時の抜け殻



 今でも覚えている。中学の時、いつも怯えた目をして周りの様子を伺ってばかりいた、あの子のこと。

 おれも恵も何度か遊んで、こいつとはもう関わらないほうがいいと判断したある女子が、ひどく冷たい目であの子を見ていたことも知っていたけれど。おれたちがそいつのやったことを知ったのは、あの子が登校拒否になった後だった。

 だから許してほしいとか、そんなことは思わない。兆候に気づいていて何も行動を起こさなかったのだから、おれだって同罪だ。

 少し陰口を叩いているくらいかと、そう思い込んでいた。しかし、いじめた側のしたことは思い出すたびにおぞましいと感じるような、ひどいことだったのだ。

 ごめん、おれは臆病者だった。きみは悪くない、そう伝えたくても、あの子はいない。そもそも、一度も本人と話したこともないおれがそんなことを言うのも、何かおかしい気がした。

 恵は頑張った。あの子のいじめの件で学級委員会が開かれた時、いじめの首謀者が笑いながら、


「あいつがブスなのが悪いんじゃん。あいつの例の写真見た? デブすぎて笑えるよね」


 空間が凍った。誰もがあまりの言いように一瞬行動を止めた時、恵だけが素早く席を立っていた。

 恵はほとんど間髪なしに、首謀者を殴った。椅子が大きな音を立てて床に転がる。

 赤くはれた頬を押さえてまだ何か言い返そうとする首謀者に、恵は叫んだ。


「あんたなんかに、夏江さんの気持ちが分かるわけないわよ! この卑怯者!」


 なんだと!? と立ち上がり、首謀者が恵を殴り返そうとしたので、おれは慌てて振りかぶられた手を強く掴んだ。

 呆然としている担任の先生に、「先生! ぼーっとしてないで対応してよ!」と大きい声で助けを求めたところで、ようやく周りが動き出す。

 結局、いじめをした側へのおとがめはほとんどなかった。親に事情が説明され、ひどく叱られたくらいで。

 あの子は、とうとう卒業式にも来なかった。恵が卒業証書のケースを見つめながら、ひどく悲しそうに、


「あの子、卒業証書を受け取ることもできなかったんだね」


 まるで、一緒に卒業式に出たかった、とでも言うように。

 でも、そんな資格ないだろ。おれたちに。

 そう言うのはやめておいた。代わりに、


「また会えたらいいのにな。そうしたら、今度こそ」


 最後の言葉が掠れる。恵も、うつむきながら頷いた。

 助けたい。助けたかった。きみのこと。





 おれたちとあの子はそれ以来、顔を合わすこともなかった。だから、大学であの子に再会した時は、本当に驚いた。よかった、生きていてくれて。そう心から思う。

 きっと、あの子もおれたちとまた会って葛藤したことだろう。あの頃のことは思い出したくもないはずだ。でも、おれと恵を名前で呼び、困ったように笑うあの子は中学時代とは全く違っていた。これなら、一緒にいられる。おれも恵もきっとその時はそう思っていた。恵とあの子が、大学で出会った遠藤京介に恋をするまでは。

 京介は分かりやすいくらいにいいやつで、知っていくうちにこいつはおれの生涯の友になるんじゃないか、なんて予感はしていた。

 おれと恵と京介と藍。四人でいると不思議なくらい楽しくて、おれは純粋にみんなといることが好きになっていった。心のどこかで、これであの頃の藍に対しての後悔を晴らせたなどと、そんなことを考える姑息な自分もいたのかもしれない。だからかもしれない。藍が突然、京介に告白して付き合うことになった、と言い出しておれらから離れていくような行動を起こしたのは。

 そう言われた時の、恵の驚きと悲しみで埋め尽くされたような目が忘れられない。おれはただぼんやりと、恵は今まで複数の男と付き合ってきたけれど、本気で好きになったのは、京介が初めてかもしれないと、冷ややかな目で恵を見ていた。

 ほら、一番先にお前がおれを選ばないから。だからどんどんややこしくなっていくだろう。こうなったらおれみたいな良好物件、一生選ばせてやらないから。

 改めて誓った。告白なんて絶対にしてやらない。もう大学生だったけれど、おれは子供だった。今の自分ならば失恋した恵に取り入って関係を築くぐらいできただろうけど、そんな発想は全くなかった。

 恵がおれを選ばないなら、とことん不幸になればいいだとか。そんなことしか考えられなかった。おれもあの時は、相当闇に堕ちていたんだろうと思う。

 ただ今までどおり恵と接することができればそれでいい。幼い考えで、京介と藍を見捨てた。

 京介のことは時々大学内で見かけることもあった。彼の顔がどんどん青くなって疲れた表情になっていったので、何かあったんだと予想して、彼と会うために数日間学食に通った。そのかいあって、京介と昼食を共にすることができた。久しぶりすぎて、目は合わなかった。

 藍が大学に来ていない。家に引きこもっている。そう聞いた時、おれはバカすぎる自分を責めた。だからこうなるって分かっていたようなものなのに、おれはまた間違いを犯した。急いで恵に連絡したけれど、会いに行ってみると返信があったきり、恵と連絡が途絶えた。

 次の日、授業が同じだった恵に何かあったのかと聞いたけど、恵は何もないと表情をこわばらせるばかりで、何も言わない。

 今度、京介に様子を聞いてみよう。

 その二日後だった。藍が自らこの世から去ったのは。




 あの頃のことは、ほとんど思い出せない。思い出したくない。

 恵も京介も泣いていた。でも、おれは泣けなかった。

 助けるって誓ったじゃないか。中学生の時の分、いっぱい一緒にいるって。

 おれはまた自分のおかしな欲にかられて、あの子を見捨てたんだ。最低だ。何一つしてあげられなかった。

 汚い自分、死にたい。

 その時、生まれて初めてそう思った。でも、あの子は何十回も何百回も、数え切れないくらいそう思ったのだろう。悔しかった。何もできなかった。

 ごめん、京介。全部、全部背負わせた。心に傷を負わせた。いくら謝っても足りないくらいひどいことをした。

 その時、ようやく気がついた。恵にも京介にも、藍にも、ただ笑っていてくれるだけでよかったんだ。おれは。

 


 藍がいなくなっても、京介はおれから離れていかなかった。いつも三人でいた。おれと恵と京介はそれからのほうがずっと密度の高い時間を過ごした。

 藍のことは、大学にいるうちは誰も話題にしようとしなかった。卒業して、みんな就職して。少し距離ができると、少しずつ少しずつ傷が癒えて、昔のことを思い出してもショックを受けなくなって。

 小さかった自分をバカだったと笑えるようになった頃に、おれは自分の気持ちを恵に伝えるべきだと思うようになった。

 保育園で同じクラスになった時から、寸分違わなかった想い。迷走した時期もあったけれど、恵のことが好きなのは何も変わらなかった。今ならきっと言える。

 ぎゅっと拳を握りしめて、恵を呼び出した場所に急ぐ。

 なんだ、こんなに簡単なことだったんだ。今更気づいて、バカだなおれって心の中で笑う。

 初めから、言わなければ伝わらない。そんなこと、とっくに分かってたことだったのに。

 きっと、おれは振られる。でも行動に出るのと出ないとじゃ、全然心持ちが違う。

 恵が好きだ。派手な身なりで防壁を作って、弱い自分を隠そうと必死な、そんな不器用な恵が。

 だから幸せになってほしい。世界で一番、幸せに。




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