最終話 きみのいない未来



 翌日、俺は意を決して、藍の部屋に行った。

 一晩中、彼女のことを考えていた。藍はやっぱり、寂しいんじゃないだろうか。一人でいることで、彼女の不安を大きくさせてしまっているのではないだろうか。

 もう一度、彼女に手を差し伸べる決意をして、ベルのボタンを押す。いつもならすぐに顔を出す彼女が、今日はまだ出てこない。

 寝てるのかな、と直接ドアを叩いてみる。「藍?」と声をかけたが、返事はない。

 なんだか、嫌な予感がする。もしかして、と思い、ドアノブを回してみると、鍵がかけられていなかった。

 慌てて中に入る。そして首にシーツが巻かれて、倒れている藍を見た瞬間、何もかも分からなくなった。

 藍、と何度も名前を呼ぶ。まずは、彼女の存在を確かめるように。しかし、反応がないのが分かると、その声はまるで悲鳴のようになってしまった。

 その時、彼女のそばに大量の便箋があることに気づいた。彼女の字だ。京介くん、と俺の名前が何度も出てくる文面に、くぎ付けになる。

 ぴくりとも動かない彼女。遺書らしき手紙。俺は本気で青ざめた。

 俺はまず、救急に電話をかけた。住所を告げると、すぐに来てくれると返事があった。

 それから、洸希と恵に連絡を入れる。

 十分後に到着した救急車とともに、俺も病院に向かったけれど。

 結局、藍が目を覚ますことはなかった。

 藍がいる病室を出てすぐの廊下で、俺は駆けつけてくれた洸希と一緒にコーヒーを飲んでいた。

 彼は藍のことを知ると、まずは俺のことを気にかけてくれた。

 息が絶えたと分かった後も、彼女から離れたくないと言った俺に付き添ってくれて、洸希は目に涙を浮かべながら、


「お前は、京介は、悪くない。藍は病気だったんだ」


 そう優しく言い聞かせてくれる。

 でも、とてもそうとは思えない。俺が、悪かったとしか。

 もっと、彼女の話を聞いてあげればよかった。大事にしてあげていれば、こんな最悪の事態にはならなくてすんだのかもしれない。

 洸希の到着から十分ほど遅れて、恵も来てくれた。

 ずっと走って来たのだろう。恵は肩で息をしながら、珍しくヒールの高い靴ではなく、スニーカーをはいて現れた。俺たちに駆けよってくる。


「ごめん、ごめんなさい」


 恵が泣いたのを見たのは、それが初めてだった。


「私が悪いの、私が死なせたの。私のせいなの」


 嗚咽とともに紡がれた言葉に驚いている俺たちに、恵は藍の様子を見に行った時にあったことを話してくれた。

 けれど、俺にはそれが引き金になったとは、到底思えなかった。

 直接的な原因だったなら、彼女は恵と別れてすぐに行動に移していたはずだ。


「違うよ、俺の」


 俺のせいだ、と言おうとしたところで、洸希が俺の肩を強い力を込めて掴んだ。


「京介のせいじゃない。恵も、自分のせいだなんて、絶対に思うな。絶対だ」


 でも。あの時、確かに、彼女に、一緒に死んでと言われた時。


「俺、あの時、藍に」


「京介、もういいよ。もう休もう」

 

 恵の手が、俺の手に触れる。

 そのあたたかさに、藍のぬくもりが思い出される。


「あの時、藍に、助けてって言われたような気がしたんだ」


 叫ぶように言って、その場に崩れ落ちる。

 涙があふれて止まらない。彼女に、もう会えないということが、寂しくて悲しくて、たまらなかった。

 二人は俺の身体を、半分ずつ抱きしめてくれる。

 そこに藍の姿がないということに、絶望した。

 だめだ、俺。母さんのことも救えないのに、藍のことも助けてあげられなかった。

 


 ごめんな、藍。母さんも。




 あれからもう、何年経っただろう。

 俺と洸希と恵の三人は、藍がいなくなってからも大学に通い、普通に卒業した。

 そう、何もかも正常だった。藍がいないこと以外は。

 今なら分かるけれど、結局、ああいうことになってしまったのは、誰のせいでもない。きっかけなんて、本人にしか分からないのだ。そう自分自身に言い続けて、彼女がいない毎日を過ごしてきたけれど。悲しみは消えない。今、ここに彼女がいてくれたら、どれだけいいかと思う。

 藍をなくしてから、彼女のような人を救いたい。そう、強く思うようになった。少しずつ、少しずつ傷がつもりつもって、藍は死に逃げてしまったのだろう。彼女の死には、中学時代のいじめも、きっと深く関わっている。

 藍の心は、確かに助けを求めていた。俺はその叫びを、聞いてあげることができなかった。

 辛かっただろう、苦しかっただろう。藍に、申し訳ない。

 今、俺はある高校の副担任になっている。仕事にやりがいはあるし、生徒とも上手くやっている。何より、数ヶ月前、母さんが十年間の昏睡状態から奇跡的に目を覚ましてくれた。

 それだけ眠っていたのだから、色々と分からないこともあるみたいだけど、そんなことは、これからなんとでもなる。俺は、そう信じる。


「やっほー、京介」


 学校の近くにあるアパレル会社で営業をしている恵は、よく顔を出してくれる。


「恵、今日も外回り?」


 そうなの、疲れちゃった。と笑う恵は、あの頃よりも、もっと美人になっていた。

 散々雑談をした後で、恵は指で俺の肩をちょんちょん、とつつく。


「それで、京介。そろそろ私と、結婚する気になった?」


 申し訳ない気持ちになる。

 恵は適当に彼氏をつくりながらも、一途に俺を思い続けていてくれていると、洸希に言われたことがある。


「……ごめん」


「いいの、冗談よ。あんたの心には、まだあの子がいるんでしょ」


 じゃあねー、と手を振って、恵は会社へ帰っていった。

 俺も学校の中へと戻ると、何かが軽快な音を立てた。携帯電話の通知音のようだ。取り出してすぐ、「原洸希」と送信者の名前が出てくる。

 またそのうち、飲みに行こうな! と書かれていた。

 洸希は大手企業のサラリーマンで、遊び歩こうとしない俺を頻繁に飲みに誘ってくれる。

 彼に返信をした後、俺は一人になれる空き教室へ移動した。物思いにふけりたい時は、ここに限る。

 俺は、幸せなのだ。両親がいて、友達がいて、生徒たちがいて。全て順風満帆だ。

 でも、何かが足りない。彼女が、ここにはいない。

 現実世界は正常に回り続ける。きみがいないこと以外は、何も問題なく。

 今でも毎日思い出す。きみの笑った顔。あの時、きみは、俺の全てだった。

 でも、みんな変わっていく。今、俺が全てをかけて守りたいと思うのは、この高校の生徒たちだ。

 がら、と音を立てて、扉が開いた。そちらを向くと、「先生」と俺を呼んでいる、彼女がいた。


「こんなところにいたのか? 学校中探し回ったんだぞ」


「ちょっと考え事をしてたんだ。どうした?」


「あのな、クロがな!」


 クロが可愛い行動をした、と興奮する彼女は、きみと少しだけ似ている。

 きみは、あの時、俺にとって、確かに大事な人で。守りたくて。でも、守りきれなかった。

 俺はきみと過ごした日々を思い出しながら、きみのいない毎日を過ごしている。

 きみがいないのは寂しい。けれど、俺は生きていかなければならない。

 きみのいない未来を。これからも、ずっと。


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