空にとけていく



 大学を卒業する頃、俺は恵に告白された。

 気持ちを受け入れなかった俺に、恵は泣きそうな顔で、


「うん、でも」


 恵の細い肩が、小刻みに揺れる。傷つけているのは俺だ、と思ったら、俺まで辛い気持ちになった。でもそんなの、身勝手すぎるって分かってる。


「でも、私、京介がこっちを向いてくれなくても、私は、ずっと好きだから」


 恵はそう言って、こんな俺に笑ってくれた。

 恵のことは、本当に大好きだった。友達として。

 友達として、という言葉が後ろに付く理由は、俺が恵のことを本気で恋愛として好きだったとして、誰にもとられたくない、自分のものにしたいと強く求めて、告白を受け入れることくらい、できただろうなと思うから。

 でも、俺はそうしなかった。恵が俺を好いてくれていることだけを、純粋に考える気になれなかった。

 だからそれからしばらくして、洸希と飲みに行った時。


「京介ー、お前、彼女つくんないの?」


「洸希こそ、ずっといないよね」


「おれはいいの。ずっと片思いしてるから」


 すごく、すごく嬉しかったのを覚えている。

 その相手が恵だということは、もう聞かなくても分かってしまっていた。

 ずっとすれ違っていた、大好きな恵と、大好きな洸希が幸せになってくれるなら、こんなに嬉しいことはない。




 洸希と恵が同棲している部屋までは、電車に乗って少し歩かなければならない。

 俺はのんびりと歩いて、二人の部屋へ行った。結婚のお祝いを言うためだ。

 扉の前でベルのスイッチを押すと、いつもどおり少し雑な言い方で、洸希が「入って入って」と顔を見せる。俺は促されるままに、二人の愛の巣へ入っていく。


「恵は友達に結婚の報告するために出かけてるからいないけど、ゆっくりしてってな」


 かなり立派な部屋をきょろきょろと見回しながら、


「同棲までしてるなら、早く言ってくれればよかったのに」


「ごめんごめん。恵が、どうしても京介には言うなって言うから」


 その発言に、「なんで?」と尋ねると、洸希はおかしそうに笑って、


「ここ一年とちょっと、おれと付き合っていながら、お前に結婚する気になった? とか言ってた自分が嫌だったんじゃないの。おれ、気にしないって言ってんのに」


 気にしていないのだろうか、本当に。

 洸希は俺のことをすぐに許してしまう。出会った時からそうだ。あの時、彼女の異変に気づきながら、すぐに頼れなかった俺を、彼は責めたりしなかった。

 大きなソファーに腰掛け、緑茶で乾杯してから、洸希は嬉しそうに、「京介、楽しそうにしてるな」と少し小さな声で呟く。


「うん、楽しいよ、毎日」


「副担任、やっぱり向いてたんだな」


「生徒といっぱい友達になれたし、みんな気さくに話しかけてくれるよ」


 洸希は、「ええーなんだよー」とすねたように口を尖らせる。


「しょっちゅうお前つかまえて会社の愚痴ばっかり言ってるおれが惨めじゃーん」


「洸希の愚痴、いつも楽しそうだよ」


「そうかー?」


 どれだけ洸希が頑張って仕事をしているかは、この部屋を見れば分かる。俺は、うん、と頷く。洸希は、途端に顔をゆるませ、


「恵にも、洸希には今の会社が合ってるよって言われるんだよな」


「さすが、恵は分かってるね」


 二人がお互い幸せな様子を見ていると、一つの疑問が浮かんでくる。


「そういえば、洸希はいつから恵のこと好きだったの?」


「保育園から一緒だからなあ。もう記憶にないことも多いけど、覚えてる範囲では、四歳の頃からかなあ」


 洸希は、二人が保育園でいたずらをした時のことを話してくれた。

 逃げ遅れた恵だけが保育士の先生に捕まって、洸希は物陰に隠れてその様子を見ていたという。

 叱られ、他にも一緒にやった子はいるの? と問い詰められ、恵は、「一人でやったの」と嘘をついた。


「その時にさ、こんなふうにかばってくれるの、この子だけだなって思ったら、なーんか意識しちゃったよな」


「で、洸希はその後どうしたの?」


「そりゃ、飛び出しておれも一緒にやりましたって言って、一緒に叱られたよ」


 その時から既に、二人の関係性はできあがっていたのかもしれない。


「まあ、長いこと片思いしてたから、途中で他の子と付き合ったりもしたけど、やっぱり恵のこと吹っ切れなくて。その子たちには悪いことしたけど、恵が特別だって分かった」


 離れても、いずれ重なり合う。そんな二人は、きっと結ばれることが決まっていたのだ。


「恵は、洸希の運命の人なんだね」


 照れたように首を縦に振ってから、洸希は俺のほうをじいっと見た。


「京介だって、おれの運命の人だったなって思うよ」


「俺も。洸希がいなかったら、何も知らなかったよ、きっと」


「お前なら、そのうち恋愛もできるようになるよ」


 突然言われたことに驚いて、笑いながら「どうかな」と答えると、


「まだ出会ってないかもしれないし、気づいてないだけかもしれない。でも、京介ならできるよ」


 運命の人と、恋愛。洸希はそう続けた。


「ありがとう、洸希」

 

 おう、と軽く返事をする洸希を横目で見る。

 洸希と出会えたから、俺は恵とも出会えた。そんなきみのことが大好きだ。


「本当に、感謝してる」


「おれもー」


 洸希と恵に、この運命の中で出会えて、本当によかった。




 行きの時も目に入ったけれど、二人の家の近くには大きなショッピングモールが建っていて、たくさんの人で賑わっていた。

 駅に向かいながら、すごい、やっぱりこんな地域に住める洸希と恵は頑張ってるなあ、と思う。

 ショッピングモールの入り口から見慣れた人物が出てきた時、俺が手を振る前に、相手のほうから駆け足で近づいてきた。


「先生、こんなところで会うと思わなかった」


 柚野木は、制服を着ている時とは雰囲気が大分違っていた。普段はそのままにしている髪も、今はハーフアップにまとめている。


「柚野木、偶然だな。買い物か?」


「うん、パパとね」


 あ、と柚野木は一瞬目を見開き、「パパって言っても、実の父親ね」と言い直した。


「いや、それは分かってるけど。わざわざ念を押したところを見ると、前に何か言われたことがあるのか?」


「うん、中学生の時にね。柚野木は援助交際してるって噂立てられたことあるの」


 楽しそうに、うふふ、と笑うと、柚野木は、あれ? と首を傾げる。


「先生、何かいいことでもあった? すごくにやにやしてる」


 にやにや、という言葉に覚えがあるからか、俺はびっくりして、


「ほんと!?」


 うん、と頷かれ、俺は顔が熱くなるのを感じながら、目を伏せる。


「どうしよう、恥ずかしい」


 柚野木が意外そうな顔をして、「なんか先生、喋り方いつもと違わない?」と突っ込んできた時には、本当に焦った。


 俺は洸希と出会ってから、ずっと洸希のやり方を真似ていた。

 香椎の友達探しも、洸希が俺にしてくれたことをそっくりそのまま真似ただけだ。

 大学生当時、俺と洸希は喋り方が幼かった。あんたたちって、ちょっと喋り方のレベル似てるわよね。恵にそう言われた時、俺は思った。全部洸希の真似なのに、口調のレベルまで似てたら本当にパクリになってしまう。これからは、喋り方を男らしくしよう、と。

 でも、洸希や恵と会う時は、大学生当時の喋り方に戻ってしまう。

 生徒たちの前では、男らしい俺でいたかったのに。


「でも、本当に嬉しいことがあったんだね」


「うん、親友同士が結婚することになって」


「よかったね、先生」


 後ろのほうから、柚野木のお父さんらしき人が、「志緒ー、もう行くよー」と声をかけてきて、柚野木は、「じゃあ、先生また明日ね」と俺に背を向ける。

 でも、すぐに振り向き、


「あ、先生」


「うん?」


「先生が嬉しいと、わたしも嬉しいよ」


 と言って、笑ってくれた。

 小さくなっていく背中を眺めながら、俺は、ああ言って笑ってくれるあの子たちがいることを、本当に嬉しく思った。

 俺は、この人たちに支えられて、今ここにいる。

 ここ最近、色々な人に励まされた。香椎や辻、洸希にも。

 ここに、彼女はいない。でも、前を向いて生きていこう。

 俺は、幸せ者だ。空を包むオレンジ色を、誇らしい気分で見つめながら、また歩き始めた。

 消えてしまいたいだなんて、思わなくていいんだ、もう。



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