かごの蛍



 根暗で、ガリ勉で、つまらないやつ。

 小学校から中学にかけて、わたしはクラスの中心的存在の人たちにとって、いてもいなくてもさほど変わらない暇つぶしでいじるだけの、どうでもいい女子生徒だった。

 陰口を叩かれるどころか、目の前で罵倒されることもあり、そのたびに、いつも一緒だった二人の友達が、わたしをかばってくれた。まるで自分のことのように、怒ってくれた。

 志緒のこと、悪く言うな! そう言って、トモちゃんがわたしの悪口を言った人の首根っこをつかむ。

 気にしちゃダメだよ、あっち行こう。ユイちゃんが、泣いているわたしの手を取って、廊下に連れて行ってくれる。

 志緒、泣かないで。私たちがいるよ。

 二人の手は、暖かかった。この子たちと、ずっと一緒にいたい。高校に行っても、大学に行っても、それからも、ずっと。

 



 三年生になると、そろそろクラス内でも受験ムードが漂ってくる。進路指導表が配られたある日、わたしとトモちゃんとユイちゃんは、中学生になって初めてどこの高校を受けるかという話になった。

 わたしが高校の名前を言うと、二人は目を見開く。そして、「そっかー、志緒、頭いいもんね」と、沈んだ声を出す。


「私たちは、東高」


 今度はわたしが驚かされる番だった。その高校は、わたしが受ける高校よりも数段下の成績の人が行く高校で。でも、そんなことはどうでもいい。

 

「一緒の高校に行けないの!?」


 思わず、悲痛な声を出してしまう。二人の眉間がぴくりと動いた気がしたけれどその意味も考えられないくらい、わたしは混乱していた。とにかく、二人と高校が別れるということで頭がいっぱいだった。


「仕方ないじゃん、だって」


 言いづらそうに、ユイちゃんがぎゅっと拳を握る。トモちゃんが険しい顔で、こう続けた。


「私たち、志緒みたいに頭よくないもん」


 二人はまるでそれが恥ずかしいことのように、私から視線を逸らす。

 それまで成績を意識したことなど一度もなかった。自分が二人より勉強ができるだとか、どうでもよかったのだ。中学では。

 でも、高校からは違う。みんな自分のレベルに合うところに進んでいく。

 泣きたい。二人がいなければわたしはどうなってしまうのだろう。ずっとひとりぼっちで、周りから忘れ去られていくのだろうか。

 そんなの、いやだ。その気持ちひとつで、わたしは二人に縋るようにぎこちない笑みを浮かべる。


「合わせるよ、高校。トモちゃんとユイちゃんに」


 二人はきっと怪訝な表情をしていたと思う。わたしはそんなことにも気づかず、機嫌を取るように口角を上げる。


「だから、ずっと一緒にいようよ」


 トモちゃんもユイちゃんも、しばらく黙っていた。けれどトモちゃんが「分かった」と呟くように言ったので、わたしは、ほっとして口元をゆるませる。

 よかった。これで、高校でも一緒にいられる。

 トモちゃんが諦めるような、でも苦しそうな顔をしたのを見て、どうしたの? と声をかけようとした時。


「志緒の気持ちは、分かったよ」


 二人は連れ立って廊下を歩いていく。

 一人取り残されてわたしは呆然と立ち尽くした。

 自分の席に戻って空っぽな頭のまま、いけないことを言っただろうかと自問する。

 でも、二人がいないとわたしは本当にだめなのだ。成績なんて、進む高校なんてどこでもいい。二人といられればそれでよかった。

 だってトモちゃんとユイちゃんがいなきゃ、わたしは学校でひとりぼっちになってしまう。

 お母さんがわたしを置いて、買い物に行くと言って出かけて、それ以来二度と帰ってこなかった時みたいに。

 まだ幼稚園児だった私は夜までひとりで過ごした。パパが仕事から帰ってくるまで、ずっとずっと、お母さんを待ち続けていた。

 それからはパパが一人で、わたしを育ててくれた。パパ、大好き。これで、ひとりぼっちじゃない。

 二人はわたしにとってそういう存在だった。いなくなれば、一人で途方に暮れるしかない。

 怒らせてしまった? 傷つけた? 

 でも、それでも。頭の中で言い訳を続ける。

 そうだとしても、わたしには、二人が必要だったのだ。




 翌日、登校すると上履きが見当たらなかった。少し汚れていたから、掃除当番がゴミと勘違いして持っていってしまったのだろうか。とりあえず、スリッパを借りて教室に向かう。

 教室の中に入っていっても、ほとんどの人たちからはいつもどおり無視されて、トモちゃんとユイちゃんにだけ「おはよう」と挨拶をする。

 笑顔で挨拶が返ってくるはずだったのに、二人はにこりともせず、返事もない。

 異様な反応に、もう一度、少し大きな声で「トモちゃん、ユイちゃん、おはよう!」と言って、もっと二人に近づく。

 しかし、二人はわたしの顔を見た後、何やら小さく声を掛け合うと、教室の外に出て行ってしまった。

 呆然とした。意味が分からない。確かに二人はわたしの存在に気づいていた。なのに、わたしを見つめる二人の目は、周りにいる生徒たちとそう変わらない、あからさまに冷たいものだった。

 本当に悪いと思っているなら追いかけてでも謝ればいいのに、混乱していてどうすることもできず、ただ自分の席につく。

 ただただショックだった。二人とけんかをしたことなんて今まで一度もなく、仲良くやってこれたのに。

 もうわたしたちの関係は終わってしまうのだろうか。そんなことも考えたけれど、やっぱりきちんと謝ろう。きっと、あの子たちだって真剣に謝ればきっと耳を傾けてくれる。そう信じたかった。



 なのに、トモちゃんとユイちゃんは徹底的にわたしのことを避け、無視した。謝る機会を与えてくれず、その一日を皮切りにわたしの体操着やペンケースがなくなる事件が毎日のように続いた。

 担任の先生が心配そうに、それは困ったね、心当たりとかある? と聞いてきたが、わたしは自分の予感から目を背けるのに必死で何も答えられなかった。

 絶対違う。二人がやったんじゃない。確かにあの時わたしは二人を傷つけるようなことを言ってしまったのかもしれない。でも、そんなことでわたしに嫌がらせをするような、そんな子たちじゃない。

 わたしは二人に嫌なことを言ったあげく、二人のことを疑っている。わたしはひどい。わたしはなんて嫌なやつなんだ。

 悶々としながら過ごすこと二週間。わたしにとって決定的な出来事が起きた。いつもどおり、人間関係は破綻したまま学校に勉強だけしに行くと、クラスメイトの話したこともない女子が、わたしをじいっと見ていた。嫌な感じがして周りを見渡すと、教室にいる大体の生徒がわたしを遠巻きに見ている。

 小さい声でその子たちが話しているのが聞こえてきた。


「ほんとかな? 柚野木さんが援助交際してるって」


「ほんとらしいよ。前に男の人をパパって呼んでるところ見た人がいるんだって」


「大人しそうなのに、パパ活やってるなんてね」


 何かが壊れる音がした。自分の心が叩き割られるような、そんな音が。

 


 気がついた時、わたしは走って教室を飛び出していた。

 違う。トモちゃんとユイちゃんは、そんなひどいことしない。全部、全部わたしの思い過ごしだ。

 そう心の中で唱えながら、二人とよく行った誰も使っていない教室に向かう。

 教室の窓から二人と他の数人の姿が見えたので、ドアを開けようとした。その時だった。


「ああ、今噂になってるパパ活疑惑? そう、私とユイが言ったの」


「本当のパパらしいけど、なんかあの子父親にべったりで気持ち悪い」


「あの子さ、違う高校を受けるって話したら、なんて言ったと思う?」


 どくどくと、心臓の音がうるさい。とまれ、とまれ。


「合わせるよ、って言ったの。何、その上から目線?」


「私たちのこと、自分より頭悪いからって同情でもしてたのかな」


「バッカじゃない、自分のほうがよっぽどかわいそうなくせに」


 わたしがそのドアを開けることはなかった。全速力で階段を駆け下りて、下駄箱に向かい、そのまま外へ出る。

 校門を出たあたりで、息が上がって立ち止まる。もう一度、走り出そうとしたけれど、苦しくて、もう走れそうにない。

 自分より成績が悪いことをバカにしたつもりは全くなかった。そんなこと高校が離れると聞いた時まで、意識したことは一度もなかった。

 パパにべったりなのは、父子家庭で父親が一人で自分を愛情いっぱいに育ててくれたから、心から尊敬しているだけで。

 自分勝手な言い訳ばかりが浮かぶ。でも、二人はわたしが言ったことを敵意だと感じ、許せないという気持ちになったのだ。

 わたしがいけないことを言ってしまったから。傷つけたから。もし、今まであった嫌がらせが全て彼女らの手によるものでも、素直にそう思うしかなかった。

 この二週間、辛かった。苦しかった。でも、そう感じたのはきっとわたしだけじゃないんだ。二人だって傷つけられてずっと悲しかったんだ。

 わたしは鈍くて、どうしようもない人間なんだ。

 涙がぽとりと地面に落ちる。もう、いやだ。学校、来たくない。



 それから一週間ほど、ずっと学校には行けなかった。布団に潜り込んでばかりいるわたしをパパが心配していたけど、何も話せなかった。

 その間、担任の先生は毎日プリントを届けるついでに様子を見に来てくれた。前から先生のことは大好きだった。優しくて、おもしろい人だ。

 ある日、いつものように先生からプリントを受け取ると、後で付箋が貼ってあることに気づいた。


 明日、学校で空手の試合があるから見に来ないか? すごく強い人もくる大会で、いろんな学校から応援が来るんだよ。楽しいよ!


 と書いてある。

 正直、ただ単純にかっこいいなと思う以外、空手に興味はそれほどない。でも、先生が誘ってくれているのを断る気にもなれなかった。学校、という言葉に少し憂鬱な気分になるけれど、大会だけを見に行くなら大丈夫かもしれない。

 わたしは、行きますと先生に電話で返事をした。先生なりに励まそうとしてくれているのかな。ちょっとだけ胸があったかくなる。

 学校を休んでいた間、ずっと考えていた。何か目標があればわたしも前向きでいられるかもしれない。なんでもいい。自分が納得できることなら。

 深く息を吸って、口からはく。そうすると、少し心の中が澄んだような気がした。



 次の日の放課後時間、先生が家まで迎えに来てくれた。久しぶりの学校で緊張しているわたしを、先生は他愛もない話をして安心させてくれた。

 体育館に向かうまでの廊下を歩いている時、トモちゃんとユイちゃんを見た。二人はわたしに気づいていないようで、もう一人の知らない女の子と一緒だった。

 信じられないくらい、心臓がいやな音を立てる。でも、先生が一足先に体育館の中から、ほらおいで、と笑ってくれたから、なんとか歩いていくことができた。

 体育館に入った瞬間、大きな歓声が耳を揺さぶる。思わず両手で耳を押さえながら前に進んでいくと、わたしはあるものに視線を奪われた。

 茶色いしっぽのようなものが、びゅんびゅんと動いている。よく見てみると、それはある女子選手の高い位置で結ってある髪のようだ。

 その選手がかっこよく蹴りを入れるのを見て、わたしは一瞬のうちに夢中になった。何あの人、すごい。

 隣で見ていた人が選手に大きい声で頑張れ!と応援しているのを真似して、わたしも、


「頑張れーーーー!」

  

 としっぽの君(仮)に声援を送る。久しぶりに大きい声を出した気がする。なんだかすっきりした。

 先生が笑って、


「あの子、今話題の選手なんだよ。全国大会で表彰台に上がったこともあるんだ」


 色々と説明してくれる先生の声は、わたしにはほとんど聞こえていなかった。でも、


「香椎。香椎奈津美さんっていうんだよ」


 それだけは、はっきりと耳に入ってくる。

 わたしはそのあとも、香椎さんの応援を続けた。彼女が優勝した時は飛び上がって喜んだ。

 大会が全て終わった後、先生が家まで送ってくれると言うので一緒に帰り道を歩いていると、先生が嬉しそうに、


「香椎さんも成績優秀なんだ。色々事情があるだろうからまだ分からないけど、レベル的には柚野木と同じようなところを受けるんじゃないかな」


 ほんと!? と目を見開く。目標、見つかったかもしれない。


「色々あって大変だったけど、柚野木はひとりじゃない。お父さんも先生もいるし、一生懸命応援してあげた香椎さんも、きっときみのこと好きになるよ」


 先生はそう言って、優しく笑った。

 本当に久しぶりに、笑みがこぼれた。

 香椎さんと友達になりたい。今までみたいな依存した関係じゃなく、対等な存在として。

 でも今のままじゃだめだ。頑張って、強くなって。そうだ、髪を染めよう。彼女と似た彼女より明るい茶色に。



 わたし、ひとつだけ嘘をついた。奈津美と初めて会ったの、本当はこの学校じゃないんだ。

 そう切り出し、わたしは中学の時の話をした。

 彼女は心から驚いた顔をして、わたしの肩をぽんぽんと叩いた。


「援助交際なんて、志緒が一番しなさそうなことなのにな」


「わたしも悪かったんだよ。もう完全に友達に依存してて、自分のためだけに一緒にいたかったんだもん。そんな関係、長く続くはずないよ」


それに、と続ける。


「奈津美とまた会えたしね」


 好きだと言い合えて、心を許せる相手がわたしにはいる。

 ひとりぼっちじゃないから。頑張って生きていれば、いつかきっと出会える。


「志緒大好きー」


「わたしもー」


 運命の人と。

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