第2話 彼女との出会い



 二人と仲良くなって、俺の大学での生活は一変していくこととなる。

 朝、おはようと言い合い、昼にはともにお昼ご飯を食べる。講義が終わると、都合次第ではみんなで集まって遊び、夕ご飯を一緒に食べに行くこともあった。

 洸希と恵という社交的な友達ができたことで、自然とその他の人物との付き合いも、だんだんと増えていった。

 でも、心から親友と呼べるのは、相変わらず二人だけで。二人もそう思ってくれているだろうと、自惚れてもいた。

 心地いい、そんな関係がきずけていた頃、俺は大学の図書室で、彼女と出会った。

 俺らの通う大学は建物としての設計自体が古く、設置してあるものも古い。

 それは図書室も同じことだ。どう見ても女性一人では届かない本棚の高さ。添えてあるのは、脚がおぼつかない、何十年前のものだってくらい年代物の脚立。

 一人の小柄な女の子が、勇敢にもその脚立に上がり、上の棚にある本を取ろうとしている。

 危ないな、と思い、彼女を注意深く見ていると、予想通り、よろけて足を踏み外すところだった。

 俺は全速力で彼女のもとへ向かい、その細い身体を支える。顔と顔が近づき、彼女は急いで俺から離れようとする。


「待って、危ないから、まず脚立から降りてください」


 そう指示すると、彼女は小さくうなづき、俺の手を取る。そして、ゆっくりと脚立から床へと足を動かす。

 よかった、無事だ、と安心していると、彼女が何やら慌てた様子で、


「ありがとう、ございます。私、藍です、夏江なつえあい


 と、自己紹介をしてきた。ならば、と俺も、


「遠藤京介です」


 じゃ、と言って図書室から去る。まずい、ああいう時に何を話せばいいか分からないから、早々に立ち去ってしまったけれど。優しく声をかけてあげるべきだっただろうか。 

 だめだ。初対面の人と話すのは、未だに慣れない。どくどくと気持ち悪い音で鳴るこの心臓が、俺のコミュニケーション能力が欠如している証拠だ。 

 ああ、緊張した。胸を手で押さえながら、学食で待っているはずの二人のところへ向かう。


「京介ー、遅いぞー」


「どこ行ってたの?」


 不機嫌そうに学食の椅子に座り、足をぶらぶらさせている二人に、ぺこぺこと頭を下げる。


「ごめん、図書室に行ってたんだ。そしたら、危ない子がいて」


「危ない子? なに、どういうことだよ」


 経緯を説明すると、二人は急に興味を持ったようで、あの子について色々な質問をしてきた。

 どんな子だったか、から始まり、お前はその子に気があるのか、という質問まで飛んでくる。

 俺は慌てて、


「気があるとか、そんなんじゃないよ。単に危ないから手をかしただけで」


「でも、その子のこと抱きしめたんでしょ?」


「抱きしめてないよ、支えただけ」


「なんていう子なんだろうな。そうだ、名前とか聞かなかったのか?」


 そういえば、名乗ってくれていたなあ、と記憶をたどる。


「確か、あい。なつえ、あい?」


 二人の声が重なる。「なつえあい?」

 うーん、と何かを思い出しているように腕を組む二人が、同時にぽん、と手を叩いた。


「夏江藍! どこかで聞いたことある名前だと思ったのよ」


「喜べ、京介。おれら、その子のこと知ってるぞ」


 へ? と首を傾ける俺に、二人は彼女について話し始める。


「中学の時の同級生よ、同じクラスだったこともある」


「なんだっけ、あの、ちょっと地味な子だろ?」


 しかし、それだけ告げると、二人はぱたりと話をやめた。


「それだけ、よね」


「一回も喋ったことないな」


 静まり返る二人。しかし、こんなことでくじける人たちではない。すぐに笑顔を戻し、


「でも、知り合いなのは好都合よね」


「京介、その子とのこと、おれらが取り持ってやる」


 止めに入る間もなかった。二人は俺を引っ張って図書館まで連れていき、夏江さんがいることを確認すると、彼女に声をかける。


「夏江さん、久しぶりー。私、二見恵。中学の時の、覚えてる?」


「おれは原洸希。びっくりだな、夏江さんが同じ大学だなんて」


 二人の顔を見るなり、夏江さんはびくっと身構えた。どうしていいのか分からないらしく、落ち着きなく視線を泳がせている。


「それでね、京介が、あなたと仲良くなりたいんだって」


「あいつと、話してやってくれない?」


 え、と俺の顔を見る夏江さんがどうにも哀れで、手を振って答える。

 京介、もっとこっち来いよー、と洸希に呼ばれたので、仕方なく俺も彼女のそばまで近づいていく。


「遠藤さん」


 ほっとしたように息をつく夏江さんに、できるだけ無害に見えるよう笑いかけ、


「さん付けなんてしなくていいよ、同級生なんだし」


「えっと、じゃあ、遠藤くん」


 その会話に、二人がにやりと笑う。


「じゃあ、私のこと恵って呼んで、藍」


「おれのことは洸希な。洸希くん、でもいいけど」


 戸惑う彼女をよそに、二人のテンションは上がる一方だ。


「ねえ、特に仲のいい友達がいないなら、これからは私たちと行動しない?」


「四人でいーっぱい楽しいことしようぜ」


 今度は、俺と夏江さんの「え?」という言葉が重なる。


「どう? 藍」


 問いかける恵の顔から目を逸らし、彼女は確かめるように、俺を見る。


「え、えっと」


「ほらー、京介も、藍って呼んであげろよ」


 洸希がご機嫌で肩を組んでくる。これは、もう逃げられないと判断した俺は、大人しく、


「よろしく、藍」


 笑いかけると、藍は顔を赤らめ、頭を下げた。


「よ、よろしくお願いします」


 やったー、と大喜びする二人に、もう何も言えなかった。だが、予想に反して嬉しそうにしている藍を見ていると、これでよかったのかもしれない、なんて思う。

 それから、俺たちは大学内で一緒に過ごすようになった。

 一度、四人でお祭りに行ってから数日後、藍に話があると呼び出された。


「遠藤くんは、何も知らないんだよね?」


 何を? と聞き返すと、藍は安心したのか呆れたのか、深く息をはいて、もう一度だけ確かめるように、


「あの二人と、中学の時に私をいじめていた人が、仲がよかったってこと、知らないんだよね?」


 驚きで、何も発せない。藍がいじめられていたこと自体、俺は知らなかったのだ。


「最初は、二人のこと怖かったの。あんなに高圧的な人と仲良かった人たちだから。あの二人、私と同じクラスになっても、私のこと、助けてくれなかった」


 だんだん、藍の呼吸がおかしくなってくるのが分かる。

 俺はとりあえず、落ち着いてと言って、彼女をすぐそこにあったベンチに座らせた。


「一緒にいようって言われた時、どういうことって思った。二人は私がいじめられてたことなんて知らなかったかもしれないけど。でも、少しも手を差し伸べてくれたりしなかった人たちが、いきなり友達って言ってきた経験なんて、私にはないから」


 過呼吸になりながらも、懸命に藍は口を動かす。俺は彼女の背中をさすり、大丈夫かと声をかける。

 白い顔のまま、だいじょうぶ、と答えた彼女は、また話し始めた。


「分からないの、自分がどう思ったか。でも、確かに、私、許せないって思った気がするの」


 彼女の頬に、涙の粒がつたう。

 許せないと思ってしまったことが、藍にとっては耐えられないことだったのだろう。


「今も?」


 俺の言葉に、藍の呼吸が止まる。


「今も、許せないまま?」


 藍は首を振り、涙を指ですくった。


「友達って言ってくれて、嬉しかった。一緒に過ごせて、お祭りにみんなで行けて、楽しかった。私、いつのまにかすごく好きになってたの。恵と洸希くんのことも、遠藤くんのことも」


「恵も洸希も、俺も藍のこと大好きだよ」


 思わず、笑みがこぼれる。それはきっと、藍も同じだった。彼女の笑った顔は、俺の記憶にずっと残るだろう。そんな気がする。

 それからは、藍は普通に呼吸ができるようになって、俺と別れる頃にはすっきりとした顔で、


「二人には、今のこと内緒ね。もうみんな友達なんだから、関係のないことだし」


 そう言って、背を向けて歩いていった。

 俺は安心しながらも、いじめが被害者に暗い影を落とすのだということを、実感せざるをえない。

 そういう生徒たちを、俺が支えることができたら。

 深く思いながら、次の講義へと急いだ。


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