんなんじゃない」と顔を背けて答えた。しかし、彼は安心もしていた。半四郎の声音はあくまで少年のそれで、もののけとは縁がなさそうだったからだ。
(風邪でもひいたかもしれん、きっと熱があるに違いない。先を急ごう)そう考えると余裕ができた。
「ここまできたら、どこで誰に会うかわからんだろ」惣八はまた説教口調に戻った。「その時にお前が手綱を持っていたら面白くない。それが分からんのか」
一連のやり取りを、遠くからつぶさに見つめる男が二人いた。
彼らは見通しの良い斜面にある灌木にムシロ小屋を隠していた。人目につかないよう、丁寧に藁や葉を盛り上げその中にもぐり込んでいる。二人がやっと並ぶ狭さのうえ湿気がひどく、快適には程遠い。
黙々と役目に従う男たちにも温度差はあった。若い方が女湯でものぞくように熱心なのに比べ、年かさの見張りは身を布で拭ったり仰向けになったり、小さく運命にあらがっている。
荷馬一行が歩き、見張り二人が睨んでいる道は、この先にある小さな谷を渡ると二つに分岐する。右の登り道をとれば、そのままこの国のお狩場へと抜けられるようになっていた。
大きないくさの余韻がまだくすぶる時代には、藩主一族によってここで鷹狩りが盛んに行われ、武威を四方に示すのに利用された。だが、百年以上に渡って太平が続けば人心はすっかり変わる。武士からしてそうだった。
広々としてほどよく緩急のある、馬で駆けるのに一番いい場所は、風の通りを好んだ藩主一族が保養地にしてしまって批判する者もいない。それ以外は、もっぱら許可を受けた猟師らが小鳥やウサギを追い、ときどき立派なイノシシが罠にかかった。
「おっ、あれはどうかな。前のよりずっとそれらしい」
若い見張りが、さっきの一行について年上の相棒に聞いた。
蓑笠に隠れ、裾を大きくからげた四人の姿は、専門の馬借と見るより、貧しい荷をもくもくと運ぶ百姓の一行と見るのが自然だった。
しかし遠目のきく見張りは馬と荷、人との取り合わせが、「どうにも引っかかる」と訴えた。
「そうかな。はなから疑ってかかるから、なんでも怪しく思えるのさ」相手は気の無い返事をした。
若い見張りは荷の量の半端さや、足元の悪い日に老馬を使う不自然さを指摘し、これまた不自然な若馬の轡を取った馬子にも触れた。馬と調子を合わせられず、見ている間にも馬は首を振ったり止まったり。あまりに素人臭い。
「誰だって初めてはあるさ」
相方はそうなだめたが、意を決した若い見張りは、茂みに身を隠しつつ最接近を試みた。相手の前進を利用して顔を確かめるつもりだった。
やってきた。
先頭の男は顔の大半が笠に隠れているが、痩せて長身なのはすぐ確認できた。口元のしわから年齢は中年以上と知れる。一方、だらしなく笠をかぶった連れの顔はわかった。まだ若い。ほおと顎が丸く二十歳を超えてはいまい。
突然、後ろの馬子が濡れた地面に手綱を叩きつけた。真面目くさって馬を罵る顔はまだ十六、七だった。ついに彼は馬を捨て、すたすた先に行ってしまった。遅れた後ろの馬に取り付き、なだめようとはかる男の顔も見えた。土くささなど微塵もない、清げな少年だった。
それがはっきりわかったのは、少年もまた、怪しむ視線を見張りの潜む茂みに向けたせいだった。だが、激しく降り出した雨がそれ以上の追及を封じた。惣八が駆け戻ってきて、馬を打とうとしたからである。馬が遅いせいで大雨に降られたと言うのだ。半四郎は懸命にそれを止めた。
そこまで確認すると、豪雨を利用して見張りは隠れ場所へと戻った。そして、
「知らせてくる」と相棒に伝え、体を低めたままいずこかへと走り去った。
「熱心だな。そう焦るなよ」
取り残された年かさの男が、横になったまま狭い見張り小屋で言った。表情は苦かった。
彼は狭い天井に向かって言った。
「もしあれが井ノ口様なら、黙っていてもに旅はじき終わる。連れも一緒だ。柚木様が井ノ口様に組した者を許すはずもないからな」
そして男は目を閉じた。
「なのに当の井ノ口様は、そこまで憎まれているとは夢にも思っておられぬ。頭がいいのと、人のねたみがわかるのとは別だ。なあ、あまりに哀れだと思わないか。あれほどのお人が、こんな嫌な天気の日に死を急かされるなんて」
雨脚が強まった時、長身の男は立ち止まった。
ひどくなった雨に戸惑ったように見えたが、その男、井ノ口は現在地を確かめていただけだった。彼は安心したように上機嫌な声をあげた。
「おお、ここまでくればあとはほんのわずか。よく我慢してくれたな。間も無く小屋に着くぞ」
彼は振り返り、馬の横を歩く太った若い男、寺田に言った。後ろで惣八と馬がまた揉めているのは、無視をした。
「目指す場所は、表向き小屋と言い慣わしていても、夏になるとお別家が二十人は引き連れてお泊りになる。着替えなどいくらでもあるさ」
さらに彼は長い首を伸ばすようにして、遅れてついてくる二人にも、「あと少しだ、ふんばれよ」と声をかけた。返事はなかった。
「今日、そして明日のことは必ず将来、若いお主たちの血となり肉となる。選んだのはそのためだ。励めよ」そして、井ノ口は懐に入れた手紙にそっと掌を当てた。しかし寺田の返事は井ノ口の予想とは違った。
「はあ。しかし着替えより、食い物が足りなくはありませぬかな」
「さっき、弁当を食ったところではないか」
「一刻も前です。とうに腹から失せました。それに、弱音は吐きたくありませぬが足もひどく痛い」
愚痴を聞いた井ノ口は、怒るかわりに笑い出した。
「情けないこと言うな。お前ぐらいの歳の百姓なら、このぐらい毎日歩かされてもびくともせんぞ」
「仕方ありません。私は町ものにございます。この姿も慣れませんし」
「町ものか。そうだな、田舎暮らしは難しいな。しかしこれからはどうかな」
道程も終盤を迎え、安堵したのか井ノ口の口が軽くなっていた。
「いまは仕方ないが、一段落したら鍛え直さんとな。頭でっかちではいかん」
「はあ」
「その気の無い返事はなんだ。だいたい、この格好で昼間に堂々と街道を行くというのは、おぬしの父親の思いつきなのだぞ。喜んだのはわしだがな」
「ははあ」
「馬子に化けるとは面白いだろう。それに子供ばかりだから、万が一捕まっても命まで取られまい。わし以外はな」
命と聞いて、寺田は急に苦い薬を呑んだような顔をした。
「ここだからお尋ねしますが」彼は左右を見回して言った。一転して眉宇が八の字になっている。不安げだった。
「事態はそれほど差し迫っているのでしょうか」
井ノ口の軽口が止まった。
「父は家でも一切何も申しません。ただ、父に近いところから、『もうこの国はおしまいだ』との声を聞きました。母は冗談に決まっていると申すのですが」
「ふむ。おしまいとな」
「はい」
井ノ口はしばらく前を向いていたが、「そうだな。確かにもうおしまいだ」
「うっ」それを聞いて寺田が喉の詰まったような声を出した。「やっぱり」
「違う、手をこまねいていればの話だ」井ノ口は慌てながら訂正した。「まだ間に合う。いや間に合わせねばならん」
説明をはじめた井ノ口はまず、
「国元が、かつてない異様な事態なのは間違いない」と認めた。半年ほど前に江戸から帰国したが、自分の目で見て確かめるまで、かくも無法がはびこっているとは信じ難かったと彼は言う。
「半信半疑で国に戻ったが、状況は想像をはるかに超えていた」単純なお世継ぎ騒動をはるかに超え、内乱状態にあるに等しいと井ノ口は断じた。肝心の世継ぎ候補たちは江戸にいて涼しい顔をしているのに、なぜ国元で、ここまで揉めねばならぬのか。
「それに」彼は一段と険しい顔になった。「時間もない」
いくら藩主家が名門で対外政治力があるとはいえ、江戸表の不審をごまかすのはもう限界にきている。「なのに大勢がそれに気づかぬ振りをし、日々を送っている。まるで国全体が怪しい術にかかったかのようだ」
小さな派閥に分かれ、熱に浮かされたように互いを攻撃する連中と、それを見ながら顔を伏せて暮らす大勢の人々。刃傷沙汰も絶えない。こんな状況が公になったら、取り潰しは免れまい。
「元亀天正の昔ではあるまいし、三日に一度は血なまぐさい話が耳に飛び込んでくる。おまけに人々はその異常に慣れた顔でいる。一番驚いたのは」彼は後方をみた。「あれにいる沢村の兄が命を落としたというのに、誰も真剣に下手人を探さない。あの、沢村林太郎ほどの男が横死したのだぞ。わしが帰国したのも、それが信じられなかったからが……」
井ノ口は呻くように言うと、黙った。
彼らの頭上に雨が勢いよく降り注いでいる。
寺田が思いついたように聞いた。
「沢村の兄とは、お親しかったのですか」
「ん、そうだな」井ノ口は頷いた。「歳はわしが父親でもおかしくないほど違う。だが林太郎殿は別だった。むしろ林太郎殿のおかげで年上のわしが蒙を拓かれた。おぬしはどうだった」
「いえ、もちろんお顔は存じております。が、親しく話をしたことはありません」
「はは」井ノ口は小さく笑った。「異人みたいに目立つ顔だったし、独特の雰囲気があったからな。誤解を招きやすかったのやもしれん。もちろん、奇行に意味はあるんだ。だが説明させると難しくて長い」
「私の姉など、それは驚いたと申していました」担当の馬と決裂した馬面の佐藤が、いつの間にかそばにいて、話に割り込んできた。
「ある日、母方の実家から帰る途中でした」佐藤はさも大ごとであるかのような顔をした。「あやつの兄がなんと肥溜めに向かって粉のようなものをふりかけ、その後腕を組んで座り込んだのを目にしたそうです。ひどい臭いがして、あたら綺麗な顔が台無しであったと」
「そうだった、そうだった。江戸に大坂に長崎、いずれにも学び新奇な知見を得た男だったが、凡人には理解し難かったろう。しかしおぬし」井ノ口は佐藤をかえりみた。「馬を離すのは良くないな」
「もう限界です。そばであいつの匂いを嗅ぐのも嫌でございます」佐藤は泣き言を言った。「いくら手配できなかったとはいえ、あんな性悪の仔馬。油断すると拙者の尻を噛むし、腕も腫れてしまいました」
「懐いているのではないのか」
「とんでもありません」
井ノ口は後ろを振り返った。
佐藤に代わって手綱を取った沢村半四郎は、かなり距離が開いてしまったとはいえ、逸れずに馬を引き引きあとを追ってきている。
「あの馬め、沢村とは気があうようだが」
「なにを考えているかわからんのは似ています。拙者はどちらも苦手です」
「おぬし、沢村と同門ではなかったか」
「いえ、剣術は違います」傷ついたように佐藤は強く反発した。
「私は梶藤兵衛先生の直門」彼は藩内で特に格が高いとされる道場の名を挙げた。「あの者は何がいいのか、ろくに稽古場もない師についておりました」
「ああ、そうであったな」
「おいおい、性分の合わないのは仕方ないが、もっと先を考えたらどうだ。態度が厳し過ぎるぞ」寺田が歳のわりに分別臭い口調でたしなめた。
「きつく当たるのがしきたりなのは、わかっている。おれもそうしてきたからな。だが、いくらしきたりであっても、真に受けて対等の口を聞きすぎるのもなんだぞ。どうせ誰かにあおられたんじゃないのか」
「いいえ、しかし……」佐藤は悔しそうに口を引き結んだ。
「いいにくいが、おぬしの家柄では、のちのち意趣返しされても逆らえぬ。男は二人だけだったから、やつが家督を継ぐのは間違いない。沢村といえば五郷家の一角。これは父の受け売りだが五郷家といえば、かつての威光はすっかり褪せたとはいえ、昔はお上でさえ……」
「まあまあ」見かねた井ノ口が割って入った。「沢村が兄と考えが同じなら、生まれだけでおぬしらを見下したり、意地悪したりはせん」
「沢村の父親が悪いというのはまことですか」ふくれ顔で佐藤が聞いた。
「思い切ったことを聞くなあ」井ノ口がたしなめるように言った。「確かに林太郎殿の件があってから、とみに病気がちになられた。先年奥方も亡くされ、かなりこたえておられるのは事実だ」
「井ノ口様はそのあたりの事情、詳しくご存知ではありませんか」そう問いかけた寺田に、
「いや、親父様とはさほどな」彼は首を振った。「昔はほれ、おっかない方だったし。それよりむしろ、亡くなった林太郎殿とは歳の差や損得抜きに付き合えた。半四郎が今日、黙って誘いに乗って着いてきたのは、そのあたりを知っていたからだろう。家にも連れてきたよ。歳の離れた弟を、ことのほか可愛がっていたからな」
当の半四郎は井ノ口らに大きく遅れをとりながら、「まあ、そう言うな。もう少ししたら、乾いた藁で拭ってやるから」などと根気強く馬の機嫌をとりながら、歩き続けている。
「ようし。やっとだ」井ノ口は目前の坂を指で指し示し、後ろを振り返った。
「無駄話はここまでだ。これを登って、右に曲がれば自然と小屋は目に入る。教えただろう、小屋と言ってもお前たちの家より大きいし、作りも贅沢だ。探さんでもわかる。ほら佐藤、戻って手伝ってやれ」
「丈高い男が引き連れた一行が百石谷に姿を現したとの知らせです。まず井ノ口樣かと。百姓姿で馬を引き引きとのことですが、さほどかからずにここまで参りましょう」
報告者が百姓のような藁の雨具姿なのに比べ、報告を受ける側は短い合羽を羽織っているだけだった。
彼の佩刀をはじめ身なりは薄暗い光のもとでも凝っているのがわかる。それにほとんど濡れてはいなかった。
その上級武士風の男、年かさの見張りが柚木と呼んだ人物は、古びた山寺の本堂に床几を置き土足で座っていた。周囲を7人ほどが取り囲んでいる。彼はそのままの姿勢で、
「井ノ口のほかは誰なのだ」と聞いた。
「物見によると、井ノ口様のほかは三人。いずれもかなり若かったとのこと。先ほど届いた小野様よりの知らせに当てはまります。内容に誤りがなければ、残りは寺田と物頭の佐藤惣蔵のせがれ、そして沢村様のご次男」
柚木は立ち上がって言った。
「朝のようにお屋敷が汚れそうになってはいかにもまずい。必ず中に入る前に仕留めよ。井ノ口はしぶとい男だからな、ためらわず弓を使え。押し包んで四人まとめて始末せよ。朝の連中もこうすればよかったのだ。外なら雨だから掃除も楽であろう。それと、井ノ口がどこかに隠し持っている書状は、破れても構わぬ。とっくに会合はご破算になっているのだからな」
「お言葉を返すようですが」報告者が言った。「井ノ口様だけでは、どうしてもいけませんか。あとはまだ、ほんの子供です」
「そうは思わんな。子供であろうが目も耳もある。口だってあるぞ。要は禍根を残すなということだ」
「しかし……」
「はやくしろ」柚木は厳しく言った。「お前の気にするのは寺田か、それとも沢村の息子か。寺田の親なら目付を外れたし、沢村も気にするな。揉めてもお別家がなんとかして下さる。話はついた」
「そうは申しましても……」
「もう言うな」彼は相手を追い払うように手を振った。「沢村の小せがれめ、なにを血迷ってあいつらに加わったかは知らんが、身の置きどころを間違えたのだ。さっさとあの世に送ってやれば、兄弟仲良く手を取り合えるだろう。ま、異国風をあれほど好んだ男であれば、違うあの世にいるかも知れんがな」
当人だけがさも面白そうに笑い、他の男たちは黙っていた。男たちは口をきかないまま、配置についた。
わがまま馬に戻れと言われた佐藤は、結局のところ馬の世話を半四郎に任せっきりにして、寺田とヒソヒソささやき合いながら並んで歩いている。
井ノ口は、背後の二人を諦めたのかどうかわからないが、自分から無駄話をやめると言ったにも関わらず、前より独り言に夢中になっている。
まもなく到着との思いが彼らを油断させていた。
「些細な意見の違いにとらわれず、大道を選んでこの難局を乗り越えれば、遠からず春が来よう。さっきわしは、この国はもう終わりと言ったが、あれはこのまま憎しみあっていればとの意味だ。まだ道はある。いや、自ら道をつくらねばならん。急ごう」
井ノ口はやせた胸をそらすと、「これは沢村林太郎の教えでもある。おろかなわしには、意味がわからなかった。このごろようやく、腹にこたえて理解できるようになった」
井ノ口は手綱を手にしたまま、また後ろを振り向いた。彼から遅れて若者二人、そしてかなり後方に貧相な馬と少年が見える。半四郎は相変わらず、顔からは内心がわからない。井ノ口はかまわずに続けた。
「そう怒るな。逃げを打つようだが、はじめわしは反対だった。このような馬鹿げた争いにお主たちを巻き込むのはな。だが、三年も続けば、もう御家騒動ですらなく戦だ。あちらは他所で集めた浪人まで雇い入れておるそうではないか。だから考え直した。おぬしたちが歳の割にしっかりしているのもあった」
せっかくの井ノ口の心情吐露も、寺田と佐藤にすら届いていない。彼らは雨音に隠れて、穏やかではないことを小声で話し合っていた。
「知っておるか」寺田が佐藤に、どことなく自慢げに言った。「このまえ、堀端でよそ者がくびれ死んでいただろう。あれは江戸からの間者だったとの噂だ。どうやら愚か者たちが誤って殺してしまったらしい。やることなすこと、悪手ばかりだ」
「あのう」恐る恐る佐藤が聞いた。「渡辺様が急死なされたのも、それにかかわりが……」
だが寺田は、かぶりを振った。
「ああ、あれな。あれはよくわからん。目付連中にも誰の仕業か見当がつかぬらしい」
「そうですか」
「前に父上の下にいた者からは、おそらく仲間割れだろうと聞かされた。ただし、変に口を出すとろくなことにならんので、黙っているそうだ」
「確かに圭角のある方でした。それでも、あれほどの遣い手をやすやす仕留められるものでしょうか。罠にかけられたのではないかと、もっぱらの噂です」
「そうだな。正面から立ちあったとは考えにくい。でもな、決して人に言うなよ」
寺田は一段と声をひそめて囁いた。「渡辺の死んだ日と前後して師範代と高弟が一人、食あたりで死んだとの届けが出された。と、いうことは」
「ど、毒を盛られたって意味ですか」
「馬鹿だな。三人一緒にやられたんだ。それも、殺されたのは稽古場だったんだぞ。三人とも手に刀を持っていたらしい」
「えっ」佐藤は恐れとも興奮ともつかない顔をした。「あんなお城に近いところでですか」
「そうだ。すごい度胸だろう。掃除した者からは床が一面、血でぬかるんでいたと聞いた。だが、それ以外は誰も彼も口を閉ざしてしまう」
佐藤は鼻から息を漏らしたのち、周囲を急ぎ見回した。雨音は少しも静かにならず、二人の会話は井ノ口にすら聞こえてはいまい。
「やっぱり、斬られたのですよね」
「いくらなんでも弓、鉄砲ではなかろう。よほどの人数で仕掛けたか、酒で前後不覚にしたか。いずれにせよ剣術指南役を斬り殺すとは、そんな腕と度胸のあるやつがいるとは信じられん」
「そら、見えた」先頭にいる井ノ口があっさり言った。「な。小屋とは思えんだろ。誰も迎えにこないのは、仕方がない」
言葉の通り、水しぶきの向こうに、生垣に囲まれた瀟洒な邸宅がひっそり佇んでいた。井ノ口は邸宅を見上げて「さあ、乗り込もう」と宣言した。すぐ側にいる二人の反応は諦め、天と半四郎に向けて呼びかけているような口調だった。
当の半四郎は、まだ邸宅のかなり手前にいて、疑わしげな目つきであたりに視線を配っていた。とりわけ、道の途中にあった炭小屋と思しき建物が気になってならないようだった。
「井ノ口さま」彼は初めて声をかけたが、前の三人は気にもかけずにずんずん進み、ますます距離が広がった。
思い余った半四郎は馬を止め、自ら小屋を調べに行った。つっかえ棒をしてあった扉を力任せにこじ開ける。体格から想像しがたい怪力だった。
「明日の会合が全ての始まりになるだろう。事態は急変するぞ」井ノ口は半四郎の離脱にも気づかず、馬をつなぐ場所を探しながら演説を続けていた。
「もはや世嗣についての話など説明できる者はおらん。混迷を極め、さながら誰もが自分なりのお世継ぎを持つかのようだ。なんと愚かな」井ノ口は天に向かって語気を強めた。
「しかしな、まだ間に合う。派閥がどうのこうのいう時期はすぎた。急ぎ皆が心を一つにし、取り潰しをいかに避けるかを考えよう。あたらしい道とはそれだ。この荷は、この会合は、そのきっかけ。明日は、わしも声を上げる。なあに、同じ考えの者は多い。まだ充分間に合う」
「井ノ口さま」半四郎は呼びかけながら、離れてしまった井ノ口に駆け寄ろうとした。懐から小柄を取り出すと一層声を張り上げた。「お待ち下さい、先発組が殺されております」
しかし、激しい雨がせっかくの警告の邪魔をした。
「当分は不安で辛いだろうが、わしがおぬしたちに手など出させぬ。安心しろ。動き出せば……ん?」
遠くから走ってくる半四郎がようやく目に入ったのか、その必死の表情がわかったのか、井ノ口は眉をひそめた。
すぐに彼の目が驚愕に見開かれた。
弓が二本、胸と首から突き出ていた。井ノ口は黙ってかたわらを見た。
息を吸うかすかな音がして、寺田もまた驚いた顔で彼を見返していた。首の付け根あたりに矢が突き刺さっている。隣から佐藤の激しい咳き込みが聞こえ、すぐ雨の中に派手な水しぶきが上がった。そして動きの止まった彼らに対し、さっきに倍する弓が飛来した。
三人は、引きずり込まれるかのように地面に伏した。
よほど弓手の腕が良いのか、手綱を離された老馬は無傷のまま道をそれ、ようやく望んでいた休憩に入った。
手遅れなのを理解し、半四郎の顔から完全に表情が失せた。冷たい仮面を被ったようだった。
懸命に仲間の元へと接近中だった少年は、ふいに違う方角へと五体を転じた。
「それ、とどめを刺せ」
武器をひらめかせた集団が動けなくなった井ノ口たちに押し寄せた。ひどく興奮したまま、倒れている三人に槍や刀を叩きつける。すでに息のなくなった身体が、ぼろきれのように泥の中を右に左に転がった。
殺戮は前触れなく止まった。攻め手は誰も彼も息をあらげ、ずぶ濡れなのに顔を拭おうとしない。身体から白い湯気が立ち上っている。
後ろからのぞき込んだ一人が言った。「足りない。四人いるはずだ」
その言葉の終わらぬうちに、鋼の刃が降りしきる雨の束を切り裂いた。
声もなくさっきの男が崩れ、水しぶきをあげた。うろたえる攻め手の視界を、ゆらりと何かが横切った。悲鳴が上がり、水が跳ねた。半四郎だった。井ノ口が荷馬に隠していた刀を手にしている。
悲鳴に反応し、槍を持った男が振り返りざまに突きを入れると、半四郎は水に揺れる木の葉のようにやすやすかいくぐった。そして、槍遣いのみぞおちから胸に刀を突き刺す。返す刀で別の男の喉を斬ると、もうその場にはいない。男たちが入り乱れる中、小ぶりな影がゆらゆらと動き、そのたびに人が倒れた。
(様子がおかしい)
満足げな表情を隠さず、傘を差しつつゆるゆる結果を確かめにきた柚木が、異変に気付いた。ひとかどの剣客である彼は、一瞬で態度を変えて視界を拒む雨の中を駈けた。
雨脚はますます強く、白い滝のように天から水が降り注いでいる。
「誰も、いない。どこへ消えた?」抜き身を手に柚木はつぶやいた。手の込んだ拵の刀がみるみるうちにびしょ濡れの鉄棒になった。
探すうち、雨の跳ね飛ぶ地面に黒い塊が転がっているのを彼は認めた。一つや二つではない。警戒し、正眼に構えた刀を探るように前方に突き出しながら距離を詰める。
黒い塊が人の身体だと確信したとき、なにかが目の前に浮かび上がった。
柚木よりも低く、ほっそりした人影だった。雨具はなく、びしょ濡れだった。黙ってこちらを見た白い顔に見覚えがあった。
「沢村かっ」
武士は間髪を入れず刀を薙いだ。それと知られた剣の達者による申し分ない一撃であり、刃が滝のような雨を斬り裂いた。だが、半四郎は落ち着いてそれを見切ると、ゆっくりとも思える動作で間合いに踏み込み、柚木の腹部から背まで撫でるように刀を振るった。
柚木は足下に溜まった雨水の中に横倒しになった。
彼が最後に見た光景は、地に伏し雨に打たれている幾人もの男の中に半四郎がひとり突っ立っている姿だった。少年は井ノ口を探し当てると、その傍らに立った。
最後の一人が動かなくなっても、降る雨を頭から受けながら、少年は立ちつくしていた。
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