最終話 先生



 珍しく朝練がない日の朝。それでも私の目は早くに覚めてしまう。いつもどおりに支度をして朝ごはんを食べると、家を出た。

 最近は学校生活が充実していたから、こんな日は少し寂しい。けれど、前向きにいかなければ。

 今日は時間がたっぷりあるから、いつもとは違う道を通って学校に行こう。そう決めて、普段通らない道を歩き出す。

 歩き始めて数十分。ものすごく大きくて立派なお宅を見つけてしまった。レンガ造りの壁に、広い庭。すごい、こんなところにこんなおうちがあるとは、知らなんだ。

 感動していると、そのおうちのドアが開いた。慌てて移動しようとしたが、出てきた人物にくぎ付けになってしまった。

 制服を着た遠藤先生がいる。隣には、中年の女性。先生のお母さんだろうか。


「行ってらっしゃい、京介」


「行ってきます」


 こちらを向いた先生が、驚いた表情で言う。


「香椎」


「あら」


 お母さんらしき女性が、私を見て口元に手を添える。

 先生、そう呼ぼうとした瞬間、女性がとても嬉しそうに、


「もしかして、京介の彼女さん?」


 え?

 私は絶句してしまった。

 そんなふうに見えることが果たしてあるのだろうか。先生とは年齢が離れすぎているし、教員と生徒の恋、なんて禁断のなんとやらでは。

 先生はいたって普通に「違うよ、友達」と答えた。


「行こう、香椎」


 私の腕をとって、大股で足早に歩き出す。おうちから大分離れたところまで来ると、先生は私から手を放した。

 

「先生、今のは。どうして制服を」


「香椎、前に俺に昔話をしてくれたよな」


 意味も分からないままうなづくと、先生は、


「学校に着くまでの間、今度は俺の昔話を聞いてくれるか?」


 と言って、笑った。



「俺の母親は、俺が高校生になる直前に交通事故にあって昏睡状態のまま、十年間を眠って過ごした。ちなみに、今の人が俺の母さんだ。元気そうだっただろう。数か月前に、十年ぶりに目を覚ましたんだ。リハビリを終えて、家に帰ってきたばかりだ」


 学校近くの公園で制服から私服に着替えた後、先生はベンチに腰掛けて話し始めた。


「俺も父さんも、ものすごく喜んだよ。でも、母さんには十年分の記憶がない。当たり前だ、眠ってたんだから」


 私は先生の隣に座って、ただただ話を聞く。先生がとても真剣な表情をしていたから、私もまっすぐに彼の目を見つめた。


「だから、母さんには、当時高校生になろうとしていた俺が今では二十代の大人だなんて、そんなこと受け入れられなかったんだなぁ」


 悲しそうに、先生は笑う。


「自分が眠っていたことは認めてる。でも、十年なんて、そんな長い年月意識を失っていたなんて、簡単に受け入れられることじゃない。たった数日のことだと思ってるんだ。だから、母さんは、俺をまだ高校生の子供だと思ってる。だから俺は、高校生のふりをしてる」


 その言葉の重苦しさに、私は驚きを隠せなかった。


「さっき、制服を着ていたのもそのせいだ。毎日、家から制服を着て行って、学校から近いこの公園のトイレで着替えて出勤してる」


「じゃあ、初めて会った時に制服を着ていたのは」


 私が聞くと、先生は「ああ」と手のひらをひらひらと振った。


「香椎と初めて会った時は、授業で私服を汚してしまってな。乾かしてる間に着替えられるのが制服しかなかったから、渋々着ることにして目立たないように人通りのない裏庭に潜伏していたんだが。香椎には、見つかってしまったな」


 全然、趣味なんかじゃないじゃないか。私はぎゅっとこぶしを握りしめる。


「高校の制服を持っているのは、あの高校が俺の母校だからだ。俺は高校生の時からほぼ体型が変わっていない。自分が童顔なのをこんなに幸いだと思ったことはないぞ」


 そう言って、またおかしそうに笑う。しかし、すぐにうつむいて、


「母さんが事故にあって、今後、目が覚めるかどうかも分からないと医師から言われた時は、絶望した」


 笑みが消える。それは本当に、先生にとって大きな出来事だったのだと、私は感じた。


「あまりにも落ち込んだ俺は、毎日学校に行っているのにもかかわらず、ほとんど学校とは関係を持たずに高校生活を過ごした」


 まるで、中学生の時の私だ。


「それでもなんとか大学に行って、そこで出会った人たちにものすごく救われた。離れている今でも、ずっと友達だ」


「だから、先生は私に友達ができるようにしてくれたのか」


 今度は、人差し指を立てる。


「友達の大切さを、俺は大学に行くまで知らなかった。香椎には、高校生の時点で知ってほしいと思ったんだ」


 先生はその場で立ち上がり、ふん、と息をはいて言った。


「大学を卒業して、ここに戻ってきて、数年後、目が覚めた母さんを見て、俺は思った。この人が俺のことを分かるようになるまでは、ここにいようって」


 言い終えたのか、先生はいつもの調子に戻った。私に手を差し伸べて、「そろそろ行くか?」と口元に笑みを浮かべる。

 私はまだ、その手を取らない。


「先生、ずっと悲しかったんだな」


「でも、香椎とクロに会えた。柚野木や辻、久賀岡とも。そのほかにも、俺があいしている人、たくさんいる。その人たちがいれば、俺は生きていける」


 先生。私のことも、あいしていると言ってくれるのか。


「……私も」


 先生が「ん?」と耳を向けてくる。


「私も、私たちも、先生のこと信頼してる」


 私に安らげる場所、安らげる人をくれたこと。感謝している。ずっと、ずっと。


「だから、制服を着るのが趣味だなんて、笑って言わないでくれ」


 泣きそうになりながら、先生の手を乱暴につかむ。

 すると先生は、私の手をつかみ返して、


「香椎、どうもありがとう」


 心底嬉しそうに、笑った。




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