ひねくれ者のバラッド



 恋なんて、絶対にするものか。その時は幸せでも、いずれ俺は相手に汚い言葉を吐くようになる。そうに決まっている。

 あの人のようにはなりたくない。その思いだけで、俺は自分の気持ちに鍵をかけてきた。

 でも、彼女と廊下ですれ違うたびに、どうしようもなく、抑えきれなくなる。

 だめだ。俺は、人を好きになっちゃいけないんだ。そう言い聞かせる。

 ああ、こんな思いするくらいなら。俺なんて生まれてこなくてもよかったから、母さんには、もっと自分を幸せにしてくれる人と結婚してほしかったな。




 いつもどおり、俺たちはクロと遊びながら、裏庭で弁当を食べていた。先生はまだ来ていない。また、生徒の勉強に付き合っているのだろうか。

 俺はすっかり騒がしくなった周りを見回す。

 以前は閑散としていた裏庭は、クロが来てからとてもにぎやかになった。自分の家では理由があって動物を飼えず、その分、クロを可愛がりたい、と言って来る人もいるようだ。やはり、猫好きは多い。にゃんこは世界を救う。にゃんこは紛うことなき正義だ。

 隅っこで数人固まって昼ごはんを食べている女子生徒に視線が向くと、俺はその中の一人が見覚えのある人物なことに気がついた。

 白居すみれ先輩。心の中で呟く。


「あ、すみれ先輩だ」


 香椎がそう言うと、今度は柚野木が「すみれ先輩、やっほー」とあちらに向かって手を振る。向こうから手を振り返してくる先輩に、二人は笑いかけていた。

 そのやり取りを見て、俺は思わず飲んでいたペットボトルのお茶を吹き出す。


「なんだ、辻くん。汚いな」


「大丈夫? タオルいる?」


 当然のように呆れた目をする香椎と柚野木に、「お前ら、先輩と知り合いなの?」と、できるだけ声を抑えて話しかける。

 二人はすぐに頷いて、


「ああ、友達だ」


「辻くん、すみれ先輩のこと知ってたんだ」


 知っているも何も、先輩は俺の憧れの人なのだ。

 初めて彼女を見たのは、入学式の日。新入生代表で挨拶をする予定だった俺は、ものすごく緊張していた。

 なんでだよ、入試の成績いいと、なんで全生徒の前で喋るっていう罰ゲームが待ち構えているんだよ。

 緊張しすぎてお腹が痛くなり、廊下でうずくまっていると、先輩が、大丈夫? と声をかけてくれたのだ。

 多分、先輩にとっては、取るに足らない当たり前のことだった。でも、俺の心には、その優しさが強く響いた。

 それから、廊下で見かけるたび、すれ違うたび、俺は彼女を意識し続けるようになってしまった。


「お前ら、先輩とどうやって知り合ったの?」


「それは言えないなあ」


 香椎が、すっとぼけた顔をする。


「なんで?」


「ひ、み、つ」


 柚野木が、きゃっ、とか言いながら怪しげに笑う。


「なんでだよー!」


 その時だった。後方にかすかな気配を感じ、振り向くと、


「私が、遠藤先生のことが好きで、香椎ちゃんに食ってかかったからだよ」

 

 そこにはすみれ先輩が、涼しい顔をして立っていた。


「すみれ先輩、いつの間に私たちの背後に」


 香椎が、武人ならではの悔しさをにじませる。

 先輩は、ふっと小さく息をつく。


「みんなが話に夢中になってる隙に、ね」


「先輩、忍者ですか?」


 柚野木が青ざめながらそう聞くと、嵐が思い出したように、


「遠藤先生のことが好き?」


「そう。そして、告白して振られたの。ショックだったけど、やっと吹っ切れてさっぱりした。香椎ちゃんと志緒ちゃんとも仲良くなれたし。今は、レベルの高い大学行くために勉強中」


 先輩は、本当にすっきりした顔をしていて、その様子を見ていた香椎が、嬉しそうに目を細める。


「先輩、前を向いたんだな」


「はっきり振ってくれたのがよかったみたい。私のために言ってくれたんだな、ってすごくよく分かったし」


 誇らしそうに、先輩は言った。

 それからすぐ、隅っこで弁当を食べていた先輩の友達が、「すみれー、もう行くよー」と声をかけてくる。「分かったー」と返事をして、先輩は俺たちに、またねー、と手を振りながら、裏庭から去っていった。

 みんなの雰囲気は和やかだったけれど、俺は少しの間黙っていた。そして、話題が切り替わりそうな頃に、ようやく、一言をしぼり出す。


「すみれ先輩、先生のこと好きだったのか」


 嵐が、何かに気づいたように、ああ、と呟くと、


「あの先輩って、ちーちゃんの好きな人か」


「す、好きじゃねえよ、ちょっと可愛いなって思ってただけだよ!」


「なんだ、辻くん先輩のこと好きだったのか」


 香椎は意外そうに、しかし、ものすごくどうでもよさそうに俺の顔を見る。


「だから、違うって」


 次は柚野木が哀れみに満ちた目で、


「残念だね。先輩、吹っ切れたとは言ってたけど、まだ次の恋を探す気はないみたいだよ」


 俺の反応はどうでもいいとでも言うような奴らの反応に、力いっぱい叫んだ。

  

「人の話を聞けー!」





 放課後になり、廊下でいつものように嵐と落ち合う。でも、俺は到底いつもどおりには、嵐の顔を見られなかった。

 

「どうしたの? ちーちゃん」


 昼休みにみんなやすみれ先輩の話を聞いている時から、ずっと考えていたことだった。

 以前、香椎に両親の話をしたことがある。あの時話したことは、当たり前だが全てではない。

 父は、幼稚園の頃の運動会には一切顔を出さなかった。仕事が忙しかったから、らしい。

 そして小学校で初めての運動会、親が応援に来るのが当たり前になった時のことだ。俺の並以下の運動能力を目の当たりにした父は、俺にこう言った。


「どうして、俺の子のはずなのにこんなに運動ができないんだ! お前なんて、俺の子じゃない!」


 父は、学生時代ずっとスポーツをしてきた人だった。それから、父は俺に運動をさせるために色々なスポーツを習わせた。しかし、俺は何をさせても父が満足のいく結果を出せなかった。父は日々、俺を罵倒し、殴った。息子が自分の思い通りにならないことに、ものすごいストレスを感じていたのだろう。

 とうとう、俺に運動神経を期待するのが間違いだったと気づいたのか、父は、お前は運動が破滅的にできないんだから、せめて勉強では一番をとれ、と強く要求した。

 相変わらず、父は俺にとって恐ろしい存在だった。テストで満点を取れないと、いつもどおり怒鳴られ、殴られ、食事をさせてもらえなかった。

 ああ、父さんは、俺のこと嫌いなんだなあ。と、いつも思っていた。

 母さんとも、喧嘩してばっかり。

 父さんは、どうして母さんに俺を産ませたんだろう。

 優しくできないなら、愛せないなら、父さんは家庭を築くべきじゃなかったんだ。

 きっと、俺も父さんみたいな大人になるんだ。暴言吐いて、暴力ふるって。そんなの、嫌だ。

 父さんのようにはなりたくないから、俺は恋なんてしない。絶対に。そう決めていた。

 俺にとっての地獄は、小学三年生になって、両親が離婚するまで続いた。

 二人が別れてからも、俺は父親の支配から抜け出せずにいる。

 

「父さんみたいになりたくないから、俺は、人を好きになれない。怖い。俺もきっと、あんな大人になるんだって思うことが」


 嵐には、家庭の事情を全て話してある。その一言で、俺がおかしい理由が分かったのか、嵐は、俺をまっすぐに見つめて、


「お父さんのことなんて、関係ない。ちーちゃんは、ちーちゃんでしょ!」


 迷いのない目に、視線を逸らせない。

 俺は、目を見開き、でも、とかすれた声を出す。


「でも、すみれ先輩は先生にきちんと告白したんだぞ。俺は、すれ違ったりするたびに、ただ見ていただけなんだ。あまりにも、釣り合わないだろ」


 嵐は、更に思いのこもった表情で、


「でも、ちーちゃん、先輩、すみれっていう名前なんだって、きれいな名前だなあって、すごく嬉しそうに言ってたじゃん! すれ違うたびって、何百回すれ違ったの? おれ、毎日毎日、すみれ先輩を見たってちーちゃんに報告されてたよ」


 畳み掛けるように、言葉を重ねる。

 好きじゃない、好きにはならない。そう、決めていたのに。

 まだ言い訳を並べそうな俺の気持ちに気づいたのか、嵐は俺の肩を両手で叩く。


「認めなよ、好きなんだよ、ちーちゃんは。すみれ先輩のこと!」


 理解した。もう、好きになってしまっていた。好きになってから気づいた。

 俺は、人を好きになってもいいのか?

 

「どうしよう、俺、ダメなのに」

 

 肩が震える。怖い。俺は大好きな相手を傷つける。父さんみたいに。


「全然ダメじゃない!」


 嵐は、そう言い切った。


「大丈夫、ちーちゃんは優しいもん。お父さんとは違うんだもん」


 嵐は、涙ぐんでいる。俺のために。

 そうだ。俺は父さんじゃない。千尋という、たった一人の存在なんだ。

 




 やっと、気づいたのに。俺は、自分の胸が熱くなるのを感じていた。

 俺は自分の中にわき上がってくる感情を、どうすることもできなかった。


「先輩に、告白してくる」


 先輩に、思いを伝える。その決断は、どんな気持ちよりも早く、俺の胸を叩いた。

 俺が先輩に告白することは、父さんの呪縛を抜け出すための唯一の手段なのだ。 

 嵐に背を向け、走り出す。


「ちーちゃん、待って」


「いいから、お前は部活行けよ。ついてきたりしたら、怒るからな!」


 嵐は、それ以上、追ってはこない。

 二年三組の教室に向かい、全速力で走った。

 その時にはもう気づいていた。父さんとは違うことを証明するために、俺は先輩を利用している。

 でも、それでもいい。先輩には、できれば許してほしい。

 これで、解き放たれる気がするんだ。

 俺は清々しい気持ちで、教室の入り口に滑り込んだ。


「白居すみれ先輩、いますか!?」


 すみれ先輩は、驚いた顔をしてこちらを向く。

 

「話があるんです!」


 心臓が、ドキドキ鳴っている。鳴り響いている。

 もう、どうなってもいい。ただ、伝えたい。

 唯一無二の、俺の気持ちを。





 告白した後、俺は先生がいつも一人になりたい時はここに来る、と教えてくれた空き教室の扉を開けた。

 思ったとおり、そこには遠藤先生がいて、俺に気がつくと、にへらと笑い、


「辻。珍しいな、ここに来るなんて。どうした?」


「ある人に、振られた」


 先輩は、最後まできれいな人だった。


 ごめんなさい。でも、ありがとう。


 そう言って、俺を、はっきりと振ってくれた。


「……そうか」


 先生は、何も言わない。ただ、自分の座っている椅子の隣に、俺の分の椅子を運んでくれる。俺は大人しく、そこに腰を下ろす。

 俺は、自分が暗い場所から抜け出すために、先輩を利用した。先輩には、申し訳ないと思う。

 でも、今の俺は、さっぱり振られて、とてもいい気持ちなのだ。


「あのさ、先生。俺、香椎と柚野木と仲良くなる前は、友達っていったら嵐だけだったんだ。それで十分だったし、それでいいと思ってた。でも、あいつらと友達になってみて、分かった。知らないことばっかりだったんだなあって。こんなふうに、あいつらと仲良くなれたのも、色んなことを知れたのも、全部」


 先生の、穏やかな表情に、俺まで口元がゆるむ。


「全部、先生のおかげなんだ」

 

「いや、俺は何もしてないよ。全部、辻たちの努力の結果だ」


 そう言うと思ったよ、と笑って言うと、先生も楽しそうな顔をしてくれる。

 こういう人だから、先輩は先生のことを好きになったのだろうか。そう考えて、うつむく。

 

「俺、恋なんてしないって思ってた。両親が仲悪かったから、絶対、あんなふうにはなりたくないって」


 言うと、先生は得意げに、


「でも、恋は思わぬところに潜んでいる。そうだろう?」


 思わぬ反応に、俺は首を傾げる。


「先生って、付き合ってる人いるの?」


 先生は、少し寂しげに目を伏せる。


「いや、いない。忘れられない人がいるんだ」


 きっと、言えないような事情があるのだろう。

 俺はなんとなく先生の気持ちを察して、元気づけるために、明るい口調で、


「先生がいつまで経っても昔の女引きずってたら、俺たちが悲しいだろ。先生なら出会えるよ、運命の人と」


 先生は、少し目を丸くした後、照れくさそうに頭をかいた。


「辻にも励まされてしまったな。香椎にも、少し前におおいに励まされた」


「それだけ、俺たちが先生に感謝してるってこと」


 先生と、顔を見合わせて笑う。それからすぐ、大きな音を立てて、扉が開いた。


「ちーちゃん、ここにいたの?」


 慌てた様子で現れた嵐に、「嵐、お前どうしたの」と顔を傾ける。


「ちーちゃんが心配で」


「部活、さぼってきたのか?」


 嵐は、いとも簡単に頷いて、「後で行く」と俺に近づいてくる。そして、さっきみたいに、俺の目をじいっと見る。


「ちーちゃん。ちーちゃんなら、絶対いい人と出会えるよ。大丈夫だから」


 なんだか。さっき、俺が先生に言ったことと同じようなことを言う嵐に、くすぐったい気持ちがこみ上げる。

 嵐は俺なんかよりよっぽど悲しそうな顔で、泣いてるんじゃないかって思うくらい、目をうるませていた。


「ありがとな、いつも」


 そう言って、彼の肩を叩く。


「ほら、俺は大丈夫だから、部活行ってこい。またコーチに怒られるぞ」


 涙をこらえるように、嵐はもう一度頷くと、


「うん、じゃあ、行ってくる」


 ここから、空手部が練習している道場へ走って向かったようだ。彼のけたたましい足音が聞こえなくる頃、俺と先生は再び笑い合った。

 不思議だな、振られたのに、なぜか心の中がすっきりしている。

 先生や、嵐、そして、香椎や柚野木がいてくれたおかげかな。

 俺はこれから、どんな人と出会うんだろう。考えるだけで、胸の高鳴りが止まらない。


「これからだよ、先生も、俺たちも」


 そう言うと、先生は柔らかに微笑んで、


「ありがとう、辻」


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