後日談

胸の宝地図



 いつも、先生が一人になりたい時に来ていると言っていた空き教室に、私と志緒は慌てて乗り込んだ。

 思ったとおり、そこにはぼんやりと椅子に座っている先生がいて、私たちに気がつくと、おう! と元気よく声をかけてくる。

 でも、私は先生の挨拶を無視して、その首根っこをひっつかみ、自分で思っていたよりずっと大きくて必死な声で、言った。


「先生ってモテるのか!?」


 先生が、呆気にとられた顔で私を見ている。

 私がなぜその事実を知ったかは、数十分前に遡る。




 自分の席で、私は大きなあくびをしていた。

 今日は朝練がいつもより早く行われ、まだ眠い頭を精一杯研ぎ澄まし、部活に励んだのだが。朝練が終わり、もう完全に目は覚めた、と思って教室に来て、今更私は眠さに翻弄させられていた。

 これから朝のホームルームから授業に入るのに。と、思いつつ、もう一度あくびをしたその時、聞き慣れた声が耳に響いた。


「おはよう、奈津美」


 視界がぼやけていて、何もかもがよく見えない。けれど、この柔らかい声の持ち主を、私は知っている。


「おはよう」


 目をこすり、彼女の顔を見る。

 しかし、その姿を正確にとらえた瞬間、私は驚きで、先ほどの大あくびよりも大きく口を開けることとなった。


「し、志緒!?」


 照れたように口元をほころばせ、「そうだよー」と言う志緒は、本人なのは間違いないが、いつもとは何かが違っていた。


「髪! 髪、どうしたんだ」


 そう、明るい茶髪だった髪色が、かなり落ち着いた黒っぽい色に変わっていたのだ。


「染め直してみたの。どう?」


「なんだか、なんだか」


 激しく口ごもってから、


「すごく、志緒っぽい」


 素直にそう告げると、志緒は、やーん、と可愛く微笑み、「ありがとー」と染め直した髪を愛おしげに撫でた。

 

「わたしも、なんだか自分っぽいって思ったから、嬉しい」


「でも、どうして急に」


 聞いてみると、志緒は少し大人びた表情でうつむく。


「髪の色を変えただけじゃ、強くなれないって気づいたから」

 

 でも、その心の目はしっかり前を向いていると、私は思った。

 志緒は、中学の時にいじめを受けていて、高校に入ったらそういう自分から脱したいと思い、茶髪にしたと言っていたけれど。そういう目くらましみたいなものは、もう自分には必要ないと気がついたのだろう。

 偉いな、志緒。そう言おうとした瞬間、


「香椎さん、いるー?」


 教室の入り口から、大声で私を呼ぶ声が聞こえて振り向くと、そこには全く見知らぬ女子生徒がいた。


「私ですが」


 騒ぎになったら困るので慌てて申し出ると、女子生徒は細い手で私の腕を掴み、強制的に廊下へと引きずっていく。

 後ろから、「奈津美」と私を呼びながら、志緒がついてきているのが分かる。けれど、なぜこんなことになっているのか。私には到底、理解できなかった。

 腰に両手をあて、凄んでくる女子生徒を前に、私と志緒はただただ立ち尽くす。


「私、二年三組の白居しらいという者だけど。ここまで言えば、なぜ自分が引きずり出されたか、見当がつくでしょう?」


 私は、白居先輩というらしいその人を見つめ、


「いいえ、全く」


 白居先輩は、腹立たしそうにぎりぎりと歯を噛み締め、


「分かるでしょ!? きょうちゃんに手を出すなって言ってんの!」


「は?」


 思わず聞き返すと、先輩は「とぼけないでよ!」と更に語気を強める。

 私はなんだかそろそろイライラしてきて、だから、と自分で分かるくらい凶悪な顔で続けると、更に思い切り眉を寄せる。先輩が、少し気圧されたのが分かる。


「さっきから、突然なんなんですか。きゅうちゃんだかきょうちゃんだか知りませんが、一体そいつは、どこの誰ですか」


 隣で、志緒が何かに気づいたように息をのんだ。すぐに、私の耳元で何かを囁く。

 その囁きに、私は驚いて目を見開いた。私たちの反応を遮るように、先輩が怒鳴る。



「遠藤京介先生! 私のクラスの副担任よ!」


 もしかして、きょうちゃんって遠藤先生? 耳元でそう言った志緒に、ぴんぽーん、やったな! と声をかけてあげたい気分。

 まあ、そんなふざけたことは言えないくらい、私は開いた口が塞がらなかったのだけれど。





 それが、数十分前のできごとである。


「先生と結婚するって言ってたぞ。どうして先生がそんなにモテるんだ!」


「奈津美、落ち着いて。さすがに先生の首根っこつかむのはまずいって」


 とりあえず、手を放してから先生に、「先生、もしかして、白居先輩とそういう関係に?」と白居先輩について確認してみる。いや、そんなはずはない。先生のような人が、生徒に手を出すわけがない。散々そう思うのに、白居先輩の言ったことが頭から離れない。



 優しくて、面白くて、かっこいい! きょうちゃんは、完璧なの! 

 私にとってもよくしてくれるし。きょうちゃんも、きっと私と同じ気持ちのはずなのよ。

 私、きょうちゃんと結婚するの!



「あれは、先輩の勘違いというか、思い込みなのか? 答えてくれ、先生」


 でも、先生はある一点を見つめたまま、何も言わない。

 黙っているということは、もしや、本当にそういうことに!?


「先生のばかー! そんな悪い大人だとは思わなかったぞ」


「落ち着いて、奈津美。そんなことあるわけないよ。ねえ、先生?」


 先生は、やっぱり、何も言わない。


「何か言ってくれ!」


 と、叫んだ瞬間だった。

 先生は、突然、口を手で覆い、ぶえくしゅー、と、盛大にくしゃみをした。


「何、いきなりくしゃみかましてるんだ!」


「ごめん! ずっと我慢してたんだ」


「奈津美、首から手を放してあげて」


 ぜえぜえ言いながらとりあえず、先生の首根っこから手を放す。すると、先生は志緒に向かって、「おお、柚野木。髪の色よくなったな」と声をかけた。志緒がにこっと笑ったのを見ると、すぐに話を戻し、


「生徒とそういう関係になったことは一度もないが。白居、とは二年三組の白居のことか?」


「そうだ。最近、先生とよく一緒にいる私を牽制しに来たらしい」


 それは、と何か続ける前に、先生は何かに気がついたように、いきなりふき出した。


「じゃあ、俺と香椎の仲を怪しんでるってことか。安心しろ、香椎、柚野木。俺は生徒に手を出すような大人じゃないぞ」


 何を笑っているのだろう。こいつらみたいな子供と恋愛? あり得ねえ、みたいなことだろうか。なんだか腹が立った私と志緒は、怒りに満ちた顔を見合わせた。

 まあ、安心したけどな。


「それでね、先生。白居先輩、今日の放課後、先生に告白するって言ってたよ」


 志緒が補足すると、先生は驚いたように目を見開いた。そしてすぐに真面目な顔になり、そうか、と呟く。


「先生。真剣に答えてあげてね。大人から見たら高校生の恋って子供っぽく見えるかもしれないけど、みんな本気なんだよ」


 志緒の思いやりが通じたのか、先生は「うん、分かった」と言って微笑んだ。

 そしてふと時計を見て、「もう、ホームルーム始まるぞ。教室に戻ったほうがいい」と時間を知らせてくれた。

 はーい、と二人揃って返事をして、廊下を歩いていく。

 その途中で、志緒が深くため息をついた。


「白居先輩、あんまり落ち込まないといいね」


 そうだな、と答える。私たちには、何もできないけれど。

 先生がどう答えるか、なんて、先生の反応を見ていれば、すぐに分かってしまうことだ。先生の気持ちを変えることは、私たちにはできない。

 でも、真剣に答えることで、白居先輩は前に進めるはずだから。

 放課後は、すぐに部活に行かなきゃいけないから、白居先輩の告白の結果をすぐ知ることは難しい。志緒だって、好き好んで人の恋路に手を出すような子じゃないから、いつもどおり、私の部活についてきて、練習を見ているだろう。

 私がその後の状態を知るのは、全部終わってからになる。そう覚悟して、教室に戻った。





 部活動が終わって、更衣室で道着から制服に着替えているところで、扉が勢い良く開いた。


「奈津美、白居先輩のことだけどーって、ごめん!」


 後ずさりをし、扉の奥へ消えていく志緒。私は今の自分の姿を確認し、ああ、と呟く。まだ下着姿のままだった。


「何、恥ずかしがってるんだ。女同士だろ」


「でも、違うんだもん、奈津美は。わたしの憧れなんだもん。早く、服着て」


 手早く着替えを済ませてから、「白居先輩に会ったのか?」と話を戻してみる。


「うん。空手部の練習が終わる頃に、話しかけてきてくれて。先生、奈津美は本当に大事な生徒で、恋愛関係になるなんて考えられないって、言ってくれたみたいだよ。先輩、勘違いしてごめんなさいって謝ってくれた。それから」


 言いよどむように、深く息を吸うと、


「気持ちは嬉しいけど、生徒と恋愛をする気はないって、はっきり言われたって」


 志緒からそう聞いた瞬間、私はすごく、先生のことが心配になってしまった。

 白居先輩だって、先生の大切な生徒のうちの一人だったはずだ。その生徒が、自分に恋心を抱いてしまった。先生は当然、断ることしかできない。恋愛対象にもしてあげられなかった子に、そうはっきり言うことが、どれだけ辛いか。なんとなく、今の先生の気持ちが、痛いくらいに分かってしまった。

 私は、志緒に、ちょっと行くところがあるから、下駄箱で待ってて。一緒に帰ろう。と言って、先生がいつも一人になりたい時に使っている空き教室へ向かった。





 先生は、やっぱりいつもどおり、そこにいた。ぼーっと椅子に座って、宙を見ている。

 扉を開けても私に気づきもしない先生に、これは大分精神的にやられてるな、と思いながら、先生、と声をかける。

 先生は、にへらと能天気に笑い、


「おお、香椎」


「大丈夫か?」


 そう言いながら、先生の隣まで椅子を引っ張り、そこに座る。


「俺は平気だ。白居は、泣いていたが」


 先生は、悲しそうだった。できれば告白なんてしてほしくなかったんじゃないだろうか。そう思わせるくらい、辛そうな顔をしていた。


「泣かせたいわけじゃなかった。前を向いてほしかったんだ」


 先生は、そう言うけれど。志緒が言っていた。白居先輩は、「これで吹っ切れた。分からないふりをしていたけど、本当は分かっていたんだ」と笑っていたと。

 

「先生、大丈夫だ。先輩、笑ってたって」


「そうか。よかった」


 大切な生徒を傷つけることしかできない自分が腹立たしいのだろうか。納得したように笑っているけれど、どこか寂しそうな目をしている。


「白居も、そのうちいい人に巡り会えるよ。香椎もな」


「なんで私の話になるんだ。私は、色恋なんて当分しないぞ」


「分からないぞ。思わぬところに潜んでいるからな、恋は」


 まるで、自分が恋をよく知っているみたいに言うのが気に食わなくて、私は先生の顔をじいっと見てから、


「先生も、恋とかするのか?」


 思わぬところをつかれた、とでも言うように、先生は目を丸くしたあとで、 


「恋、かは分からないけど、俺だって誰かを好きになって、一緒にいたいと思ったことはあるぞ」


「ええ? いつ?」


「大学生の時」


「その人とは、今も続いてるのか?」


「いや、離れ離れになってしまった」


 でも、先生はきっと、今もその人のことを思っているのだ。なぜだが、強くそう感じた。

 先生は、黙ったまま、窓の向こうをじいっと見ている。いつもならぺらぺらとうるさいくらいに喋り倒すのに。

 空き教室の窓からは、裏庭の様子がよく見えた。先生は、いつも一人で裏庭を訪れる私を、こんなふうに見ていたのだろうか。

 今は、離れ離れになったその人を思っているのだろうか。それとも、白居先輩が気持ちをぶつけ、それを断ったことによって、これから白居先輩と普段通り話せるのか、ということに、一縷の寂しさを感じているのだろうか。

 もう、どちらでもよかった。

 今、ここにある沈黙は、耐えられないものでも、緊張感漂うものでもなかった。


「先生は、今でも、その人のことを」


 思ったことをそのまま口に出してしまったことに気が付いて、私は自分の口を自分の手で塞いだ。

 しかし、先生はいつもとは違う、大人びた顔で、


「もう、忘れようとしても忘れられないことは分かってるんだ。でも、その人を思いつつも、前に進みたいと、今は思ってる」


 先生は、本当にその人のことが好きだったんだなあ。

 私は何も言えなかった。黙ったまま、先生の見慣れない顔を見つめる。

 先生は、どこか遠くを見るような目で、窓の向こうを眺めている。


「香椎や、みんながどんどん前に進んでいくのを見て、俺も感化されたんだな。このままじゃダメだって、思ったんだ。俺も、香椎たちみたいに、前を向いて歩いていきたい」


 そんなの、いくらでも前を向けばいい。そして、


「先生の考え方にもよるけど、先生だって、新しい人と出会って、結婚して、子供が生まれたりして、いくらでも、幸せになればいい」


 先生、幸せに、なってくれ。お願いだから。


「先生はもっと、幸せになっていい。私は、そう思う」


 言い切ると、先生は嬉しそうに笑って、


「香椎、どうもありがとう」



※※※



 その日の夜中、自室で読書をしている時、携帯電話の着信音が鳴り響いた。すぐに画面を見ると、二見恵、と相手の名前が表示されている。俺はもう一度画面を押して、電話を取った。


『京介、どうしよう』


 開口一番、恵は何かに追い詰められているような声で、そう言った。


「何かあったの?」


『洸希が』


 ためらうように、ごくんと喉を鳴らすと、恵は意を決するように、


『結婚しようって』


 俺はさほど驚かず、なんだ、と軽く笑う。


「よかったじゃん」


『ちょっと、なんで驚かないの!?』


「少し前、一年前くらいから、様子おかしかったの気づいてたよ。恵、洸希と付き合ってたんでしょ」


 電話の向こうで、恵が絶句している、気がする。

 しかし、恵はすぐ正直に、うん、と答えた。


『小さい頃からずっと好きだったって言われて、断れなくて』


「素直じゃないな。洸希のこと好きなくせに」


 うるさーい、と盛大に空回りする声が聞こえてくる。


「それで、なんて答えたの」


 恵は俺に気づかれていたのが相当悔しいらしく、数秒間黙った後で、絞り出すように、


『うんって』


「おめでとう」


 照れたように、『ありがとう』と笑う恵が、幸せになってくれればいい。洸希と一緒に。




 恵も洸希も、前を向いて歩き出した。

 次は、俺の番なのかもしれない。


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