第27話 解明の兆し④
――こんな温かいお風呂に入れるなんて、何時ぶりだろう。
溢れんばかりの湯船に浸かりながら、ニーナは考える。
この世界に来るまでは、風呂と言えば冷たい水で汚れを落とすのが普通だった。戦争が始まる以前は銭湯で温かいお湯に浸かるのが、日常だったのに。
しかしその時の記憶は、既に彼女の記憶には残っていない。
あるのはうっすらと見え隠れする、陽炎のように儚い思い出のみ。当然だ。戦争が始まって、はや5年以上も経っているのだから。
水は魔法で作り出せても、魔法で温めることは出来ない。蒸発してしまうのだ。
銭湯に行けば、巨大なガスコンロのようなもので下から火に掛け、水を湯に変えていたが……戦争のため外出できず、それから風呂と言えば水浴び。これがニーナの常識となった。
その世界では水は扱いが難しい。
開発された新魔法でさえ熱湯が大量に出たりと、全く持って便利ではなかった。
風呂に入れないのがニーナだけか、と聞かれるとそれはまた異なる。むしろ、他の人達は魔法で濡らしたタオルで身体を拭くだけという、もはや入浴とは呼べない、質素なものとなっていた。
その原因もまた戦争にあり、このせいで水が貴重な資源と化していた。
今のように、身体を動かす度にお湯が溢れ出すのなんて、初めてかもしれない経験だ。
「はー、ミズキに何かお礼しなきゃなぁ」
ニーナがこの世界に来てから、珍しいことばかり起きている。
美味しい食事に温かい風呂、観覧車に乗るのも初めてだ。そのどれもが彼女にとって真新しく楽しいものであり、全て瑞樹のお陰であった。
(ミズキがエゴイストって言ってた、理事長? は怖かったけど……。前の世界よりは全然楽しいや)
理事長の恐ろしさは、異世界人にも通用するらしい。表情も目付きも恐怖は感じないのに。
その人物の雰囲気というものが如何に重要か、よく分かる。
転移前の世界も、ニーナを取り巻く環境はそこまで悪いものではなかった。
ニーナがどう感じていたのかは兎も角、客観的に見れば優遇されていたと言える。
それは、ニーナを監禁した人物の目的が、彼女の魔法を利用して楽な生活を送るためだったから。
その人物も、瑞樹と同じ研究者でだった。ただし研究する内容は、ニーナに教える新しい魔法。
新しく魔法を習得するには、それがどのような魔法なのか熟知する必要がある。
彼は、ニーナに開発した魔法を教える役割を担っていた。
その魔法は便利なだけはあり、開発した魔法はどれも、鍵への消耗が激しかった。それも、ニーナ以外では二度と使えない位に。
彼は理事長なんか目じゃないほど利己的だった。自分のためなら犯罪を犯すのも厭わないと思えるまでに。実際、誘拐は犯罪である。
それでも彼はニーナを満足させることは、止めていない。なぜなら、彼女が魔法を使ってくれなければ何も始まらないから。
その甲斐あってか、ニーナの生活は贅沢の限りを尽くすものとなっていた。……風呂を除けば。
やがて戦争が勃発し、食事は保存食に任せるしか無くなり……。
しかし、戦争になる事を見越して、食料は大量に保存していた。それも、普通に食べればしばらくは持つ量であり、その建物内では作物も育てていた。
それでもニーナは、贅沢を止めなかった。いや、止められなかった。
残りの食料が底を尽きそうなると、彼女を捕らえた者を逆に縛り上げ、消費を抑える。作物はとうの昔に枯らしてしまっている。
しかしこれでは一時しのぎにしかならず、当然腹も減る。
ニーナが建物から出たのは、食料を求めての事だった。明確な行く当てもなく、ほとんど気まぐれに近いものだったが。
彼女は確かに楽な生活を送ってきた。思うがまま、自由奔放に。全てが自らの裁量で行え、何の制限もない。
文句の付けようのない生活。
それでも、楽しい生活とは程遠かった。
好き勝手できるとはいえ、家族と別れてから五年をゆうに越している。
当時まだ十歳になったばかりの少女は、その日から誰からも愛情を注がれずに育って行く。
何か物足りなさを感じても、その正体は掴めないまま年月が過ぎ、地球に転移した今尚気づいていない。だが、今のニーナは、自分は充たされていると自覚しているため、正体に気づくのも時間の問題だろう。
風呂から上がったニーナは、素早く着替えてリビングに戻る。電気は付けてあるが、そこに瑞樹の姿はない。
「ミズキ、いないの? ……もしかして出かけてるのかな? 行くなら誘ってくれてもよかったのに」
置いていかれたと勘違いし、今日買った商品を適当に漁っていたニーナは、隣の部屋の扉から光が漏れているのに気がついた。
隙間から中を覗うと、見えたのは瑞樹の後ろ姿。どうやら机に向かって何かを調べているようだ。
「えっと、確かこの部屋には入るなって言われてたんだっけ。大事なものが沢山あるとか……」
瑞樹がこのルールを提唱したのは昨晩の事だ。事実この部屋には、化学の実験で使うような薬品も多種保管されていた。
ニーナは今すぐ部屋に突入したい気分でいっぱいだった。
入るなと言われると入りたくなるのは、日本人に限った話ではない。全世界共通な人間の摂理だ。
音を立てないよう細心の注意を払いながら、僅かに開いていた扉を開ける。やがてニーナが入れるほどの隙間が出来ると、こっそり中へと足を踏み入れた。
(大丈夫、私はお礼を言いに来ただけ。中が気になったりは……ちょっとしかしてないんだから)
そう己に言い聞かせると、足音を殺し、瑞樹に近寄る。瑞樹までの距離は目と鼻の先、二、三歩分しかない。
その間にも小型の機材は沢山あるが、ちょっとした思いつきを実行に移すべく、見物を後にまわす。
……ニーナの目論んでいることは、いかにも子供のやることだったが――そんなのは関係ない。
「わぁっ!」
瑞樹の背後に立つと、肩を揺すると同時に後方で声を上げる――が、瑞樹は特に臆することもなく冷静に振り向いた。
「何をしているんだ、お前は。用もなく入るなと言ったはずだが?」
予想外の返しに意表を突かれたニーナだが、考えておいた用事を大義名分に、たじろぐことはない。
「あ、えっと。確かこの世界には、魔法の代わりにカガクって言うのがあるんだったよね」
「ああ、今日散々見ただろう。あれだ……が、それがどうしたんだ?」
その表情は、本気で分かっていない時のそれだ。無理もない。ニーナの質問は、あまりに突拍子もなさすぎたのだから。
そして――。
「私ね、科学使いになろうと思うんだ」
瑞樹の聞き返しに対する回答もまた、突拍子もない宣言となった。
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