第9話 新たな生活で③
膝に手を乗せ自然な動作で立ち上がった瑞樹は、ゆっくりと自分達の落ちてきた階段を振り返る。
全ての段において階段の面影があるのは両端のみであり、ボロボロに割れた木の破片が茨となって上を歩くことを拒む。
階段を登るのはおろか、降ることさえままならない状態だった。
「これは酷い」
この光景を一目見るだけで、大方何が起こったのかは容易に想像できる。
それほどまでに、誰かが落下したという事実が明明白白としていた。
この様子を一言で言うならば、正にそれだった。
使用不可能な次元にまで床を粉砕した瑞樹達だが、彼ら悪いことは一切していない。木製の階段自体が腐りかけていて、とっくに使用期限は終わっていたものだ。
普通なら瑞樹達が壊した分の弁償をすることはない。消費期限の切れた食品を食べて腹を壊しても、製造会社は何も悪くないのと同じように。
弁償するとしても借りた鍋、そのくらいだ。
しかし相手が「まだ大丈夫だ」と信じてきた人なら厄介なことになる。瑞樹に再建に対する資金を請求しに来る恐れがあった。
もしそうなったとしてもきちんと調べれば現実は浮かび上がってくるし、そもそも瑞樹に金を出す気がないこともなかった。
この家に住み始めた初日には建物ごと買い取って、自分で運営してやろうと本気で考えたくらいなのだから。
ただそれは時間がかかり、面倒くさいことに違いない。だから誰かに見つかる前にその場をずらかることにした。
(まあ話し合いにつけ込んで建物を買収してもいいんだがな)
するならせめてニーナの件がひと段落してからにしてくれ。この気持ちが脳裏に浮かび、実行できずにいたが。
半歩ずつ小さく歩き、敷地を出る。
行動がまるでこそ泥のようだったが、その点に触れてはならない。
細かな努力のお陰か――まあ違うだろうが――誰にも見つかることなく、鮮やかな動作で脱出に成功した。
家から歩き慣れた道を通って向かう先は、瑞樹の通う高等学校――の隣にポツリと
学校近辺なこともあり、瑞樹は知り合いにニーナといるところを見られるのを遠慮願っていた。
女子と話さないこともない瑞樹だが、過剰な接点は持たないようにしてきた。というか元より彼の方から話しかけることはほぼなかった。
そんな瑞樹が女を連れて歩いているんだから、驚愕ものだ。
広められ、質問攻めにあう。瑞樹はそれを嫌っていた。
瑞樹にとっては見飽きた通学路だが、異世界の住人ニーナからしてみると何もかもが新鮮な景色。
キョロキョロと辺りを見渡しながら歩く為、その足どりは遅い。
「遅い。置いていくぞ」
「あー、待ってよー!」
瑞樹との距離が開くと駆け足で隣まで戻ることを繰り返していた。
まるで河川の流れに逆らって泳ぐ親ガモと子ガモ。
瑞樹が肯定することはないだろうが、側から見れば仲が良く、微笑ましいものだった。
二人のやりとりは地下に降りるまで続き。
地下鉄が来るのを待つ間もニーナの興味は、アナウンス、奥から吹き付ける冷たい風、対向を走る車両と次々に移っていった。
もはや彼女の好奇の目の光を遮るのは、小型ブラックホールがあったとしても無意味なレベルまであった。
「そういえば……」
やってきた地下鉄に乗車し空いた席に座るなり、何かを思い出したニーナが髪をいじりながら問う。
ニーナは反対の手で指を立て、
「これってなんて意味だったの?」
それは、瑞樹が最も答えづらい問いだった。というか答えたくない。
立てた指は小指。
正面に座っていた女性数人組がそれを見て何やら盛り上がっていたが、瑞樹はどうでもいいと意識から外す。勘違いは正しておきたかったが、どうにもならないことは存在するのだから。
「ねえ、ミズキ? 聞こえてる?」
「勿論聞こえれる、が――。ごめん、俺には説明できそうにない」
瑞樹は教えることを放棄した。
諦め――ではなく、戸惑い。
気にすらことはないとは言っても、この状況下では伝えたくなかった。瑞樹にも恥じらいはある。
「ちょうどいい言葉を探しておく。見つかったら教えるよ」
「ふーん? まいっか」
そう言って窓の外に視線を移すと、それ以降問い詰めることはなかった。
現代日本の巨大都市。
そこでは数多くの最先端技術が取り入れられ、訪れる人々に歓楽に安全性、何より利便性を与えてきた。
それは都市だけにとどまらず身近な所まで、探せばいくらでも出てくるほどだ。
自動車に信号機、屋内に入れば冷房にエレベーター、電気もそうだ。目に見えてわかるものから回線などの認識できないものまである。
今や現在の日本では、いや、世界中でこれらは必要不可欠なものとなった。
別に無くても生活はできる。できるが、その質はぐっと下がる。まるで両手の塞がった状態で生活しているかのように。
なくてはならない、あって当然、自明、当たり前の日常、普遍であり不変、決まった現実、既定事項、恒常的、自然、適当…………。
現代人にとって、そういった存在だった。
だがそれも長年かけて慣れてきたからこその話。
これまでの人生を人里離れた山奥で暮らしてきたような人が新幹線を見たら新種の生物のように思えるだろうし、田舎の老人はスマートフォンを知らない。
初めてのエスカレーターでうまく乗れなかったり夜なのに明るいことに度肝を抜かれたり。
個人差はあれども結論は総て経験の有無だった。
むしろそういった人からしてみれば、扱いにくく居心地悪い。そう思えても相違ない。
これは瑞樹の考えであり、ならば生まれ育った環境の全く異なるニーナにも同じことが言えるのではないか、とも思っていた。
そう、思っていた。それは過去の話。
瑞樹はこの説にニーナが当てはまらないことを、ついさっき確信した。
どんなものを見ても真新しいものを見る目しか向けず、エスカレーターなどにも難なく対応し、不平不満を言うことはない。
「すっごーい! 階段が動いてる!」
むしろ新鮮な体験に、楽しんでいた。
ニーナのいた世界がどのようなものなのか瑞樹が知る由はないが、ニーナのこのはしゃぎっぷりからして似たような技術と触れ合ってきたとは考え難い。
ニーナが外に出るのは久しぶりな為、その技術事情をはっきりと言い切ることはできないが。
しかし世界がどうであろうと彼女が例外であることに間違いはなく。
瑞樹はこの思想の専門家ではないので白昼堂々と言うことはできないが、意見の考え直しは必要だなと、静かにため息を吐いた。
地上に出てすぐ、太陽がやたらと激しく瑞樹を照らした、そんな気がした。
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